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2022年4月、帰省しました その9(全体の感想)

全体の感想で言えば、「やっぱり帰ってきてよかったな」ということです。その動機が「母親の死」という残念なものではありましたけど…。

前回の帰省が2019年6月(正確には5月末から6月初め)だったんですけど、それ以降はなかなかコロナ禍で状況が許さず、落ち着いてきた去年(2021年)から今年(2022年)初めにかけてが一番のチャンスだったかもしれないですが、結局はそれも不意にしてしまいました。

母親と最後に会話したのが今年2022年の3月21日。在宅介護が始まって3日経過したくらいの頃になるでしょうか。今回の帰省時に実家を共にした一番上の姉を介して、LINEのテレビ電話で会話をしました。

病気が判明した数年前から徐々に感じられた部分ではありましたが、この時は終わりに向けた覚悟のようなものを感じましたね。今まではボサボサ頭で帰省しようものなら「あんた髪切りなさい(呆れ)」という感じだったのに、このときは同様のボサボサ状態の頭を見て「ハンサムやね」ですからね。

こんなにも素直になるものなんやな…と思ったものです。

そして、こういう状況でありながら「体を治して茨城に行くからね」と言っておりました。最期まで前向きな気持ちを失わない人だったと思います。


私が母親に電話をするのは、ある時から日常になっておりました。

私が住んでるのは茨城県つくば市。母親が住んでいたのは私の実家でもある福岡県北九州市。遠く離れてるのでおいそれと会うことは出来ません。

ちなみに定期的に電話をするようになったのは6年前。父親が亡くなる少し前、父親が終末医療に入る少し前に在宅介護をしていた頃、母が父の介護をしていて怪我をしたという話を聞き、いたたまれなくなって随時連絡をするようになったのが始まりでした。

それからおよそ6年間、大体月曜日と金曜日の週2回、会社のお昼休みに電話するというのが日課となり、それは「最後」まで続きました。

私は電話したときの母の反応を「目」で観ることが出来なかったためよくわからなかったのですが、ことあるごとに近くに住む姉たちから「お母さん随分喜んどるよ。ぜひずっと続けなさい」と言われ続けてきました。

そんなもんかなあと思いつつ、ただただ習慣として、定期的に、ひたすら電話していきました。時には繋がらないこともありましたが、大抵は病院に診察に行ってて電話に出れない状態だったり、指が乾いて上手くスワイプできなかったり(笑)というのが理由でした。

そういうときは後で折り返し電話が返ってきたり、LINEが来たりしていました。80歳過ぎてましたけど、みんなと話すのが大好きだった母はスマホやLINEの扱いを(流石に流暢にとは行かないまでも)扱えるようになっていましたしね。

そういう「なんの気なし」の電話のつもりだったのですが、電話をかける度に母からは「ありがとね」と言われてましたし、今回帰省して姉たちと話していて「母さん本当に喜んでたんよ!」という話を聞いて、ああ、喜んでくれたんだな、と嬉しくなりましたし、やはりそれだからこそ、最期に一目会いたかったな…と。

今年初め頃の最後の入院の前にした電話では、自分の死に対する覚悟はある程度出来ていたようでした。それでも、それを伝える声は涙声のように少し震えていたのを思い出します。そして、「あんたで唯一心配なのは、嫁さんが居ないことよ」と。

それを言われるとなかなか辛いけど(笑)、めちゃめちゃ心配性な人なので、多分死んでからもずっとそのことを心配してくれているでしょう。


きょうだいたちにも久しぶりに会うことが出来ました。一番上の姉とは、LINEでメッセージや通話のやり取りが結構頻繁にあったり、茨城に住む私の家まで出張ついでに会いに来てくれたりしていましたが、それ以外のきょうだいと会うのは本当にひさしぶりでした。

兄は母の最期を直接看取りました。在宅介護になった2週間の間近くのきょうだい3人で寝泊まりして見守っていたようですが、義姉や姉たちなど周りの証言によれば、その2週間で兄がめちゃめちゃ変わったようなのです。

一言で言えば、母に対してめちゃめちゃ素直になった、ということだそうです。

それまでは照れくささもあってどこかつっけんどんな態度を崩さなかったようなのですが、今回の経験でそれが大きく変わったと。

証言した女性たちは「いまさら?」などと呆れていたようですが、ずっと近くにいるとそんなものではないかなと思います。母親の近くにいると、子どもはどんなに成長しても「子供」に戻るのだと思います。私も、実家に帰ったときは盛大に戻っておりましたし、まあそういうものなのかなと(笑)

だから、親から距離を取る、親の最後を看取る、などは大人になるための通過儀礼のようなものなのかな、と思ったりもします。

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一番上の姉とは5日間実家で一緒に過ごしました。私は基本テレビはあまり見ない方なのですが、彼女と一緒に居たこの5日間は居間で過ごしている間ずっとテレビを付けていたような気がします。最初のうちは会話しててもついついテレビの方に意識が向きすぎてしまい違和感ありましたが、やがてBGM化してテレビ見ながら会話するようになりましたので、やはりだんだん慣れていくものですね(笑)

ある夕食時に「あんたは上のきょうだいたちをどう思ってるのか」と訊かれました。一番上の姉とは12歳、兄とは10歳離れていますが、改めて訊かれるとなかなかうまく答えられないものですね。

このときは直接上手くは答えられませんでしたが、やはり年が離れていると特に小さい頃はどうしても距離があったように思います。私が小学生に上がる頃には二人とも大学生・高校生でしたからね(余談ですが、小学生低学年の頃の授業参観に、当時大学生の姉が多忙な両親に代わり参加したことがあります)。

他の二人の姉とも8歳・5歳という年齢差でしたから、やはり特に小さい頃はとりわけ、接するにはなかなか難しいところがあったような気がします。両親も多忙であまり私に構えなかったようですし、小さいときから一人で過ごすことが多いのも仕方がなかったのかなと思います。

こうして、ぼっち耐性の高さが身についていきました(笑)

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二番目の姉は私と同じく関東に居を構えています。今回の帰省も家族で千葉から車で一晩かけて帰ってきたとのことです。仕事があるとのことで、葬儀の翌日未明には出発してしまいましたので、あまりゆっくり話す機会はありませんでした。

5人のきょうだいのなかで、私と性格が近いのはおそらく彼女です。おとなしめで内向的。他の3人は比較的賑やかで外交的。前者は父親似、後者は母親似として、きょうだいの中でも認識があったように思います。

千葉と茨城ということで比較的近場に住んでいるのですが、あまり交流はありません。もちろん忙しいということもあると思いますが、お互い内向的な気恥ずかしさから若干の距離感はあるのかもしれないですね。

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三番目の姉は私が実家を離れるまで同じく実家にいましたし、なんだかんだで私と一番歳が近いですし、きょうだいのなかでも一番外交的であるため、個人的には一番近しさを感じています。

また、法務局に勤めているため、父や母にまつわる諸々の手続きに関してリーダーシップを取ってくれてとても助かりました。今回の母に関する手続きに関しては、彼女が行う手続きに私が付き添ったりもしました。

母おすすめのうどん屋に連れて行ってくれたのも彼女でしたね。また、葬儀のときには、彼女の旦那さんの靴をお借りしました(笑)

今後北九州に戻るときは、兄や三番目の姉にお世話になることがきっと多くなるでしょうね。

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というわけで、両親の影響もあるでしょうが、5人もきょうだいがいるにも関わらず全員仲がいいのでありがたいことです。「ずっときょうだい仲良く」というのは母親の強い願いでもありますので、いつまでもいい関係を保てるようにしていきたいですね。


うちの母は「明るくて前向き」な人でした。そのキャラクターにきょうだい達も力をもらいましたし、交友関係を見ても、彼女を慕う人が多かったように思います。

今回は本人の希望もあり「ほぼ家族葬」だったため、葬儀のときには知人友人の参列はありませんでした。連絡も在宅介護関係や町内会以外はしばらく時間を置いてから連絡しよう、ということで、葬儀が終わり実家にいる間に訪問にこられた方は少人数ではありました。

ただ、皆さん一様に「あなたのお母さんには大変お世話になった」とお伝えしていただきました。また、在宅介護の会社の方は個人的に訪ねてくださり、関わった期間がそれほど長くなかったとは思うのですが「第二の母のようでした」と言ってくれて、お花まで頂きました。

こうして関わった方の反応をみると、やはりつくづく「母は偉大な人だったなあ」と思います。


こうして母の死により帰省して長く実家で過ごしたことは、是非noteにまとめておきたいなと思っていました。記録として取っておきたいというのと、振り返ってまとめることで気持ちが迷子にならないように、という目的もありました。

結果的には、あれから三週間あまりが過ぎ、だいぶん落ち着いてきたように思います。

また、兄もそうだったように、私も少し人に対して素直になったような気がします(笑)

やはり近しい人の死は、心に大きな影響を与えますね。できれば、それをポジティブな方向に持っていければと思っております。

というわけで、2022年4月の実家帰省シリーズはこれでおしまいです。

明日からは、通常通りの更新に変わりますのでよろしくお願いいたします。

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