TheBazaarExpress38、忌野清志郎が聴こえる、愛しあってるかい~終章夢助

◆ 繋がることへの祈り

「おお、よく来なさった。さああがって。お茶でも飲んでってください」―――。

   清志郎逝去の直後から始まった取材活動。その最後に私が訪ねたのは、西多摩郡のとある農家だった。

   今はバイパスができて少しは緩和されたとは言うものの、一日中ひっきりなしに車の往来がある旧国道16号線沿いにある大きな平屋。緑の垣根で囲まれ、広い庭があり、その前には茶畑も広がっている。

   呼び鈴を押して玄関が開いた瞬間、私は目を疑う思いだった。

―――清志郎さんだ!

   そこに現れたのは、ディップこそつけていないが白髪をツンツンと天に向かって伸ばし、笑うと溶けてしまうような細い目をした小柄な老人だった。齢90歳になるとは思えないしっかりとした足腰。相手の目を見据えて話すその語り口。饒舌なところだけを別にすれば、清志郎が年老いたらこんなふうになっただろうと思わずにはいられない。

   血は争えないというが、この老人こそ、清志郎の生みの母の兄であり、育ての母の弟だ。

   取材前、私はこの老人が約20年前、長年勤めていた教壇を降りる際に記した1冊の書を手にしていた。

『素顔の学校~東京の学校事情と教師の体質』

   そうタイトルが打たれた書の中には、こんな記述がある。

「(私は)戦後、東京多摩の地に、ただなんとなく根をおろし、公立の高校と中学を渡り歩いて三十余年、デモだ、ストだ、研修だといっているうちに教師稼業卒業となってしまった。(中略)遠足、修学旅行、体育祭、合宿、番長、シンナー、自殺、家出、いじめ、おちこぼれ、教育相談、塾、偏差値、内申、通信簿、儀式、会議、組合、教育委員会、そしてPTA。これらの事象は一つ一つが、仕事であり、事件であり、賭けであり、問題であった。マスコミはこれらを常に外から眺め、冷たく『荒廃』と呼んだ。私はそれらを内から眺め、対決し、勝負し、負けて、勝って、泣いて、笑った」

   つまりこの書に書かれているのは、かしこまった教育論ではなく、全てがドキュメンタリーなのだ。

   目次には、こんな文字も並んでいる。

「素顔の学校」「虚像と実像と」「酒と女」「番長論」「教員とは箸が転んでも会議をしたがる人種である」、等々。

   およそ校長や教育委員を歴任した人物の書とは思えない、赤裸々な学校論、教育論。ここで語られている「教育」を「ロックと音楽」に置き換えれば、あくまで実人生の中から溢れ出る言葉で歌うことにこだわった清志郎の生き方、表現とそっくりだ。

   そう思うと、嬉しくなってくる。

   老人は、私の問いに答えて、栗原家の来歴や兄弟姉妹のことを詳らかに語ってくれた。

―――先祖は戦国時代の大坂夏の陣まで遡れる。そこで戦に破れて武蔵の国に落ちてきて、栗原姓を名乗った。母方の係累には『大菩薩峠』の著者の中里介山がいる。

———清志郎の実母である妹の富貴子は愛嬌があって気が利いて、友人も多かった。早くからパーマネントをかけて、何をやっても似合う子だった、等々。

   見上げると、応接室の壁には、白黒の富貴子の肖像写真も掲げてあった。

「いやなに、前からこの家にあった写真は清志にあげたんだけど、そのあとまた出てきたんで、大きく引き伸ばして飾ったんだ」と笑う。

   本文にも記したように、清志郎の実母・富貴子は33歳の若さで胃癌となり、実家であるこの家で息を引き取った。まだ3歳と2歳だった幼い兄弟は、長姉夫婦のもとに預けられ、その後生き別れのような状態で、それぞれ数奇な運命を辿ることになる。

   清志郎は、高校に入学するときも老人に進路を相談している。本家の主であり、職業が教師だったこともその理由だろうが、それだけとも思えない。その後家族を持ってから最晩年に至るまで、清志郎は忙しいスケジュールを縫ってこの家で開かれる新年会に足しげくやって来た。おそらく老人の生きる姿勢や物の見方、考え方を慕っていたのだ。

   老人の娘である山野文子も語っていた。

「お父さんは高齢になってからしゃべることがくどくなりました。子どもたちはそれがわかっているから新年会でもあんまり相手にしなかったんですが、清志さんだけはフンフンと父のおしゃべりの相手になってくれていました。父もそれが嬉しかったんだと思います。母が生きていた頃は、もういい加減によしなさいよなんて言われていました」

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