見出し画像

認定NPO法人D×P物語part1 はじまりの大阪

「誰も知り合いもいない大阪にきたな」

最初の感覚はそんな感じだった。2010年2月1日、大阪市内に引っ越してきた。札幌出身で大学は大分県別府市にある立命館アジア太平洋大学に在籍していたため、大阪は全く未知の土地。知り合いも誰もいない環境の中、就職のためにやってきた。

「人質だって?面白いやん」

写真 引っ越し直後の大阪九条にあった部屋。

リーマンショック後だったため、就職活動が全くうまくいかなかったのだが、大阪の商社の社長が面接でそんなことを言ってくれて最終試験「焼肉面接」も合格し、僕は内定をもらった。当時24歳。

内定をもらった後は全くやりたいことがなかったため、もう一度就職する前に国際協力の世界に戻っておこうと思い、アフリカの南部の国々を回っていた。就職前に2度ほど行っているのだが、バイトしてお金を稼いで3ヶ月ぐらい滞在するのは時間がかかると思ったため、僕はその社長に直談判して「お金を貸してください」と行って20万ほどお金を借りた。それも、社長から「面白いやん」と言われていた。「そんなこと言ってきた奴はいない」と。

アフリカのザンビアの国に渡り、学校の増築のプロジェクトに関わっていた。英語もできたため、小・中学生に英語も教えていた。そこで感じたのは「すごいエネルギーを持っている子たちがいる」ということだった。兄弟もたくさんいるため、小さい赤ちゃんを育てながらも学校にきて「自分は教師になりたい」と語る中学校1年生の子がいた。みんな将来の希望を語っている。僕自身は将来の希望なんて、そのときはあまり見えていなかった。人質事件後、精神的には回復した。でも、商社に入って何しようか。海外の貿易でもしながら、いずれ独立とかかな。なんとなく、そんなことを思っていた。

写真 ザンビア時代。

帰国して大阪にやってきた。そして、ある中学校で講演をした。確か、芦屋の中学校だったように思う。僕はザンビアでの経験の話を彼らにした。ただ、中学生たちは興味があるように聞いていたのだが、何か面白くなさそうだったので、僕は話を変えて彼らに「最近、どんなものが流行っているの?」「何が面白い、ってか中学校って楽しいの?」みたいな他愛のない話を聞いていた。話してはくれるが、反応は鈍い。

なんとなく満足しないまま学校を出た。「ザンビアだと反応はいっぱいあったし、何が違ったんだろう」そんなことを思った。この当時は今の10代が抱えている苦しみや生きづらさなどわかっていなかった。

そのときから、何か自分よりも年齢が下の世代のことを知りたいと思っていた。特にザンビアに行ってから「なんとなく日本の若者の方が厳しい環境にいるかもな」と直感的に思ったりもしていた。エイズの感染率も高く平均寿命も低い2009年当時のザンビアだったが、それでも経済成長率は高く国家への希望も人々は持っていた。無論、紛争や飢餓状態にいる人たちよりは日本はかなり恵まれている。ただ、それとは違った苦しみ。

「若者のことを知ろう」

そう思って、僕は家を「友達の友達」までは泊まってもいいし、自由にきてくれてもいい、というルールを立てた。そこで出会う若者たちから話を聞こうと思っていた。そうすることで別府から就職活動でくる後輩がきて、その友達もきやすくなって知り合えたり東京や札幌からくる友達の拠点として機能すれば自然と様々な人と知り合えるだろう。そこで話を聞こう。そんな発想から始まった。

また、月に1度、若者の将来を語るイベントを開こうと決めた。

それはユメブレストという、現在ではD×Pのクレッシェンドのプログラムの一部になっているワークショップだ。それを始めたきっかけになるのは、大学4年生で就職活動が終わった時。単位を取るために2009年6月から8月の2ヶ月間だけ別府に滞在した。たまたまそのときに1年生向けに講演を頼まれた。「今井くんの経験を語ってほしい」とある先生に言われて。

そのときにはかなり精神的には回復していた。少なくとも事件のことを語っても涙せず、普通に語れるようになっていた。非常にその講演はよかったみたいで、1年生たちがたくさん集まってきた。「僕はあんまり語ることは好きじゃないけど、うちにきてもいいよ」ということで僕の同級生たちと一緒に1年生を招き、先輩が語るのではなく1年生が主役になるためのイベントを毎週水曜日行った。

恥ずかしい話だが、それは「今井会」と呼ばれ、毎週水曜日、全8回、テスト期間でも続けられて朝3時、朝5時まで語り合うイベントになっていた。テーマは1年生たちのこれからのあり方を彼らに語ってもらう、僕ら上級生は聞き役になる。それが「今井会」の趣旨であり、それがいつしかユメブレストと呼ばれるようになっていた。1年生たちは臆することなく語り、「それいいじゃん」と僕たちは肯定する。否定せずに関わる、というのはD×Pの大切にしている姿勢の一つだが、それは既にそこから始まっていたように思う。

「ユメブレもう一度やりながら、若者が集まる場を作ろう」

そんなことを考えて動き始めた。そして、商社で働き始めたのは2010年4月。僕の大阪の生活はそこから始まっていった。(続く)

認定NPO法人D×P(ディーピー)


D×Pへの寄付も嬉しい!  http://www.dreampossibility.com/be_our_supporter