アルメニアのエジーディ

アルメニアのエジーディ Êzîdî li Ermenistan

エジーディ概要 

2018年8月18日~24日の間に、エジーディを探しにアルメニアを訪問した。エジーディとは、日本他では「ヤジーディ」と呼ばれる、イランの古代宗教に由来する信仰をもち、クルド語(主にトルコやシリアで話されるクルマンジ語)を話す少数民族である。孔雀天使(Tawûsî Malek)を崇拝することから、ムスリムを中心に悪魔崇拝者と誤解されることも多い。というのも孔雀天使は、ユダヤ教以来の一神教の枠組みでは堕天使アザゼルにあたるからである。エジーディの信仰では、大天使ガブリエルがムハンマドを預言者と主張したことに対し、孔雀天使は彼を「嘘つき」だと否定したとされる。西洋のクリスチャンにも見られるムハンマドの侮辱も、ムスリムからの反感を引き起こしているのかもしれない。 メディアが使うヤジーディとは他称であり、自身をエジーディÊzîdî(エジ王の子孫)呼ぶ。ヤジーディとは、イラン語での神または天使を信仰する人を指す。天使宗派の信徒人々という意味である。エジ王(Sultan Êzî)とは、歴史的実在が確認されていない伝説上の王である。孔雀天使が仲人をつとめた結婚により、生まれた子孫がエジーディとされる。アルメニア人が自身を伝説上の王ハイクより、自身をハイ(以下アルメニア人とその言語をハイ人・語と表記する)と呼ぶのに似ている。宗教共同体自体は古代から存在していたが、ウマイヤ朝時代にシェイフ・アディというイスラム学者が教義をまとめた。シェイフ・アディは、バグダッドでイスラム学を修めた後、転向しエジーディ達の宗教指導者になったとされる。初期スーフィーの大家として知らぬものはいないハサン・バスリは、エジーディや彼の後継者であるシェイフ・ハッサンを尊敬していたという。その時代にエジーディは、アダウィー(シェイフ・アディの信徒)と呼ばれていた。「黒書」と「啓示録」と呼ばれる聖典がある。エジーディの歴史、シェイフ・アディによる教義の解説、また宗教行為の方法などが記されている。オスマン帝国時代には、ムスリムでも啓典の民でもない「多神教徒」だとされ、市民権がなく迫害を受けていた。 エジーディの中には、クルド人との連帯を強調する人もいるが、ムスリムによる差別の歴史から「クルド化」に反対する人たちもいる。アルメニア政府は、少数民族政策においてムスリムのクルド人とエジーディのクルド人を別民族として扱い統計を取っている。各地で出会ったアルメニア人にクルド人について尋ねたところによると、ムスリムよりもエジーディに好感をもっているようであった。アルメニアにおける総本山は、首都エレバンから近い観光地アルマヴィルにある。


アルマヴィルには、最近建築されたエジーディ様式の寺院が存在する。なお今回は、農村部を中心にエジーディの集落を訪れ、同地を訪れることはなかった。アルマヴィルの寺院含めアルメニアの観光情報には、エジーディの情報が一切現れない。専門書やニュースサイトをたよりに、集落を探した。


 レヤ・タザ Rêya Taza(Rya Taza)


 レヤ・タザは、エレバンから北に車で1時間程の農村で、最寄りの都市はアパランである。アパランにもクルド人がいるという情報があったので、同市にも立ち寄った。住人にクルド人の居住について尋ねたが、近隣の村を含め悉く否定された。レヤ・タザとはクルド語で「新たなる道」を意味し、アルメニアで発行されてた史上初のクルド語新聞の名前でもある。明らかにクルド語の村があるのにも関わらず、ハイ人はどこにクルド人の村があるのか、またそもそも集落があるのかといったことすら知らなかった。 特徴的なのは村の中心部の道路に面した空き地にある石造群である。

これらはかつてのエジーディの墓地の遺跡である。動物(この地域では馬)の形をした石造は、何らかの宗教的な意味を感じさせる。ところが、エジーディは孔雀を除けばこれといって、特別な動物を崇拝する信仰は無い。研究者によると富や社会的地位、上層カーストの象徴であるとされる。 これら遺跡は、なんら保護を施されることなく野ざらしにされていた。現在は墓地として利用されていないようであった。 アジア系訪問者が珍しかったのか、エジーディの子供たちが話しかけてきた。エジーディの村民は、これといった訛りやくせを感じない、綺麗なクルマンジを話していた。イラク、イランのクルディスタンでも同様だが、「クルマンジ」という単語を知らずクルド語としか言わない。

最初子供たちは、私がクルド語で「エジーディか?」と聞いても、「Дах(ダー)」とロシア語で肯定の返事をした。クルマンジを話せる訪問者が来るとは想像もしていなかったのだろう。アジア系の訪問者を他の村民は訝しげに見ていたが、好奇心旺盛な子供たちは物怖じせずクルマンジで色々疑問をぶつけてきた。そして村内を案内してくれた。また、子供たちと同じく知的障害者とおぼしき青年(写真奥)も、アジア系訪問者に興味を示したのか、子供たちの後についてきた。子供たちは、自分の頭を指さして彼をdin(クルマンジで”別”の意味、馬鹿という意味でも使われる)だと言っていた。彼と言葉を交わすことはできなかったが、村の中で大きな問題なく生活できていることはうかがえた。 丘から村全体を眺めることができた。

寺院他宗教施設は見当たらないようだった。 彼らは普段は学校に行っていると話し、学校ではハイ語の他クルド語も学んでいると話していた。英語でいうlet's goを、通常のBiçin(行こう)ではなく、Em çûn(私たちは行った)と言っていた。 「エジーディ用法」なるものがあるのかもしれない。 

アラギャズ Alagyaz 

アラガストン山付近のエジーディ集落としては最大の規模である。とはいえ村の大半は牛舎と民家で占められ、どんな小さな町にも数軒はある雑貨屋が、村の中央に1軒だけあった。宗教施設も見当たらなかった。

 その村に1軒しかない雑貨屋の店主の老翁に、「エジーディか?」と聞くと「そうだ」と答え、民族論を語り始めた。老翁によると、エジーディとは個々人の内面に存在するに過ぎない。エジーディたちは、実体としてはクルド人という民族集団の一部だということだ。 村に近い丘の上に墓地があるのを見つけた。

墓地に至る階段はごく最近造られたようだった。 レヤ・タザの墓地の遺跡と違いこちらは現在も使われている。十字架の代わりに太陽の紋章がいたるところにあること以外は、他の町で見たハイ人の墓地と変わりはなかった。墓石に写真の故人の彫刻が彫られているのは、一般的なハイ人の墓地と変わらない。

 ディテールはエジーディならではである。写真の赤丸内の彫刻は、エジーディの聖地ラリッシュ(イラクのクルディスタン地域)の図である。 ダーイシュの侵略を受けたイラクのシェンガルに、クルディスタン労働者党(PKK)の支援を受けて設立されたシェンガル抵抗隊(YBŞ)も同様のシンボルを使っている。 歴史のありそうな棺桶型の墓も多数見られた。

 明らかに新しい墓と古い墓が混在していることから、墓地として古い歴史があると思われる。


 シパン Sipan 

アラギャズで出会ったエジーディのタクシー運転手に案内してもらった。彼によればアラギャズ付近には10数のエジーディのコミュニティがあるそうである。 シパンに着くとまず最初に出会った村民が、イラクやイランで話される中央クルド語で挨拶をしてきた。 

それ以外は普通にクルマンジで会話したので、方言があるのかどうかは分からない。彼以外の村民ともクルマンジで会話した。 ここまで見てきた集落と同じく牧畜業が主要産業で、牛を放牧をする親子に出会った。

 村民の家は小ぎれいで、大抵一家に1台は自家用車をもっているようであった。 

山の斜面にも小規模な集落が点在していた。道路が見当たらず、移動手段や交流の程は不明であった。 

ソービュニー Zovûnî


 エレバンのごく近くにもエジーディの集落は存在する。エレバンに隣接するコタイク地方の町カナケラバンに、エジーディの村があるという記事も見かけ、そこに行くため拾ったタクシー運転手が教えてくれた。彼はエジーディの事情に詳しいわけではないが、Navê te çi ye?(貴方の名前は何ですか)といった基本フレーズを幾つか知っていた。なおカナケラバン周辺にはエジーディは住んでいないようであった。恐らくこの村と勘違いしたのであろう。 村の入り口から暫くは、ホテルやバー、クラブが並ぶ。そのまま進むと羊の柵が見える。

 2軒羊肉屋が並んでいるが、両方ともエジーディが店主であった。基本的に道路に面した区域はハイ人が住んでいるようで、エジーディの集落は丘の上にあった。そこは人気がなく、あばら家とでもいうべき民家が軒を連ねていた。 

やっと出がけの村民に出会ったので、クルド語で挨拶すると返してきた。彼にこの村はエジーディの村かと尋ねると、そうだと言っていた。彼がクルマンジを話しているかは明白だったが、何の言語を話しているのかとも尋ねた。彼は興味深いことに、「エジーディの言語だ」と答えた。 勿論あばら家だけでなく、裕福な家庭が住んでいるであろう邸宅も存在する。

 正面にエジーディの象徴である太陽の紋章が彫られていた。寺院や遺跡も無いようなので、辛うじてこのようなレリーフが、エジーディの存在を示している。 

まとめ

 民族性、宗教性の否定の圧力がほぼ皆無だということである。ハイ人と共存しているので、イラクやシリアのように悲惨な目にあうこともない。それゆえ目立ちにくく、クルド情勢を語る上でも無視されている。 エジーディはイラクでは、アラブ化の圧力にされされている。エジーディの上級カースト成員は、流ちょうなアラビア語をあやつり、アラブ化することがステータスでもある。それはダーイシュに奴隷化されるも解放され、国連親善大使を務めるナディア・ムラト氏もアラビア語しか喋れないということに特徴的である。 それだけではなくムスリムのクルド人からも差別される存在である。ダーイシュが2014年イラクのシェンガルを攻めた際、同地を防衛するバルザニ麾下のペシュメルガは、矛を交えることなく遁走した。これが世界に衝撃を与えたエジーディの虐殺と奴隷化につながった。当時のダーイシュが軍事的に強大ということもあったが、同地のエジーディ達はムスリムのクルド人の差別意識が見殺しにつながったと考えた。アルメニアにおいても、この10年程前にエジーディとムスリム・クルドの紛争があったと現地人から聞いた。ただ、多数派のハイ人がクリスチャンであり、ムスリムよりエジーディに好意的である。ムスリムは、アルメニアに対する千年来の敵だからだ。 国民の大多数に敵意が無いことは、イラク、シリア、トルコにおけるより、圧倒的に生活を容易ならしめている。 何より印象的だったのは、彼らが綺麗なクルマンジを話すことだ。クルド人が権力を獲得したイラク、言語弾圧政策をそれほど実施しなかったイランはさておき、トルコやシリアは長年クルド語弾圧政策を受けていたためか、クルド語が下手なクルド人が多い。ハイ人による弾圧の無いアルメニアには、純粋なクルマンジが残るとも考えらえる。 

【参考文献】

 The Yezidis: The History of a Community, Culture and Religion, Birguel Açikyildiz, 2014年10月16日, I B Tauris & Co Ltd 

The Kurds: A Concise History And Fact Book, Mehrdad Izady, 1992年10月27日, Routledge, 

ナゴルノ・カラバフ―ソ連邦の民族問題とアルメニア, 佐藤 信夫, 1989年7月8日, 泰流社


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