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2021年。もう一度、オンラインという「場づくり」のフロンティアへ挑む。

はじめに

世界の在り方が大きく変わった2020年。そんな中、僕にとってエポックメイキングな出来事となったのが『REMOTE TRAVEL〜旅するように家で過ごそう〜』というイベントに携わったことだ。

2020年5月の緊急事態宣言による外出自粛期間中、旅に出たくても出られない旅人の「旅したい欲」を解消したいという思いからスタートした31日連続オンラインイベント、通称リモトラ。全国のゲストハウスや旅にまつわる人を訪ねて、僕たちは毎晩Zoomで誰かとつながり続けた。

このnoteでは、その体験から得た僕自身の気づきや考えたことを、2020年の振り返りと2021年の抱負も兼ねてまとめておきたいと思う。
かなりのボリュームになってしまったが、「人とのつながり」「場づくり」「コミュニティ」といったテーマに関心のある人に、少しでも楽しんでもらえたら嬉しい。

※リモトラというイベント自体の具体的なストーリーは別のマガジンで少しずつ更新しているので、もし興味がある方はそちらを覗いてみてください。


人との“出会い“は、蓄積された「情報」の総量である

オンライン(バーチャル)とオフライン(リアル)が、何かと対比された1年であった。
緊急事態宣言が明けてしばらく時が経ち、2021年を迎える今は「やっぱりリアルが良いよね」という揺り戻しの最中、という感じがする。

僕も感情・感覚的には、完全に同意だ。とはいえ、人間の脳が結局は神経信号で世界を認知しているとしたら、バーチャルとリアルは実は対極ではなく、延長線上にあるのではないか、と僕は思っている。
つまり、リアルがバーチャルと比べて決して特別なのではなく、シンプルに脳にインプットされる情報量が圧倒的に違うというだけなのではないか、と考えているのだ。

もう少し具体的に話そう。ここでいう情報量というのはつまり、見た目や声、振る舞い、その場の景色、におい、温度……ありとあらゆるものが含まれる。それを踏まえると、リアルに比べてバーチャルの世界で伝わる情報には、相当な制限があるのは想像できるだろう。

ただ逆に言えば、たとえ限られた平面上の画像と音声だけでも、その情報量を積み重ねていけば、リアルと遜色なく人と人とは“出会う“ことが可能である、と僕は考えている。

この話を先に進める前に、この“出会い“について、もうひとつ話題を挟ませてほしい。


“出会い“のプロセスとインパクトが変わった

そもそも人はどの段階で“出会った”と言えるのだろうか。メールや電話を交わしただけでは不十分。では、Zoomで顔を合わせた時は?

そう、「はじめまして」がオンラインというケースがこの1年でだいぶメジャーになったと思う。
これまでは仕事はもちろん、何をするにも一度は直接会わないと……というのが、一般的な感覚だった気がする。
しかしWithコロナの世界では、そうも言っていられなくなった。初対面からZoomで打ち合わせを行い、その後も繰り返しオンラインで顔を合わせるというのが珍しくなくなった。

そうすると、今までにない順番で、不思議な人間関係が構築されていくことになる。
一度もリアルで会ったことがないのに、会ったような気になっている人。そしてそれなのに、リアルで会う人以上に親近感を感じられるような人。

とりわけ、はじめに紹介したリモトラでは、31日連続開催ということもあり毎日のように顔を合わせる人も多かった。ある夜に初めて出会った人同士でも、2回・3回と回数を重ねるごとに、ある種の連帯感が生まれていった。

そんな人と、リアルで初めて対面するときが何とも面白い。そのファーストコンタクトで、互いに「はじめまして……はじめまして??」というむずがゆさ。有名人でもないのに、「ホンモノだ!」なんて言ってしまいそうな高揚感。

この現象はなぜ起きるのか。それはオンラインで蓄積された情報が、能動的に獲得されたものであることが関係していると僕は考えている。

先ほど並べたリアルで得られる情報(見た目や声、振る舞い、景色、におい、温度etc)は、基本的には意識せずとも受け取っているものだ。
一方でオンラインというのは、そもそもある種「目的」をもってアクセスし、画面に集中しないといけない場である。そして認知が視覚・聴覚に限られた状況下で、僕たちは恐らくかなり能動的に画面の向こう側の人の情報を受け取ろうとしている。
オンラインミーティングが続いてどっと疲れるのは、恐らく画面を見続ける身体的疲労に加えて、この精神的疲労によるものが大きいのだろう。

こうして能動的に獲得し蓄積された情報は、もしかするとリアルな場で対面している際に受動的に得ている情報の“量“を凌ぐ、いわば“質量“のようなものを持っているのではないか。
その蓄積があった上で現実世界で対面し、オンラインでは受け取れないリアルな情報量が一気に混ぜ合わさったとき。ここで起きる化学反応のようなものが、その“出会い“を特別に演出しているような気がする。

もちろんそこには、コロナ禍の中で直接会うことに対する価値やありがたみというスパイスも加わっていると思う。
ただもし仮にAfterコロナの世界になったとしても、この新しい“出会い“のプロセスとそこで生まれるインパクトを上手くデザインすることは、様々な可能性を秘めていると思うのだ。


オンラインの世界で、オフライン的につながる

前述した通り、オンラインとオフラインの掛け合わせによって、新たな可能性が生まれている。それはこの1年さまざまな領域で議論が進み、色んな取り組みも始まっている。

僕自身もどちらか片方ではなく、掛け合わせるのが一番良いという大前提がある。その一方あるのが、「オンラインだけで人はどこまでつながれるんだろう」という好奇心だ。

それは前に書いた「“出会い”とは蓄積された情報の総量である」「バーチャルであったとしてもその情報を積み重ねていけば、リアルと遜色なく人と人とは“出会う“ことが可能である」という仮説に加え、リモトラで過ごした「ラウンジタイム」と呼ばれる時間の体験によるものが大きい。

リモトラというイベントは、多くの場合20〜21時が基本の開催時間。その間に全国どこかのゲストハウスのオーナーさんが宿の紹介をしたり、Zoomの部屋分け機能を使って参加者同士で交流を楽しむ。
特徴的だったのは、21時に本編が終了した後もZoomを開けっぱなしにしておくこと。そうするとそのまま残りたい人は、だらだらとお喋りを続ける。
大体最後まで3〜4人が残って、深夜まで他愛もない話をするのが5月中のお馴染みの光景だった。これをゲストハウスにある交流スペースになぞらえ、「ラウンジタイム」と僕らは呼んでいた。

このラウンジタイムでは、結構みんな「適当に」振る舞う。ご飯を食べはじめたり寝っ転がったり、ながら聞きでチャットだけ参加したり。会話の内容も真面目な話から雑談まで行ったり来たりだ。
そうしているうちに、イベント本編の間は「参加している」という状態だったのがふっと和らいで、「ただそこに居る」という感覚に入る瞬間がある。
離れた場所にいるにも関わらず、あたかも同じラウンジでご飯を食べたり寝っ転がったりしてお喋りをしているような。

この時、僕らは本来能動的に情報を得るべきオンラインにいながら、気を張ることなく相手とのつながりを感じるという受動的な状態に入っていると言える。
「目的」を前提としたツールで繋がりながら、「無目的」にそこに存在している状態。僕はこれこそが、「オンラインとオフラインが融け合った状態」だと考えているのだ。


虚構(フィクション)を信じる力を、場づくりに落とし込む

オンラインにいながら、オフライン的につながる。そのためにオフライン的に振る舞う(ご飯を食べる、寝転がるなど)というのは、ひとつの手段に過ぎない。大切なのは、「オフラインの状態を具体的にイメージする」ということだ。

例えばリモトラでは、前述のラウンジタイムをはじめとして「ゲストハウスに旅しに来た」という世界観で、様々なアナウンスをしていた。例えば「今日はこのゲストハウスに遊びに来ました」「今からテーブルに分かれて座ってもらう感じで、参加者同士でお話ししてみてください」などなど。

旅好きな人なら、宿での一期一会の出会いから思わぬ共通点を見つけて意気投合したり、普段はしないような深い話を語り合った経験があるだろう。リモトラではこうした交流がZoom上で毎晩のように行われていたのだ。
実際「この感じ、深夜のゲストハウスにそっくりですね」という声もあれば、逆に「泊まったことないけどゲストハウスってこんな感じなんですね」と言われることもあった。

やっていること自体はZoomを接続しているだけなのだが、「僕たちはゲストハウスのラウンジでお喋りをしている」というフィクションを共有しロールプレイすることで、オフライン的なつながりを構築することができたのだ。

「場づくり」という言葉自体は、英語で言うと「Place making」すなわち有休地活用というのが本来の意味らしい。
しかし、オンライン上でも「そこに何らかの“場“がある」というフィクションを信じ、オフライン的に人と人が出会いつながることをデザインできるなら。
それは従来の空間的・時間的な距離を超えた、新しい時代の「場づくり」と言えるのではないだろうか。


「人間らしさ」を研ぎ澄ませる挑戦

そもそもこの「虚構(フィクション)を生み出し共有する」というのは、ユヴァル・ノア・ハラリ著『サピエンス全史』で記されている「認知革命」から引用している。

「認知革命」とは何か?簡単にいうと、ホモ・サピエンスが「現実に目の前に存在しないもの」を信じる力を得たこと。
例えば、神話や宗教、国家という概念。お金もそう。実在しないものを全員が信じることによって、それを前提に団結し、人類は他の種とは比べ物にならない規模で協力しあい、繁栄することを可能にしたのだ。

2020年は、大袈裟に言えば人類がオンラインというつながり方を本当の意味で自らのものにしつつあった年だったと思う。

「しつつあった」ということで、まだ自らのものにした、とは思えない。まだ世間的には、このオンラインの可能性は単なる「意思疎通の手段」にとどまっていることが多い気がする。
そのポテンシャルはまだまだ引き出しきれていないはずで、その可能性を拡張する鍵を握るのが、フィクションを信じ共有する力だと思うのだ。

例えば、リモトラで家にいながら旅をし、架空のラウンジで旅人同士が語り合うこと。オンライン宿泊で、行ったことのない地をGoogleMapで歩き回る。オンライン飲み会なんかもそのひとつだ。

「あほらしい、ごっこ遊びじゃないか」と鼻で笑うだろうか。しかし人類は、そうやってフィクションを創造し、目的の無い「遊び」を通じてつながることで、ここまで進化してきたのだ。


2021年、このフィクションの力を使って、僕はオンラインという「場づくり」のフロンティアを開拓していきたい。

オンラインは無機質←→オフラインが人間的、と対比させるのは簡単だ。
しかし、一見無機質にみえるオンラインでも、工夫次第で同じように(もしかしたらそれ以上に)僕たちはつながることができるかもしれない。それをブーストさせるのが、人間を人間たらしめる最初の革命を起こした力だというのは、何だか浪漫を感じないだろうか。

つまり、オンラインの世界にこだわって場づくりに挑むことは、どこまでも「人間らしさ」を浮き彫りにし、それを研ぎ澄ませるという挑戦だと僕は思っている。

それはこれから、AIやテクノロジーが全盛となり「人間らしさって何だろう」という課題に直面する僕たちにとって、きっと意味のあるものだと確信しているのだ。

いま、「やっぱりリアルがいいよね」という揺り戻しがあるのは、当然のことだと思う。
しかし人と人が会えない緊急事態宣言中、なんとかして誰かとつながりたいともがいた中で灯された火種を、僕はしつこく焚き付けていたいと思っている。


さいごに

2020年の大晦日、「ゆく年くる年」を見ていた。

そこで出てきたのが、遠隔操作ロボット。全身の筋肉が動かせなくなる難病に罹った妻とその夫が、ロボットのカメラを通して一緒に初詣に行くのだという。

ああ、まさにこれだな、と思った。
寝たきりで、コロナでお見舞いにもきてもらえない中、「主人と一緒に初詣に行く」というフィクションを信じることが、彼女にとってどれだけの希望になっただろう。

リモトラのある夜でも、同じような出会いがあった。
何の気無しにチャットで会話をしていた中の一人。実は病気で療養中で外出ができないのだけど、色んな人の話を聞いて旅気分を味わえました、と言ってくれたのだ。

はっと気付かされた。僕たちはコロナで旅に行けないことへのフラストレーションを募らせてオンラインイベントを企画したけれど、その前からずっと、移動に制限がある人は存在していたのだ。

この出会いは、僕がオンラインでの場づくりにこだわりたいもう一つのモチベーションとなっている。

2021年、場づくりを通した人間らしさへの挑戦。この「人間らしさ」が、優しく、他者を想う力であることを信じて、この1年のスタートを切ろう。





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