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認定NPO法人D×P創業の物語 part2 商社時代の生きづらさ

大阪の商社で働き始めた自分だったが、研修なしで初日から先輩と同じように営業しなければいけない日々が始まった。社長からは「見て学べ」と言われて、僕は先輩が電話している様子や商品名をメモに書き留め、わけもわからないが、とにかく見よう見まねで営業の電話を始めていた。

とはいえ、当たり前の話だが、最初からうまくいくことはない。僕は食肉系の商社に入ったが、特に牛肉とかも嫌いだったので焼肉なども嫌いだった。そのため、そもそも肉の部位の名前なんて全く興味なんて当時はなかった。商品名を覚えるのは本当に時間がかかった。

また、僕自身は細かいことが苦手だったため、凡ミスが多かった。特に配送ミスは最初の半年間ひどいぐらいあった。また会社で配送のときに冷凍倉庫に車を停めようと思ったら、車を倉庫の壁に当ててしまい修理代6万近く会社に損害を出させてしまったこともある。会社では当初、トラブルメーカーだと思われていただろう。

あと、嫌だったのは先輩からの「新人研修」だ。毎日ランチのあと、ドーナツ10個とかシェイク6個とか飲まされながら営業させるのも1ヶ月ぐらい入社から続き、精神的にもつらかった。結局、先輩や社長も巻き込み「ハンバーガー10個、誰が一番早く食べるのか」を競い、社長が勝ったのだが、あまりにも先輩も辛かったのだろう、その日を境に「新人研修」は終わりを迎えたのだった。

ただ、僕自身は仕事が終わってからは楽しい毎日だった。確かに仕事のストレスも多かったが、4月から毎日のように人がくるような生活が始まっていた。日本各地から「友達の友達」がtwitterやfacebook経由で連絡がきて、飲みにくる。僕が帰っていないときでも飲み会は開かれ、夜遅く帰ってきた時には知らない人たちが飲んでいて「どなたですか?」と呼ばれたほどだ。

写真 当時の「もじゃーハウス」の一幕。ここで現在、D×Pの理事になっている塩田(左)ともよく飲んでいた。

いつしか僕の家は僕の髪型がくせ毛のため、「もじゃーハウス」と部屋番号のところに書かれるようになった。「もじゃーハウス」には1年間で300人以上も泊まり、訪れた人はたぶんその何倍も人が集まる家になっていった。

僕はそこで多くの年下の世代に会うことができた。ただ、家に来るのは20代ばかり。それだけだとわからないと思い、学校を回ろうと考えた。

当時、ある教育系の大手企業で学校営業をしている人と出会えた。その子に「高校の営業、一緒についていってもいい?」と話して、会社を休んで朝から高校の営業についていかせてもらったことがあった。普通の全日制高校の高校生たちとそこで出会ったりもして、彼らの話を聞いていた。

あと、とにかく大阪ではほとんど知り合いもいなかったので、仕事以外ではかなりの頻度で飲み会に顔を出した。異業種交流会などわけもわからず参加したり、様々なイベントにも顔を出して教育関係者を探したりもしていた。

たまたま、ある飲み会で出会った席に通信制高校の先生がいた。その人は前職が食肉業界の大手商社にいた。

「僕も食肉の商社で働いているんですよ」

「え、そうなんだ」と気が合い、学校の話を聞かせてもらった。後にその先生から聞いた話はD×Pの始まりに大きな影響を与えていく。

(続く)

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