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大橋トリオがもたらすおだやかな希望

Spotifyの多彩なプレイリストやリコメンデーションで、いままで知らなかった良い音楽に触れる機会が増えているのだけれど、去年知った「大橋トリオ」がいまの僕の心象風景にぴったりで好んでよく聴いている。

彼の歌の素晴らしさはその物語喚起力だ。耳を傾けていると、目の前の世界や自分自身が、ひとつの大きなストーリーの一部として「切り取られる」感覚がある。そう、まるで短編映画の中に引きこまれたように。

そこで喚起されるのは、決して大仰なわざとらしいストーリーではない。現実と地続きでありながら、少しだけそれを「ずらしてくれる」物語。日常的に起こる、毎日の生活の営みが、今までと違った角度から捉えられて、意味をあたえられる。そういう感覚が、育児と仕事で、めまぐるしい日常に生きるいまの自分にあっているのだろう。

そういった物語性とあわせて、彼の歌が胸を打つのは、自分の「記憶」に訴えかけてくるからだ。

あのときこうすればよかった、という悔恨はだれにでもある。先が見通せない状況で、人はなにかを選び取らなくてはいけない。どうしようもないと分かっていても、自分が過去にした決断が正しかったのだろうか、とふと思ってしまう。

大橋トリオの歌はそういう記憶を刺激する。自分を過去の「ある場面」に連れていく。でも、そこで彼の優しい声がもたらすのは痛みでなく癒しであり、希望だ。

たしかに過去の決断はいまの痛みにつながっているかもしれない。でも、彼の歌はその「闇」を「光」にむすびつけていく。僕の大好きな「The Day Will Come Again」はまさにそういう歌で、「光を知るために」闇に落とされた、でも、だからこそ「ここから愛が始まる」と彼は静かに歌う。

日常をたしかに踏みしめて、痛みも含んだ過去の記憶から連なるストーリーにおだやかな光を当ててくれる彼の歌を今日も聴きながら、せわしない日々が持つ意味のことを静かに思う。


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