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他人に自分の痛みを押し付けない社会へ

僕も憎悪に満ち溢れているときが10代のときにあった。高校時代は学校の教室にいることがどうしても苦痛であり、友達からいじめも受けていた。あまり学校には行かず、自分でNGOを作って自分なりの居場所を作っていたとは思うが、それでもいじめを受けていたことに「この苦しみをあいつらにも味わらせたい」みたいなことを本気で考えていたこともあった(それは実際にはしていないけど)。

あと、僕はイラク人質事件の当事者で15年前に社会から大バッシングを受けて多くの人から面と向かって「死ね」とか言われたりもして4年〜5年ほど対人恐怖症や一部の期間ひきこもりの経験などもあった。そのために、社会に怒りを感じて「こんな社会、破壊したい」みたいなことを思った時期もあった。社会に憎しみを持ち込み、怒って破壊衝動に襲われた時もあった。

でも、今思う。痛みを知った人が他人に「痛みを知れ」と押し付けない社会にしたい、と。

世の中には「私も子育てで苦しかったんだから、あなたも頑張りなさい」「おれも理不尽な中で上司の下、頑張ったんだから」と自分の経験の痛みを押し付けるような風潮がある。それが常なのだから、普通なのだから、あなたたちも同じ経験をして私たちと共通の価値観を持ちなさい、みたいな同調圧力。

でも、そのような社会に前進も改善もないと思う。共働きが増えて核家族が進み、少子化が進む社会の中で同じような苦しみを味わいなさいと私たちはいえるのだろうか。それで状況が改善されるのか。

社会状況が変わる中で、努力しても成果がみられない環境の変化の中でただ同じことを会社でしていいのだろうか。

紛争地でテロの報復の構造もそう。自分の家族が殺された、だからお前らの家族も殺す。そうすることで憎しみの連鎖が産まれ問題を複雑化させて課題解決ができなくなっていく。15年ぶりに訪問したイラクでもそういったことを感じていた。

社会をアップデートしていくためには痛みを押し付けるような風潮はなくしていく必要性がある。むしろ「その経験をさせない」ための社会の仕組みを作っていく必要性があるのではないだろうか。

漫画ナルトに出てくるペインの「痛みを知れ」を繰り返していたら社会の改善なんてないと思うから。

「痛みを知れ」を繰り返していく先に前進はない。

そんなことを椎間板ヘルニアの治療で針の鈍痛を受けながら考えておりました。痛かったです。。。笑

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