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「誰かの正解がないと不安なとき」はSNSにハマりやすい?

またまたTwitterをやめてみての感想になりますが。

↑ Twitterやめてみての感想を勢いでまとめたのはこちらの記事。

それまでTwitterばかりを見ていた生活だったので、当然ながら生活時間としてもTwitterを見る時間が減りました。とはいえ、四六時中Twitterにいたわけではないので、時間の感覚としては「あれ、暇になった!」というほどの空きができたわけでもないです。

なのですが、実際に空いた時間の量以上に、ちょっと心がそわそわしてしまいまして。

今日はそんな自分の変化を記録しておきます。

それは流行か、正解か

Twitterを見るのが好きだった理由のひとつに「界隈の流れをなんとなく感じられる」というのがあります。

「界隈」と書いたのは、Twitterのタイムラインはとても偏っていると思うから。「世の中」と言えるほど広い世界ではないけれど、自分が興味のある分野で活躍している人だったり、似たような属性の人たちだったり、そういう人たちのつぶやきをシャワーのように浴びることで、界隈の温度というか流行みたいなものを、なんとなく肌で感じられるような気がしていました。

その感覚が、好きでした。

そして今、Twitterをやめてみて、私が好きだと思っていた「界隈の流れをなんとなく感じられる感覚」というのは、自分が属する(属していたい)世界の中で「これから何が正解になるのかを察知したい欲」つまり不安の裏返しだったのではないかと思っています。

「常に誰かの正解に寄せて生きてきた」というのは別のnoteにも書きましたが(https://note.com/norider11/n/n078a16b98335)、誰かの正解を拠り所にして生きることで安心していたいというのが、今の私です。悔しいけれど。

Twitterから離れることで、今まで息を吸うように取り入れていた誰かの正解がなくなり、ソワソワしているんだと思います。(カッコ悪くて嫌になっちゃう。。)

SNSから離れていた時、私は何をしていた?

Twitterは大好きですし、Facebookも長く使い続けていますし、SNSは好きな方だと思います。見るだけでなくて投稿もしますし、SNS上で交流するのも楽しいです。

でも、これまでにも何度かSNSから離れていたことがあります。

理由はいろいろありましたが、過去にSNSから離れた時に共通していたのは「自分に集中したかった」ということ。

直近だと、昨年の11月にキャリアコンサルタント試験を受けたのですが、試験日前の2ヶ月間ほどはほとんどSNSを見ていませんでした。(この時はTwitterからいつの間にか姿を消していたので、後から「心配してました」と言われて反省しました。)

あとは、メンタルがちょっと危なかった時。自分を保つことに精一杯で、周りのことなど気にかけていられなかったので、この時も自然とSNSから距離を取っていたと思います。

自発的だったのか、必要に迫られてだったのか、という違いはありますが、「自分に集中したい」と感じた時に、私はSNSから距離をとっていたようです。

誰かの正解が不要になるとSNSの意味が変わる

試験勉強がとてもわかりやすいと思ったのですが、勉強に集中したい時は、言い換えると「そのことだけ考えていれば安心」な時でもあります。やるべきことが明確になっていて、それに集中していることの安心感。

試験勉強などのハードな状況でなくても、自分のやるべきことが明確になっていれば(これはつまり人生の使命を見つけるということとイコールだと思っていますが)、SNSは誰かの正解を探すための場所ではなくて、自分が自分でいるための場所になるんだと思いました。

そして本来、SNSとはそのように付き合うのが健全だとも思います。

私が「らしさの期待」をかなぐり捨てて自分の思うように生きられるようになった時、これまで親しんできたSNSは私にとって超強力な味方になるのではないか、という予感もあります。

早くその世界が見たいものです。
もう少し踏ん張らないと。


Twitterをやめて4日目。
予想以上にいろいろな気づきがあり、とても嬉しいです。


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