【書評】草薙龍瞬著「反応しない練習」


●判断は「毒」
判断することは分かった気になって気持ちがよいと言う側面、自分は正しいと思える(承認欲を満たせる)快楽があるため、皆判断をすることに夢中になっている。
しかし、その判断がしばしばその人自身を苦しめる。完璧主義者の人間は「こうあるべき」という拘束を自分に課すので、それが達成できない自分を駄目な人間だと思う。人が苦しみを感じるときには執着がある(求めるものを得たい、手にしたものがいつまでも続くようにした、苦痛をなくしたい)が、判断は執着の一種となり、人を苦しめる。
また、過去を引きずることは「記憶に反応していること」だという重大な指摘がある。これは自分も非常にやりがちな点である。過去を思い出し、記憶に反応して新しい怒りを生んでいる。いつまでも怒りが消えない本当の理由は記憶への反応である。
 自分がマインドフルネスを学んでいた時、「判断するな観察しろ」と言われていたが、何故判断がいけないのかよく分かっていなかった。本書において、判断は妄想となり、執着となって人を苦しめるのだと丁寧に説明してある。
ここで注目すべきポイントは、「良い判断」も良くないということである。ある人がいい人だという評価をすることは、何かの拍子に覆され、それに苦しむことがある。可愛さ余って憎さ百倍みたいなことである。
これはやりがちな点である。だいたい自分も「いい人」とばかり関わろうとする傾向があるが、いい人に反論されたりすると、すぐにいい人じゃなくなると言う極端な反応をしがちだった。良い判断もやめると言う発想は新しく、今度やってみようと思う。
また、自分を正しいと肯定する心は「慢」を生み出す。慢があると、それによって人と衝突して苦しみを拡大させる。自分も他人も判断しないことが一番である。
また、「自分は正しい」という判断はそれ自体誤りであるという考え方は面白い。何故なら、本当に正しいか間違っているかという以前に、そもそも判断をしてしまっているからである。正しい判断とは、禅問答ようにややこしいが、正しいか間違っているかを判断せず、留保することである。その延長線上でいえば、「自信がある、ない」という判断はどちらもよくない。自信がない不安な人ほど、自信さえあれば不安で苦しい思いをしなくて済むが、その「自信さえあれば」は自分に都合のよい妄想でしかないのである。それに自信とは、自分はこれができるという判断だが、状況は常に変わる。「自信家とは根拠のない妄想にとりつかれた人」であるというブッダを媒介とした著者によるパワーワードが炸裂している。自信があるか、ないかよりも今できることは何かを考えた方がよい。これまた非常に重要な指摘である。自分が病院で学んだことだが、これを書籍でみたのは本書が初めてである。

具体的なアクションプランとしては、まず自分が判断をしていることに気づくこと、そして、気付いても判断の渦から逃れられないときは、ただ体の反応をひたすら観察しながら、気が晴れるまでとにかく歩くこと。そして「自分は自分を肯定する」と言う。書く。条件付きの肯定はダメだし、素敵とか素晴らしいとかではなく、「肯定」とだけ書く。
 最後の肯定するという点は、自分が他人に対してひどいことをしてしまった場合、えてして「自分はあんなことする人間ではない」と否認したり、「ああいう状況では仕方がない」と正当化したりするが、どちらにしても反芻が続いて苦しむから、勉強になる。

●他人への向き合い方
他人は自分にとってどうすることもできないので、他人の反応と自分の反応は区別する。
この前会ったときにその人と不快なやりとりがあり、会うのが億劫だとしても、それは自分が記憶に反応しているからで、思い出しても反応しない。諸行無常なのだから、他人もまた移り変わる。今度その人と会うときは新しい人と会う位の心境でよいのだ。

●正しいより役に立つ
ブッダの思想は徹頭徹尾「役に立つ」か否かを基準にしている。ブッダは他人が理解できるように、人ごとに話す内容を変えたというし、他人とのコミュニケーションでも正しさなど誰も判断できないのだから、役に立つ方を選択する。判断しないというのも、突き詰めれば判断はその人を苦しめて役に立たないからである。このクールでドライでサステナビリティな感じは嫌いじゃない。

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