NHK杯雑感。藤井聡太竜王・名人、前期印象に残る対局、そして今期の注目は


 先日行われた将棋の名人戦第1局。中盤以降は挑戦者の豊島将之九段が比較的優勢で、そのまま冷静に押し切りそうに見えた。「さすがは元竜王・名人だ」と豊島九段の力を再確認したその終盤だった。挑戦者優勢だった評価値は突如として互角に戻った。原因は豊島九段が最善手ではない1手(4四香)を打ってしまったことにあるが、そこから流れは激変。相手のミスを逃さなかった藤井名人が挑戦者を寄り切り、幸先よく1局目を制した。

 筆者が将棋に目を向けるようになった昨年以降、全てのタイトル戦で藤井竜王・名人は登場しているので、その特徴は否が上にも思い知らされる。

 とにかく終盤に強い。他にも言いたいことはたくさんあるが、最も目につくのはこれだ。たとえ相手にリードを許した終盤でも、常に付け入る隙を狙っている。ときには強引に相手のミスを誘う複雑な手を指すこともある。互角、もしくは多少劣勢の終盤は、もはや藤井ペース。そうした言い方さえしたくなる。

 先述した名人戦と、それと並行して行われている叡王戦。どちらもまだ1局目を制した段階に過ぎないが、藤井竜王・名人が失冠(防衛失敗)しそうな感じはほぼしない。ここから豊島九段が4勝、伊藤匠七段が3勝を挙げる姿は想像しにくい。あまりに安定感のあるタイトルホルダーの戦いぶりを見ると思わずそう言いたくなる。

 強すぎるが上、逆に負けた対局のほうが印象に残りやすい。そうしたなかで筆者が最近目にした藤井竜王・名人が負けた対局は、先月放送された昨年度のNHK杯の決勝戦になる。

 対局相手は佐々木勇気八段。デビュー以来29連勝中だった当時(2017年)の藤井竜王・名人に公式戦初黒星を付けた棋士としても知られる、現役A級棋士のひとりだ。
 2年連続同一カードとなった昨年度のNHK杯決勝戦。展開をざっくりと言えば、藤井聡太NHK杯選手権者の逆転負けだった。最も差が開いた時点での評価値は2%(佐々木八段)対98%(藤井NHK杯)。藤井NHK杯の2連覇がほぼ確実に見えたその終盤、突如として評価値は一気にひっくり返った。

 大優勢の藤井NHK杯がまさか攻め方を間違えるとは。「2%対98%」が一手で「82%対18%」へと変化。互角を通り越して一気に大劣勢へと追い込まれた。そこからは佐々木八段が正着の受けを差し続け逆転に成功。藤井NHK杯を下し初のNHK杯優勝を飾った。

 藤井竜王・名人が勝ちがほぼ見えた状況から逆転負けを喫する姿を見たのは筆者はこの時がほぼ初めてだった。持ち時間の切れた30秒将棋だったとはいえ、あの藤井竜王・名人でもミスをする。それはとても新鮮な光景に見えたものが、その悪手の後に持ち駒の歩を使って考える時間を稼いだ「粘り」も同じくらい印象に残っている。
 歩を無駄に渡すその姿はともすると無駄な抵抗というか、強者に似合わない泥臭い姿に見えたかもしれない。だが僕にはそれこそが藤井竜王・名人の強さの根底にあるものに見えた。そう簡単には死なない。可能な限りジタバタしようとする。逆転負けではあったが、僕にはその姿がかなり格好いいものに見えた。

 NHK杯はタイトル戦ではない。その重みという点では名人戦や竜王戦に及ばないが、現在地上波で放送されている唯一の棋戦でもある。その持ち時間(20分)はテレビで視聴するにはちょうどいい。1時間程度でサクッと一局堪能することができる。長時間のタイトル戦との違いでもあるが、将棋素人の筆者としては長時間の対局よりもこちらの方が圧倒的に見やすいのだ。

 さらにNHK杯のよいところを挙げるならば、強い人、レベルの高い人がほぼ全員出場しているところだ。

 A級棋士、B級1組棋士、総合成績優秀者など、いわゆる有名棋士やタイトル争いに絡む人はほぼ漏れなくトーナメント表に名を連ねる。これまで将棋にあまり詳しくなかった筆者だが、昨年度のNHK杯を1年間コンスタントに目を通したことで、それなりに強い棋士の顔や名前を知ることができた。そこに解説者が話す解説や対局者のエピソードなどが加わると、その知識は見るたびに増えていった。そこからABEMAで放送されているタイトル戦や将棋の番組に徐々に目を通すようになり、いまやすっかり将棋ファンのひとりになったという感じだ。

 ABEMAで放送されているトーナメント戦や地域対抗戦なども面白かったが、こちらはあくまでもお祭り的というか、いわゆる非公式戦だ。持ち時間も含め比較的ムードは軽め。そこまで勝負にこだわるという感じはしないが、NHK杯はれっきとした公式戦だ。早指しとはいえ、それなりに格は高い。緊張感もある。見やすさも含め、手っ取り早く将棋にハマりたい人にはNHK杯はぜひお勧めしたいコンテンツだ。

 先述した昨年度のNHK杯は決勝も含め、他にも印象に残る対局はいくつもあった。決勝以外で個人的に印象に残るのは、2回戦の三浦弘行九段ー永瀬拓矢九段戦。序盤からお互いが駒を激しく取り合う素人目にも面白いぶつかり合いの将棋だった。もうひとつ挙げるならば、同じく2回戦の羽生善治九段ー豊島将之九段戦。2回戦では豪華すぎる対戦カード。その名に恥じない、千日手となった差し直しの2局を堪能できた充実の一戦だった。

 その他で印象に残るのは、居飛車党だった佐藤天彦九段が振り飛車(四間飛車)を披露した対郷田真隆九段戦。6年ぶりにNHKに出場し、その喋りに面白味を感じさせた藤井猛九段。偶然にも放送日(2月4日)と棋王戦第1局が同じ顔合わせとなった準々決勝の藤井聡太NHK杯ー伊藤匠七段戦など、この1年NHK杯を視聴し続けてきたことで、1年前とは比ではないほど“観る将”になったものだとつくづく思う。

 今期(2024年度)のNHK杯は先週すでに開幕。初出場者や返り咲きの人も含め、今期もまた面白そうな対局がすでにいくつか組まれている。すでに対戦カードが決まっている1回戦のなかで個人的に注目したいのは、山崎隆之八段ー藤本渚五段戦だ。先日までABEMAで放送されていた地域対抗戦では同じ中国・四国チームで仲間だった両者。現役最年少棋士でなおかつ昨年度勝率8割を超えた若手のホープがB級1組の実力者にどう挑むか。1回戦では屈指の好カードだ。

 そしてもうひとつ注目カードを挙げるならば、木村一基九段ー西山朋佳女流三冠戦になる。

 木村九段は2019年に初タイトルとなる王位を初タイトル獲得の最年長記録(当時46歳)で獲得した元タイトルホルダー。今期はB級2組に降級したが、A級在籍5期を誇る元A級棋士のひとりだ。とはいえ、木村九段には申し訳ないが、この対局に限っては注目したいのはその対戦相手。西山女流三冠のほうになる。

 現在の将棋界が藤井竜王・名人の1強時代ならば、女流棋界はまさに2強時代だ。8つある女流タイトルを先述の西山女流三冠と福間香奈(旧姓里見)女流五冠の2人で分け合う恰好になっている。ここ2年に限れば、タイトルは全てこの2人による独占状態だ。今期のNHK杯出場女流棋士(1枠)をかけた対局でもこの両者による対局が行われ、勝利した西山女流三冠が3年ぶり3度目の本戦出場を決めた。

 福間女流五冠と西山女流三冠。両者とも奨励会に在籍経験があり、その最高段位はともに三段。プロ一歩手前の段まで辿り着いた実績がある。加えて西山さんのその最高成績は三段リーグ次点(3位)。史上初の女性棋士誕生まであと一息という段まで上り詰めたことは有名な話だ。「女性棋士」に最も近づいた人物とは西山さんに対するこちらの印象である。

 一方の福間さんも三段リーグ退会後は女流棋士として再び活躍。女流棋士として参加した近年の棋戦での活躍により、2022年には棋士編入試験を受験した。合格こそならなかったが、彼女もまた史上初の女性棋士誕生に近づいた人物としていまなお女流棋界のトップに君臨し続けている。

 三段リーグ次点(西山)と棋士編入試験受験(福間)。四段(プロ棋士)に最も近づいたと言えるこの2人が女流棋界のトップなのは当然だ。こう言ってはなんだが、他の女流棋士とは次元が違う。この2強に割って入るには少なくとも奨励会三段レベルの力が必要だとは、この一年将棋を見てきてなんとなくわかったことだ。

 福間さんと西山さんは、低段のプロ棋士よりおそらく強い。少なくとも互角くらいの力は持っている。年齢は福間さんが現在32歳なのに対し、西山さんは28歳。年齢的に福間さんがこの先やや難しく見えるのに対し、西山さんはいまがピークという感じだろうか。棋士編入試験の話をすれば、可能性がありそうなのは福間さんより4歳若い西山さんのほうになる。

 将棋界は現在、藤井竜王・名人という全冠(八冠)制覇を成し遂げた若きスーパースターが圧倒的な存在感を放っている。現在21歳の藤井竜王・名人は同じ21歳の頃の羽生九段よりおそらくだが強い。少なくとも実績ではすでに同じ頃の羽生九段を超えている。では、そんな藤井竜王・名人の次にスターが現れるとすればそれはどんな人物か。藤井竜王・名人を超える棋士が現れることを期待したいが、個人的にそれよりも先に見てみたいのは史上初の女性棋士だ。もし誕生すれば、問答無用で将棋界のスターになる。現在の将棋人気がさらに増すこと請け合いである。

 奨励会の事情はあまり詳しくないが、女性棋士誕生の可能性を見せた先述のトップ女流棋士の2人にはとりわけ今後も注目したい。特に西山女流三冠。今期のNHK杯で1回戦の木村九段に勝てば、2回戦の相手は藤井竜王・名人だ。記念受験ではない、公式戦でのトップ棋士とトップ女流棋士との対局を見てみたいファンは多いはず。そうした意味でも木村九段ー西山女流三冠戦は注目に値する。放送日を楽しみにしたい。

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