自然災害と公共

容赦なく私たちに襲いかかる自然災害。最近は立て続けに大雨、台風、地震。一時は関西空港と千歳空港という誰でも知ってる大きな空港が同時に閉鎖されている事態にまで。

水害については、温暖化を意識すると、これからもむしろ増えるかもしれないことを覚悟しなけけばならず、地震についても、高度成長期の頃は偶然少なかっただけで、これからも大きな地震は覚悟しなければなりません。

そんな中災害に会われた方や、不幸にもなくなった方の報道を見るたび、それはいつでも自分に降りかかる可能性があることを意識せざるを得ません。

それはつまり、個としての生存だけでなく、人類あるいは日本人という種としての生存を強く意識させられる瞬間ではないでしょうか。

私が突然死んでしまうことを考えるとき、たとえば交通事故、そのためにささやかにでも生命保険をかけていたり、ある程度の備えはしますが、自然災害を目の前にすると、個人の生半可な準備などあまりに無力です。たとえば家も流され私も死に、地域もしばらく復興に時間がかかりつまり周りも自分のことで手一杯なんてことになったら、私の妻や子供達はどうなるのでしょうか。

そこまで思いが至るとき、公共のたくましさ健全さを願わずにいられません。自然災害に巻き込まれたら、私たち家族は公共に頼らざるを得ません。

ですから、自然災害の報道を見るとき、いわゆる税金がカバーする範囲、消防や自衛隊の活躍やより快適な避難所を見たり、それ以外のボランティアや互助活動を見るたびに、前よりよくなってる、東日本大震災のときの教訓が生かされているという実感を得ることは、日々いつ災害に巻き込まれるかもしれない不安を少しでも和らげてくれます。

昔の国のために個が尊重されなかった時代の反動で、私たちは個の尊重に重点をおいて社会を改造してきました。その活動はいまだ道半ばで、いわゆる働き方改革もまだまだ十分ではありません。

さりながら一方で、これからも大規模な自然災害がなくなるどころか増えそうな中、自然災害によるまとまった損失を乗り越えていくだけの力を日本あるいは世界が持っていなければなりません。昔はそれを祈りでしか実践するしかありませんでした。

高度成長期には「防災」という言葉でそれに立ち向かってきましたが、自然の驚異の前に、損失を0にするなど思い上がりもいいところです。

そして、今私たちは「減災」という言葉を日常にするようになりました。

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