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05 上北山村の内裏諸門警固役四人の武士と伯母峰峠の警固役橘将監

1,上北山村の内裏諸門警固役四人の武士

前回お伝えした 04ー3で暗殺事件時、上北山村周辺の警備では?(天ケ瀬 八坂神社古文書より)で、天ケ瀬 八坂神社古文書に記載された

「射場兵庫」

「和佐美兵衛」

「奥玉大夫」

「刑部治郎」

この四人の武士について説明します。

ただし、「奥玉大夫」「刑部治郎」については、明細不明になります。
というか、取材許可がおりないので、書けません。

2,上北山村の内裏諸門警固役の和佐美兵衛とは?

この家系は和佐美兵衛を祖とし、慶長の時代(一六○○)から、長左衛門、平右衛門、平吉、

この頃に登場する人物の彌兵術その子の平吉、彌兵衛(利衛門)、平吉、彌兵衛、彌兵衛と続きます。

平吉が三人、彌兵衛が四人で時には平吉が彌兵衛を名乗ることもあり、大変まぎらわしいところがあります。

兵衛とか兵衛門と云う名は、御所の官職名であり、内裏諸門の警固役をさすものでありました。

ワサビの地は室町時代、小橡に北山の宮が南朝の皇子として潜まれていた頃、重要な防衛拠点でありましたから、

大昔からワサビ(又は和佐美)に住し、代々兵衛を名乗ったことは、これ等と無関係ではないと考えております。

(ふるさと 天ヶ瀬 岩本速男氏 2005年出版より)

ワサビ谷

この場所は和佐又山へ行く途中にある谷である。

和佐美兵衛の名前由来は、「ワサビ谷」からきている。

3,上北山村の内裏諸門警固役の射場兵庫とは?

射場兵庫に関する私の記述はすべて口伝とか伝説によるもので、実際に物証として見たものは何一つありません。

このような伝説的なことを書きますと、誤解とか意見の相違は必ずあると思いますが、これから先の話しはこれも一説としてご理解をいただきたい。

伝説とか口伝から推察しますと、射場兵庫なる人物は少なくとも三人登場することになります。

昔しはひとつの家系において襲名することが多く、同じ名前の人物が何人も登場することから大変まぎらわしいところがあります。

第一番目に登場する「射場兵庫頭」(いばひょうごのかみ)頭がついております。

これは「神」として祀られている神か戦争における大将かわかりませんが、天ヶ瀬では「兵庫ノ頭」と呼んでおります。

このお方は「北山宮自天王」に仕えた武人で長禄元年十二月二日(一四五七)の長禄の変において戦死したと伝えられている人物で、

とにかく天ヶ瀬村の有名な武人でありました。この兵庫頭は、自天王に随行して吉野方面から天ヶ瀬の地に入ったか、

それとも郷士として、それ以前の大昔から天ヶ瀬に定住していた家系の者かわかりません。

長禄の変において、赤松の残党が自天王の御首級をとり川上方面に逃亡するところを、おそらく伯母峯峠あたりで追付き戦闘をおこない、このとき戦死したのではないかと天ヶ瀬の古老から聞いたことがあります。

長禄の変から五年まえ、享徳元年二四五二)に川上村の「三ノ公」でおこなわれた拝朝式では、一千百二十人の近郷の人が集まったと伝えられ、

この当時としては大変な人数でありましたから、天ヶ瀬村からも射場兵庫を先頭に多くの若者が参加していたと思います。

この頃の天ヶ瀬は奥地が「ワサビ」「坂本」「新田」それに「奥玉」「日浦」からなる集落を形成しておりました。

それに「泉」を中心とした下西地域も加わると、かなりの戦闘集団になったものと想像しております。

天ヶ瀬の地理的条件から考えると、この地は戦略的に重要なところで、道の集合点でありました。

天川方面からの道は「峯中越え」で「奥駈道」は吉野方面、十津川方面からこの地域に進入することができました。

川上方面からは「伯母谷古道」から天ヶ瀬に通じる道があり、更に「辻堂山」の道の要衝も近く、

天ヶ瀬村の射場兵庫は、自天王を守る大きな役割をもった武人としてこの地に居をかまえたと推察しております。
(ふるさと 天ヶ瀬 岩本速男氏 2005年出版より)

4、伯母峰峠の警護役橘将監

また、橘将監の墓(伯母谷) 橘将監は、伯母谷の土豪で南朝の忠臣であり、川上郷民の総帥として活躍し、

長禄の変 (1457年)の際にも、身は 病床にありながら郷士に檄を飛ばし、奮起させ、北塩谷で凶徒赤松一党を討ち取つた殊勲者である。 

橘将監の墓

あたかも自天王の御後を慕 うように、長禄三(1459) 年十月一日没。
里人は彼を尊敬して天英大明神と称し、毎年十月一日に 祭礼を行い、今に伝えている。 (墓の説明板より)


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