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先を越されてもいい

平成から令和になった。

新時代が到来し、何かを始める人は一定数いるだろう。

かくいう私もその一人で、この度noteを書いていくことにした。

理由としては、文章を書くスキルを身に付けたいのが一つ。

noteを使うことは、自分が何かに秀でていて、自身が蓄えた知識や経験を共有するようなイメージがまとわりついていた。私にしてみればそんな高尚なことは出来ないし、自身が吐き出せる有益な情報などたかが知れているため、しばらくは自然と取り留めもないことを日記のように書き殴っていく日々だろう。

このnoteが数年先に黒歴史と言われることがあるかもしれない。いや、黒歴史になることは避けられない←

そして理由の二つ目。このご時世、LINEやTwitter、FacebookなどのSNSすら自由に気持ちを伝えられなくなった今、このnoteに自分の"今"を書いて行きたいと強く感じた。(noteもSNSやろ!っていうツッコミはここでは受け付ける所存。)

私が何か行動に移すようになるのは必ずと言っていいほど「誰かの影響」から始まる。

好きな人が聞いていた音楽を後追いするかのように貪り聞くことは誰しも経験があるのではないだろうか。

”好きな人が聞いている音楽 → その音楽も好きになって相手に好かれよう”

こんな構図である。

私がnoteを書き始めたのも、大学時代の友人がnoteを始めたのを見てからの事である。GWに入る前からnoteに登録を考えてはいた。考えてはいても、フットワークの軽い友人が先に始めた。ただそんな話だ。

タイトルに「先を越されてもいい」と書いたのは、簡単に言ってしまえば「自分のペースでやろうよ」という、これまた先人が口を酸っぱく言ってきたことである。

これだけの情報に溢れた現代で、”我先に”と未開の地を歩いて行けるのは、多くの知識と経験を積んだ人間であろう。

「何事も始めることに遅すぎることは無い」という言葉は、正確に言えば「 ”一定以上のレベルに到達するための経験値を得るため”には、始めることに遅すぎることはある」ことではないかと思う。

その高みまで行くという人は当然、努力することを怠らずに進み続ければいい。

しかし、どこかで自分に嘘をついてまで無理をしたりする人は本当にその高みまで到達することに意味があるのか一度立ち止まって考えてみてはどうだろうか。

”先を越されてもいい” 位、ふわりとした気持ちで取り組んだら、今の自分では見えなかったものが見えるかもしれない。

今後も自分らしく、好きな時に書き物にのめり込めるように、もう少し周りを見てみようと思った。せっかく始めた事だし、色々なネタ拾ってこ。

ケセラセラ。マイペースでいきまっしょい!

近畿大学でスピーチした某芸人(?)のような、桂剥き大根の皮レベルに薄っぺらい話をしたところで、これから好きな人が聞いていたアイドルの音楽を聞いて寝ることにする。

のりたま

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