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プロレスのポスターを再び電柱に!

なぜ、選挙のポスターは魅力がないのか

都議会選が終わったね。いつもつくづく思うんだが、どうして候補者たちのポスターは、ああ魅力がないんだろう。

しかし、もしこのポスターがキミがほしいと思ったら、いやもっと”はがして持って帰りたい”と思ったらどうだろうか。その候補は必ず当選するだろう。

なぜ、政治家の立候補ポスターは魅力がないのだろうか。まずはその顔を知らないということがあげられる。人間は既視感や親和性を感じないものには、魅力を感じないものだ。

例えばそのポスターの顔が見たことがある顔だったらどうだろう。「あ、見たことある」となるだろう。それだけで投票行動が促される。ましてやテレビで毎日みる顔だったら、印象付けられる度合いはもっと大きくなる。さらにその顔がキミの好きなアイドルだったら、これは投票に行くだろう。

悪目立ちは致命的なマイナス

親和性、既視感がないと、ポスターは魅力のあるものにならない。各党が顔の売れている候補を欲しがるのも道理だ。しかし、顔を知っていてもその候補に魅力がなければだめだ。

なんだつまらないやつじゃん、ではかえって逆効果というもの。最近はYouTubeで各候補とも顔とキャラクターを売ることに必死になっているが、面白いやつなどそうそういるものではない。凡庸か、逆に悪目立ちの二択しかない。後者はメイクしたり、ただ非常識なことを言うだけ。

プロレス・ポスターの秘密は”型”

さて、その人物を知らなくても、そのキャラクターに魅力がなくても、人々が見入り、時に盗んで持って帰りたくなるポスターがある。

プロレスのポスターだ。

プロレスのポスターには”型”がある。最近は見かけなくなったが、昔は電柱に貼られていた。パン屋、クリーニング店、スポーツ洋品店の店頭でもよく見かけた。

大きさは結構大きい、60センチ×90センチくらいだろうか。デザインはプロレスラーがファイティングポーズをとっている上半身が、20人くらい、ポスター全域にひしめいている。

写真の大きさは、ネームバリューやレスラーの格に比例する。ポスターの上部にはデカい字で〇〇プロレスとある。一番下には、会場名と日付、試合開始時間が書いてある。

もちろんその写真が猪木だったら、文句なく人々は振り向くし、欲しくなる。

しかし、ここが大事なところだが、仮にそのポスターに登場するレスラーを誰も知らなくても、プロレスファンは必ず振り返って見るし、その試合を見に行く可能性は高い のだ。

これは”型”の力である。

プロレスには型がある。リングがそうだ。リングシューズにタイツといったレスラーの出で立ちがそうだ。レフリーがいて、試合前に受けるコールも型である。一昨日紹介したチケットやパンフレットも"型”だ。

その試合に登場するレスラーを、プロレス界で定まったレスラーの価値をポスターという空間に投げ込むと、世間がそれを見た瞬間に「おっ、プロレスやるんだな」とわかる絵ができる。

大事なのはポスターという小宇宙に、精一杯のファイティングポーズをとったレスラーがひしめいている様だ、これがプロレスポスターの"型”なのだ。

有名レスラーなど一人もいなくても、このポスターという型さえあればいい。プロレス興行が近くここでありますというメッセージが伝わり、プロレス好きの人々が集まる。

世間的に全く無名のプロレス団体が何とかやっていけるのも、ポスターを始めプロレスの型に負うところが大きい。

プロレス・ポスターの象徴としてのラッシャー木村

昭和のプロレスの風景の代表的なものは、電柱に貼ってあったプロレスのポスターである。昭和の名曲「いちご白書をもう一度」に、♪雨に破れかけたぁー、街角のポスターに過ぎ去った昔が鮮やかに蘇るぅ♪という一節があるが、プロレスファンなら、電柱にノリで貼ってあった半分破れかかった、国際プロレスのポスターを思い出すに違いない。

ポスターの真ん中には血だるまのラッシャー木村がいる。

あれこそプロレスのポスターなのだ。一言でいうと"場末感”だ。

地方の人も少ない、こんなところでもプロレスやるのか、という場所で何年も前の国際プロレスのデスマッチを知らせる、剥がれかかった古いポスター。

こんなたたずまいを出せるのは、プロレスしかない。それも国際プロレスだけだ。そして"金網の鬼”ラッシャー木村は、悲しいほどこの景色に同化する。

国際プロレス

しかし、いまや電柱にプロレスのポスターを見ることはない。条例で禁止されているだろうことは・容易に想像がつく。イヤな時代になったものだ。プロレスの風物詩がまた一つ消えていく。

プロレス・ポスターという見せるシステム

今日もテーマは見せるシステムとしてのプロレスだが、ポスターはまさに見せるシステムとして重要な役割を持っている。すでに触れてきたことも含めて、まとめてみたい。

1.告知機能
ポスターはプロレスの型に則っているおかげで、それを何処かに貼りさえすれば、プロレス興行がその近くで行われているという告知になり、集客につながる。

2.そのカタチそのものが一つのアート
先ほども述べたように、興行に出場レスラーがそのバリューに応じた大きさで、ポスターに入り込む。そこに一つの形式が生まれ、アートが生まれる

3.ポスターはプロレス、プロレスラーの分身
ポスターは、チケットやパンフレットと同じく、プロレス団体やレスラーのブランドがカタチを変えたもの。目で楽しめるグッズの一種。

4.歴史的価値
ポスターは日付と場所が書いてある。興行がいつ何処で行われたかを明示する歴史的な資料と言える。

5.価値創造機能
ポスターのカタチそのものが、愛でる(目でる)に値する価値である。

もう一つ意外な物の価値を高めることにお気づきだろうか。場所、である。

例えば大仁田FMW、大宮大会などというポスターがある。ポスターの下部には必ず会場名が書かれている。例えば大宮スケートセンター試合開始18時、などだ。

大宮スケートセンターはポスターに記されてだけで、プロレスをまとい、プロレス用語化したのだ。価値がついたと言ってよい。

ファンは大宮スケートセンターと聞くだけでプロレスを連想し、興奮する。ファンが興奮する会場名は他に、蔵前国技館、愛知県体育館、戸田市スポーツセンターなど。

力道山が作った巡業システムを壊すな

最後にポスターは、プロレスが今も地域と一緒に生きている証拠である。

この地でプロレス興行があることをしめすポスターは、地域の人のプロレスに対する理解と協力があってはじめて、そこかしこに貼ることが許されるのである。

これはプロレス創成期から、日本中をプロレス興行でくまなく回るというシステムを創った力道山のおかげである。

ポスターこそ、地域とプロレスの絆の証。これを消してはならない。

今日も最後まで見てくれてありがとう。

また明日ね。

                             野呂 一郎

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