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今、「かわいい」とはなにか

他の言語に翻訳し難い日本語は多くあるが、「かわいい」もその1つに数えられるだろう。しかも、日本国内においてその意味するところや使われ方が近年また大きく変化しているように思われる。

東京で生活していると、頻繁にメトロに乗る。すると、駅構内や車内のディスプレイにおいて、石原さとみが主観カメラによる擬似デートばりの雰囲気で毎日微笑んでくれるので、世間のオジさんよろしく「かわええなあ」なんて思ったりするのだ。しかし、TBSドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」のエンディングで新垣結衣が踊る姿を観て、なんだこのかわいさは!と衝撃を受けてしまった。しかもそれは、石原さとみに対して感じるかわいさと、何か別のものだった。

この違いはなにか。私は周りの女子大生に、石原さとみと新垣結衣のどちらがかわいいかを聞いてみることにした。十数人ばかり聞いたところ、「そりゃ、愚問だよ。新垣結衣に決まってる。石原さとみはかわいくない。もし身近にいたら敵だもん」と。

なるほど。男目線と女目線では、かわいいとはこうも違うのか。つまり、単に美人で魅力的というだけではかわいいとは言えない。いやまてよ。世間では、ねこ画像をみてかわいいと悶絶する人が多数いる。女の子が洋服を選ぶとき、「この服超かわいい」と言うが男には全く理解不能だ。相手が男だろうが、「かわいい後輩」という言い方をする。おまけに、「かわいいは正義」で「かわいいは作れる」らしい。つまり、三段論法で行けば、「かわいい」を媒介とすることで、簡単に「正義は作れる」ことになり、サンデル先生も涙目だ(正確にはかわいいことによる正義限定で、かわいくない正義は作れない)。

そこで私は、この不思議な言葉「かわいい」について考えてみることにした。私が参加させて頂いている社会人勉強会GreenTheWorldにおいて発表させて頂く機会を得たので、そこで発表した内容を踏まえて書き記すことにする。

この手の問題でついやってしまうのが、語源から辿るという方法だ。いろいろ調べてみると、「かわいい」の起源は清少納言の「枕草子」で、その「うつくしいもの」の段に羅列され「うつくし」と形容されているものが、現代「かわいい」とされるものなのだと言う。

この時代における「うつくし」は、目上から目下の者に対して「かわいい」と感じるようなことを指していたと考えられており、それは確かに現代における「かわいい」にかなり近いように思われる。一方、「かわいい」の語源は「かほはゆし」とされ、恥ずかしい、気の毒だといった意味から、「かわいい」と「かわいそう」に分岐していく[参考文献[1]リンク(p.25)]。

つまり、「かわいい」は「かわいそう」の語からも想像できるように、語源からしていたわしいと言う意味が含まれている可能性は十分にある。実際、私の母の故郷である郡上八幡で話されている「郡上弁」では、小さい子が転んだりすると、「かわええ」と表現する。

次に、かわいいの意味についての学術研究についても調べてみた。

よく引用されているのが、コンラード・ローレンツによる「ベビースキーマ理論[2]」である。ローレンツは、哺乳類や鳥類の幼少期は、成体に比べて頭の割合が大きく、目が大きい、目が比較的低い位置にある、丸みを帯びている、などの7つの身体的特徴(ベビースキーマ)があり、それらの特徴をみると「かわいい」と本能的に感じ、守りたくなってしまう効果があるのではないかと論じた。

確かに、大きな瞳はかわいいと感じるし、幼児性を感じるような身体的特徴もかわいいと感じられるように思う。しかし、そうした幼児性だけでは説明できないかわいさは多くある。例えば、枕草子にあるようなお雛様の調度類をかわいいと感じたり、笑顔の成人や老人をかわいいと感じたりするものだ。

かわいい研究で知られる大阪大学の入戸野教授らの研究[3]によると、「かわいい」と感じることを説明する要素として「共感性」「親和動機」「接近動機」を挙げている。たしかに、キャラグッズなどは身近に置きたいと思わせるものであるし、感情移入出来るものや、仲良くしたいと思わせるものに対してかわいいと思うことはある。この研究をヒントに、自分なりに提案する「かわいい」のモデルは以下のものである。

まず、一般的に「かわいい」という概念に共通する動機として、"まもりたい"と"ちかづきたい"があると考える。"まもりたい"という動機は、人間や動物など生き物に対する社会的な動機で、"ちかづきたい"という動機は非生物にも適用され、特に男女で現れ方の違いが大きい※。

※女性は衣服や小物をそばに置きたいかわいいモノと捉え、男性は”モノ”としての女性をそばに置きたいと思う。これも、かわいく見せたい女性と、かわいい女性を自慢したい男性という意味で、社会的な動機といえるかもしれない。

これらの動機を構成する要素として、「非敵性」「不完全性」「形・色」を挙げた。「かわいい」と思える条件として、自分にとって無害であり、敵ではないと対象を捉え、またそのようなアピール自体を「かわいい」と考えることがある(例:かわいい後輩、上目遣い、笑顔、等)。しかし、石原さとみのように、女性にとって敵となりうる存在は必ずしもかわいくはないし、自分の言うことを聞かない後輩もかわいくはない。

また、「不完全性」も「かわいい」に特徴的な要素である。完璧な美人など、ある種の完璧性はかわいさを阻害する。たすけてあげたいと思わせるような適度な不完全性を表す特性に触れると、「かわいい」と感じ、手を差し伸べて"ちかづきたい"、"まもりたい"と思うのである。

見た目上の「形・色」そのものがかわいい、ということはしばしばあるが、それだけでは「かわいい」とならないところが難しいところだ。これらの要素が複雑に影響しあい、"まもりたい"、"ちかづきたい"を構成すると、「かわいい」となるのではないか。

そして、右上に付け加えたのが、"わかる"という項目である。これは、すこし分かりにくいかもしれないが、対象となるものに対してある種の”わかる”(理解/共感/投影←これらは似て非なるもので、主体の位置が大きく異なる)がある場合、「かわいい」という思いが増幅されることがあるのではと考えた(あるいは、"まもりたい"、"ちかづきたい"という動機に作用しているとも考えられる)。この増幅が、個性として「自分的にかわいい」というものを生み出し、「かわいい」概念の多様化をもたらしているのではないだろうか。

ある人が、「上司の家のロボット掃除機が段差を乗り越えられないという話はかわいいと思うが、他の人の家だったらそこまで思わない。それは同じ上司の下で働く自分を投影したからかもしれない」と言う話をしてくれた。これも「わかる」によって、「かわいい」が増幅された例の一つだろう。

また、海外で評価されている”Kawaii”は、この論文[4]によれば、自分の個性をファッション誌等とは別の形で表現する自由さに共感しているのであり、日本人にとっての「かわいい」とは若干意味あいが異なっていると思われる。

自己投影、共感の"わかる"は、自己愛に近いが、単に存在そのものの価値を理解するという感覚で、自己主体が対象にないような"わかる"の場合もある。ここの議論は分けて考えることもできるかも知れないが、今回は複雑になり過ぎるので、後の研究を待とう。

最後に、私にとっての「自分的かわいい」ものについて語ろう。

過去に何度か書いているように、最近私は欅坂46にハマっている。これは、デビューシングル「サイレントマジョリティ」の楽曲の素晴らしさに依るところもあるが、やはり彼女らの存在や物語そのものに何らかの個人的な「わかる」があるように思われた(この方の分析が凄い)。また、私は7月からヒキガエル”ぱくちゃん”を飼っている。ヒキガエルは、見た目は一般的には「キモい」部類かもしれないが、毎日眺めているとこれがなんともいえず「かわいい」のである。

これらに共通するものは、欅坂46のモチーフも、ヒキガエルの生き方も、媚びることなく自分の生き方を貫こうとしている(ように見える)ことに対して、フリーランスとして苦悩する自分自身を勝手に投影しているのではないかと考えるようになった。

トランプ大統領誕生の社会的背景について分析した前記事でも、「非自己決定者」と「自己決定者」という区分に着目したが、それも今自分自身が最も関心あるテーマであるからに他ならない。

「かわいい」の意味は、悠久の時を経て大きく変化してきたが、現代においても、アニメの描き方や、キャラクターグッズ、女優やアイドル、文字フォント、色、ファッション、など、様々な流行とともに変化し、そして今、個人の価値観の多様化と連動してその意味も多様化しているように思われる。

自分が「かわいく」あることは、周りとのコミュニケーションを円滑にし、協力を得て生きて行くためにも重要な要素だ。

なにより、「かわいい」(かわゆすなもの)を愛でて生きることは、なんと素晴らしいことかヽ(´ー`)ノ。それに尽きるのである。

【参考文献】

[1]"「かわいい」と「うつくしい」の微妙な関係"、宇治川正人、けい・きゅーぶ vol.11 2015年冬号

[2]"かわいいと幼さ:ベビースキーマをめぐる批判的考察"、入戸野宏、VISION vol.25、no.2、100-104 (2013)

[3]"共感性と親和動機による“かわいい”感情の予測モデル構築"、金井嘉宏、入戸野宏、パーソナリティ研究 2015 第 23 巻 第 3 号 131–141

[4]"現代社会における「かわいい」概念の生成と変容"、雪、兵庫教育大学大学院 学校教育研究科 教科・領域教育学専攻 社会系コース 2010年(平成22年度)修士(学校教育学)学位論文


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