03 嘉吉の変から、二皇子の行宮移動
1、嘉吉の変から吉野南山に移動
嘉吉の変とは、室町時代の嘉吉 元年( 1441年 )に 播磨 ・ 備前 ・ 美作の守護 赤松満祐 が、室町幕府6代将軍足利義教を暗殺し、領国の播磨で幕府方討伐軍に敗れて討たれるまでの一連の騒乱である。
そして、同年ついに「嘉吉の変」に乗じ、小倉官の皇子である天基親王と円満院宮が京都へ進攻して、三種の神器のひとつ神璽(しんじ)を奪い、吉野南山に御所を置きました。
2、三之公行宮へ移動
一方この変が起こる以前に、天碁親王と円満院宮の弟・尊義王は、近江から川上郷に移り住んでおり、尊義王は兄の円満院宮から神璽を譲られ、
皇子の尊秀王(一ノ宮、北山宮)と忠義王(二ノ宮、河野宮)を連れて、三之公(さんのこ)に御所を構えました。
しかし尊義王は南朝の再興を果たすことなく45歳で病死してしまいます。
三之公神社は、入之波温泉の左側の丘上にある。
地元の人によれば、元々は三之公隠し平にあった神社を、近年人口の減少とダム計画になったため、この場所に移したそうだ。
主祭神は、尊義王、尊秀王(一ノ宮、北山宮)と忠義王(二ノ宮、河野宮)である。
ちなみに三之公の意味は、尊義王、尊秀王、忠義王を指します。
尊義王の墓
左記のサイトより(http://blog.livedoor.jp/kawakamimura/)お借りしました。
当方、取材のため訪れようとしたが、あいにく遭難事故にあったため、撮影ができませんでした。
遭難の理由としては、取材中に滝壺に落ちて、身動きが取れない事態になってしまい、滝に倒れていた大木をすがりつき、やっとのことで、滝から出たことを思い出します。
近くにはマムシらしき蛇もいた。
隠し平も同様に撮影出来なかった。
運のいたずらでしょうか?
これで2度めの失敗です。
隠し平には、尊義王、尊秀王(一ノ宮、北山宮)と忠義王(二ノ宮、河野宮)たちが住んでいたと思われる場所で、かなり山深いところです。
普通の人から見ると、本当に住んでいたのか?と疑問さえ思う場所です。
素人では行けない山で、今度はガイドをつけて行くことにします。
3、皇子たちの住居移動
その後、自天王は北山郷(奈良県上北山村)に、忠義王は川上村(神之谷)にそれぞれ御所を構え、南朝の夢を果たそうとします。
尊秀王(一ノ宮、北山宮)の住居
表門は棟門式の四脚門で、桧皮葺の小さい門であるが、
棟木東面に江戸時代末弘化二年(一八四五)の棟札が打付けられていて、建立年代は明らかである。
表門の軒は二軒、板扉内開とし、中央冠木上に蟇股をおく。大工は当地の人であるが、屋根師・石工は他国から来ている。
令和4年現在 2回ほど建て直しをしている。
正面
現滝川二十一代大通音里誌 皇風永扇帝道退昌弘化二乙己歳 大工河合村福岡五郎兵衛
奉再建山門一宇專祈鍼隻除轆不藻如意吉祥之依 同天ヶ瀬岩本弥兵衛
仏日増輝法輪常転四月廿四日上梁石工紀州平谷村金兵衛八
と明記がある。(上北山村文化叢書 上北山村の歴史 付建築 美術工芸 昭和39年より)
忠義王(二ノ宮、河野宮)の住居
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