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『Dew』を観たあとに、コップを3つ買ったお話。

 怒られること承知で書きますが、以前観た韓国映画『バンジージャンプする』の世界観がどうにも苦手だったんです。ちょっと傷ついたんですよね。

 ここでザックリ、私の趣向の話をぶっ放していいですか?いいですよ。ありがとう。マジ卍。

 物心ついた時からなぜか男性に自分を投影することが多く、更に言うと、男性同士の恋愛に魅了され続けています。
わかりやすく年バレしてみますけれど、小学生当時、子どもたちが熱狂していた『キャプテン翼』。あれは私から見れば、翼くんと岬君と若林君の三角関係なわけです。そんなものを大々的にテレビで流すなんて、大人はどう言うつもりなんだろう…と真剣に悩みましたし、『北斗の拳』なんて突いて突いて突きまくって結果殺しちゃう壮絶な愛ですよね。それをなぜにテレビで…(以下略)
 更に私の厄介なところは、二次元に留まらず、生きとし生ける者(ナマモノ)にも、そのフィルターを投影してしまうところが多分にあり、これまたわかりやすく年バレしてみますと、『スタンド・バイ・ミー』はゴーディとクリスとテディの三角関係に胸アツだったわけです。
 
 でも、言えないんです。この不思議なフィルターが私に備わっていることを。誰にも。

 『品行方正、柔順』がモットーの、いわゆる私立で学園生活を送っていたのが仇となり、小4でクラスメートを従えデモを起こし(体操服の短パンやめろデモ)職員室に凸るような一面もあった私は、“変わってる子ども”、“問題児”と言われ続け、カテゴライズされることの苦痛を味わい尽くしていました。加えて言えば、クリスチャンな家庭で育ったというのもありまして、もうね、ねじれがねじれてネジ式です。(byつげ義春)
   国語の教科書に載っていた新川和江さんの『わたしを束ねないで』を読んでボイボイ涙が吹き出し保健室にドナドナされるような子どもが「ちょっと、このフィルター搭載してみ?すごい生きるのが楽になるから」なんて、言えるかっての。あと何年、この人たちと学び、思春期を共有するとお思い!?

 フィルターが搭載されている話をチョロチョロできるようになったのは、美大に進学してからです。ゲイの友達も多く、かと言って彼らがなんら特別でもない。当たり前のようにみんなでHIV検査を受けたり、ドラッグクィーンをしている友達にド派手な衣装を着せられ舞台に立ったり、東京レインボーフェスティバルがまだ「レズビアン&ゲイパレード」と呼ばれていた時から、一緒に参戦し、性別を超えて魂ごとみんなでモラトリアムを謳歌していました。自分のセクシャリティがわからずにいた私は「心は肉体を超えて自由だ。肉体もまた自由なのだ」という自分なりの答えが見つかったように思っていたし、それが真理なのではないか?と、自信から確信に変わったわけです(by松坂大輔)
 でも、彼ら彼女らが特別じゃなかったのは私達仲間といるときだけで、ひとたび外に出れば、差別の標的であったのです。
 あの頃はまだゲイ差別が当たり前にあって、私達は性別を超えて憤ったり泣いたりしていました。

 で、『バンジージャンプする』が公開された直後に、観ちゃったわけです。さっきは「ちょっと傷ついた」と書きましたが、実際のところかなり落ち込みましてねぇ(遠い目)。
ストーリーは割愛するのにラストだけ書くのも意地悪ですけれど、ラストがね、私達ごとまるっと、そりゃあ夢も希望もなくバンジーされちゃったのがね、きつかったんですよね。ゲイのお話が悲しい結末ばかりだった時代はとっくに終わったはずだったのになー。って。(やっと本題に戻れます。ありがとうありがとう)

 時を越え今年の春、フォロワーさんに教えてもらって本作『Dew』を英語字幕で観ました。
オムパワ目当てです。個人的に思い入れのある『ミウの歌』のマシュー監督(『Manner Of Death』も監督されています)だし、そりゃ食いつきますわ。
オムパワとノン(ドラマ版『バット・ジーニアス』で見惚れています)に、かつてのマリオとピッチのような素敵な魔法を監督がかけてくれるんだ‼とばかり思っていたので、本作を見てひっくり返りました。時を越えて、まさかまたバンジーに巡り合うとは…本作がバンジーのリメイクだと映画を見て理解するというね。「情報拾うの下手くそか!!下手くそだ!!」的なね。

「マシュー監督は、なんで今この作品をリメイクしようと思ったんだろう」という疑問がどうしても拭えませんでした。監督が『ミウの歌』の境地にいないことはマナデスを見ていてなんとなく察していましたが、かと言ってこっちなのか…と。「私の英語力では見逃しているところがあるだろうな。答え合わせをしたいな」という想いがあり、同時に、オムパワ主演作を日本公開してくれたことへの圧倒的感謝&その想いを形(動員)に繋げたかったので、ほんの12時間前に映画館に足を運んだわけです。

 結果、どうなったかと言うと、


『マシュー監督!!!!!!凄いっす!!!!!』


 なんですよね。ほんとチョロい。
以下、私に刺さったことを書き連ねてみます。

《ポップの心模様》
 英語字幕で視聴していた時は高校生ポップと社会人ポップの“人”としての温度が急に変わったように見えたが、スクリーンで観たらノンとウィアーはよく似ていたし、空回りしながら生きてきたポップの悲しみ、やるせなさが溢れていた。苦しみの街であるはずの故郷に戻ってきたポップの心模様がようやく理解できた。

《妻の存在》
 ご都合主義に描いてるなぁと思っていたポップ妻が、台詞にない感情を表情に乗せていたことに気づいた。(ex:出勤初日の車内、ポップの実家でデューの写真を見た瞬間、など)
彼女はポップの心が自分にないことを既に知っている。おそらくバンコクにいた時から。それでもどうしようもなく夫を愛しているから、彼を母のように献身的に支えている(ように見える)が、実際は、ポップをガチガチに縛り、閉じ込めている。愛ゆえに。

《リウと「成長」》
 リウ本人の気持ちがどこにあるのか疑問だったけれど、リウは「成長」を体現化したキャラクターでもあるのだ。という新たな解釈ができた。
リウ本人の気持ちが不安定だったのは、自分探しの途中だったから。ポップと出会い、彼女自身が「自分は転生したデューである」と自分を見つけた瞬間の、美しさがそれを物語っている。 

《デューの母》
 デューの母親はもう生きていないんじゃないかと思っていたが、最後の日のデューが、とても良い笑顔でバイクを走らせていたのを改めて観て、希望が生まれた。
ポップと電話を切った後も尚、絶望的に泣き崩れる息子を見て「デューの気持ちを優先することが一番の幸せだ」と、心の奥に閉まっていた答えを、母はデューに差し出し、彼を解放したのではないか。であるならば、息子を亡くしたとはいえ、親子の想いが通じ合った、その確かな時間が、彼女を支えているのではないか。(P'Um大好きなので救済したい)

 ここで、やっとマシュー監督の真意がわかったのです。

 監督が描こうとしているのは、正義を振りかざす『社会』に対する強烈なアンチテーゼなのではないか。と。

ーー正義”とは移ろいゆくものーー

 かつては良いとされたものが、あっという間に枯れ、排除されたものに価値が生まれることもある。正義、言い方を変えると、“カテゴライズすることの無意味さ”を突きつけているのだと理解できたのです。
と同時に、亡くなった人へのありあまる想いとどう共存して生きていくのかを、綴ったのだと。 
 ……こんな重いテーマを2つも抱えている作品だったのか‼と目からウロコです。
「なんでこのご時世にリメイクしたの?」なんて、愚問の極み!!
監督が堂々とアップで撮り、答えを導いてくれていたじゃーん。(監督のアップ多用撮影手法大好きマン)

 しかもですね。監督の描いた世界を泳いだら不思議なことに、あんなに苦手だった『バンジージャンプする』も、私が拾えなかった想いがたくさんあるんじゃないか、バンジーしたあとの魂は、とても自由に海や山や空や宇宙を駆け巡っているのかも知れない。「え、私達ごとバンジーされちゃったの!?ぴえん」と落ち込んだけれど、私達は何も落としてない。むしろ自由の翼が生えてるじゃないか。と監督が伝えてくれているように思えてならないのです。監督ありがとう!!思いが溢れ出して、涙でエンドロールが見えませんでした(実話)

 溢れんばかりの想いを胸に映画館を後にした私は、亡き母と亡き弟と、前述したモラトリアムを共に過ごした今は亡き友達と、酒を酌み交わしたくなって、何色にも染まっていない透明のコップを3つ買って帰ったのでした。自分の分を買い忘れたけれど、みんなで回し飲みすればいいのです。カテゴライズなんかせずに。イェア!!!

《余談:最前列でDewを浴びた結果①》
デューを演じたオムパワの圧倒的表現力を最前列で浴びてしまった結果『オムパワは天性の攻』とか抜かしてた自分をぶん殴りたくなったし、心の中でオムパフェって呼んだくらい様々な表情に魅せられた。

《余談:最前列でDewを浴びた結果②》
体育の先生が踊る「チャチャチャ」も、これまた最前列で浴びてしまったため、ことあるごとにフラッシュバックしてきて最高だった。

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