小数のわり算からε-δを考えてみる
これは、日本数学協会の機関誌『数学文化』第14号の「エッセイ」欄に書いた原稿です。「多少なりとも数学に関係のあることでしたら,どんなことでも結構ですし,また,日々の編集の仕事のなかで感じておられることなど,自由に書いて」いいということで、こういう話を書いてみました。そのときのタイトルは、『スーガクをナットクするコーゾーをモーソーする』というものにしてもらったのですが、そしたら、「日本数学協会」というところは学会という扱いになっていたようで、その機関誌に投稿した原稿は、「論文」扱いになっているようで、たとえば、
http://iss.ndl.go.jp/books/R000000004-I10776068-00
みたいなことになっていたのでした。恐ろしや。
それで、今回は上記のようなおとなしいタイトルにしてみました。叶うものならせめてタイトルを差し替えたい(T T)。
あと、ここに入れたのは、最初に編集のかたに送った原稿で、ちょっといじったもののその当時の校正がまだ反映されていません。それはまたあとで確認して修正などしておきますし、そのほかにも手を加えるかもしれません。あと、たぶん(結城浩さんがNoteを使っていらっしゃるので)数式表現などももうちょっとちゃんとできるはず、と思うのですが、まだ不勉強でできていません。
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●——小数の割り算
小学6年のときに,先生が出張中での自習時間で,小数の割り算の問題の答えあわせで議論になったことがありました.それは,たとえば,
12.34 ÷ 5.67 の小数第2位までの答え(商)と
そのときの余りを求めなさい,
というようなものでした.もちろん,筆算で答えを出すわけですが,そのときの計算のやりかたは,割る数,割られる数の小数点を移動させて
2.17
5.67 ) 12.34 → 567. ) 1234.
1134
1000
567
4330
3969
361
から,答えが2.17,さて,余りは?
(A) 3.61
(B) 0.0361
の2つの意見があって,(B)は
「合っているかどうかは,検算してみればいい.
(A): 2.17 × 5.67 + 3.61 = 15.6139 は,おかしい.
(B): 2.17 × 5.67 + 0.0361 = 12.34 なら,あってる」
としたのにたいして,(A)から,
「それは検算の仕方がおかしい.小数点をずらして計算したんだから,検算のときも
(A): 2.17 × 567 + 3.61 = 1234 は,あってる.
(B): 2.17 × 567 + 0.0361 = 1230.4261 は,おかしい」
という反論が出ました.それにたいしての(B)からの再反論は出ずに,けっきょく,この自習時間のときは(A)の意見が採用されました.翌日,先生がこの件について,
「これは(B)が正しい.なぜなら,(元の)小数点が生きているから」
といって,(B)が正しいということになりました.
そのときのぼくの意見は(B)だったのですが,先生の「小数点が生きているから」という説明はナットクがいかない.でも,(B)が正しいという意見の立場でそれを言うのもヤヤコシイように感じてだまっていました.(A)の立場の人たちだってあれでナットクするはずはないのに,そういってくれたらいいのにと思っていたけど,結局そのことについての意見はなく,そのままそれで終わりました.
●—— どうしたら,ナットクできるのか?
この問題,つまり,
(*)小数÷小数の計算では,
商(答え)は割る数・割られる数の小数点を
それぞれ同じ桁数だけずらして
(整数÷整数に直して)計算できるが,
余りを出すときはもとの小数点をずらさずに
計算する.
というのは,「文字式に表現する」ということが身につけば,とりあえずちゃんと説明がつけられるようになります.でも,小学校でそれは「反則」ですよね.
そのずっとあとで,こういう小数の割り算での小数点の移動は,割る数・割られる数の小数点は移動させずに,
こっちの小数点だけ2つズラス↓
2.17
5.67 ) 12.34 → 5.67 ) 12.34
として計算するように指導すればよい,という説明の仕方をみたことがありました.
あのときの担任の先生の説明の「小数点を最初から生かした」説明ですね.でも,これは「そうすれば間違わないよ」という話ではあるけれど,(*)の説明にはなっていないように思います.
しかし,そもそも,「小数÷小数で商を小数第2位まで出して,余りも求める」というのは,どういう状況のときでしょうか.言い換えると,具体的にはどんな文章問題になるのでしょうか.
と考えてみると,まずここで,「÷小数」ってナンダ?! という話になります.いちばん最初に習う割り算では,(1)「5人に分けたとき,1人いくつもらえる?」(等分除)か,(2)「5個ずつ分けたとき,何人分配れる?」(包含除)のどちらかですけど,5.67人に分ける,ってへんですね.5.67個ずつ分ける,というのもヘンですが,こっちのほうは,
12.34mのテープを5.67mずつ分ける
とすれば,「12.34÷5.67」の問題にはなりそうです.でも,この問題,小数第2位まで求めるのはおかしいですね.割り算での「分ける」という意味を「連続量÷連続量」にまで拡張する必要がここで起こってきます.たしか『ファインマン物理学』の力学の巻の速度の導入のところに速度違反の取締りの警官とバイク乗りの会話で
警官:はい,アナタ時速90km出してたから,制限時速30kmオーバね.
バイク乗り:えっ,「時速90km」ってまだ5分しか走っていないですよ.
みたいな小話が,あったはずだけれど,これは,「時速90km」というのが,割る量,すなわち時間が1時間より小さい(小数や分数で表される)量のときにも意味があって,
「1時間でも,1分でも,1秒でも,その状態をそのまま1時間続けたら90km走ることになる」
というのが,時速90kmということなのでした(というのを,高校生のとき,森毅『微積分の意味』(日本評論社)で読んだ).
それならこの,小学校でもよく出てくる,速さと時間と距離の問題でなら,どうでしょうか.
(A) 12.34kmを5.67時間かけて移動したときの速さを小数第2位まで出して,
そのときの余りも求めよ.
(B) 12.34kmを時速5.67kmで移動したときの時間を小数第2位まで出して,
そのときの余りも求めよ.
うーん,なんで「余り」を出すんだか,動機が不明ですね(笑).これをペンキを壁に塗る問題にして
(A) 12.34dlのペンキを5.67m^2の壁に塗るとき,1m^2あたりに使う
ペンキの量を小数第2位まで出して,そのときの余りも求めよ.
(B) 12.34$dl$のペンキを1m^2あたり5.67dlのペンキを使って壁に塗るとき,
どれだけの面積が塗れるかを小数第2位まで出して,そのときの余りも
求めよ.
とすると,小数第2位の分まで作業した後の,残ったペンキの量という意味づけがえられることになります.そして,そのときに残ったペンキの量が3.61dlなのか,それと0.0361dlなのかを考えれば,小学生のときの自分にも納得のいく説明ができそうです.
●——ナゼ,余りを求めるのか?
でも,しかし,そもそもそもそも,割り算で(ソコマデして)「余り」を求める,というのは,なにがそんなにウレシイのでしょう.中学3年のときに必修クラブで「数学クラブ」というのに入っていて,「平方根や立方根の計算の求め方」というテーマで筆算の方法を考えてみたことがありました.そこでの「余り」というのは,
たとえば,10の平方根√10なら,答えを,
x=3まで求めたら,10-3^2=1
x=3.1まで求めたら,10-3.1^2=0.31
x=3.16まで求めたら,10-3.16^2=0.0144
x=3.162まで求めたら,10-3.162^2=0.001756
となって,どんどん計算が進めば誤差が小さくなって正確な値に近づいているなあと感じられます.これがさらに
100の立方根$\sqrt[3]{100}$なら,答えを,
x=4まで求めたら,100-4^3=32
x=4.6まで求めたら,100-4.6^3=2.664
x=4.64まで求めたら,100-4.64^3=0.102656
x=4.641まで求めたら,100-4.641^3=0.038053279
となって,計算をガンバッタだけどのくらい近似の精度があがったかを確認することができます.これは「余り」を出してみてはじめて実感(評価)できるのですね.というなら,さっきの割り算も,
12.34 ÷ 5.67の商(答え)を,
2まで求めたら,余りは 12.34 - 5.67 × 2 = 1.00
2.1まで求めたら,余りは 12.34 - 5.67 × 2.1 = 0.433
2.17まで求めたら,余りは 12.34 - 5.67 × 2.17 = 0.0361
2.176まで求めたら,余りは 12.34 - 5.67 × 2.176 = 0.00208
と計算を(小数第N位まで)ガンバれば,ちゃんとその誤差が($10^{-N}$のオーダーで)小さくなってくれていることを,確かめられてウレシイ,ということではないか! この,どんどん小さくなっていく感じということに,小学校のときは気づいていなかった,といま,気づきました。
●——ε-N論法?!
これは,いってみれば,
どんなに小さく誤差(余り)の目標を(たとえば,εに)設定しても,
それに応じてちゃんとマジメにある回数(N回)以上計算すれば,
目標達成という願いはかなえられる,
という,ε-N論法を実感していることになりはしないかと思ったりするのです.
小学校のときは「ガンバれば(努力すれば),かならず報われる」と思ってた.ところが,思春期に入ったあたりからどうもそうとは限らないことに気づきます.自分が一生懸命「近づいた」と思っても,相手はそうでもなかったということもあったりします.原稿の催促だって,「もうちょっとです」「明日には送れます」といわれても,その明日に連絡をとると「もうちょっとです」「明日には送れます」と同じことを言われて,以下,数学的帰納法が適用されるのではないかと,編集者が恐れと不安にかられることもあるのです.
いくらガンバってNを大きくしても,イッコーにその誤差が目標設定のεより小さくはなってくれない,そういうカナシイ現実もある,その一方で,ちゃんとガンバってNを大きくすればキッチリ誤差が目標設定のε内で抑えられる,ことももちろんある.そのミキワメを知ることが大事.
——神よ,私に与えたまえ.
変えられないものを受け入れる 落ちつきと
変えられるものを変えていく 勇気と
その二つを見分ける 賢さを.
というのが,カート・ヴォネガットの『スローターハウス5』(早川書房)にあった気がするが,大学生ともなれば,そうした「ミキワメの大切さ」をかみしめる意味でも,ε-N論法を理解しておく意義があるのではないか,といったら,当節の学生さんたちは(ε-N論法はすぐに理解できなくても)その「伝えたいキモチ」はナットクしてもらえるだろうか,と,その人たちに数学の本を買ってもらいたい立場であり,いまは十分オジサンであるワタクシは思うのでした.
(のりまつなおき・編集者)
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