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プロレス&マーケティング第54戦 猪木名言解析「プロレスラーはブラウン管の虚像」。

この記事を読んであなたが得られるかも知れない利益:かつての猪木の言葉を読み解くことで、プロレスがあなたの人生を益するかも知れないという話。

半世紀前の猪木の謎かけ

これは僕が少年時代に、月刊ゴングという当時のプロレス雑誌の編集後記のようなコラムに書いてあった、猪木の言葉なんです。

それは、猪木が記者になにかの折に発したもので、「プロレスラーはブラウン管の虚像だ」という言葉です。

記者はそのコラムに感想として「猪木選手、なかなか学のあることを言う」と書いていました。

僕は、長じて後もその言葉を覚えています、今でも。

非常に気になっていたのは、なぜなのでしょうか。

今、猪木のその言葉をこう解釈しているのです。

「ブラウン管」という言葉は、テレビが分厚く「ブラウン管」という基幹部品で作られていた時代の名残です。

ブラウン管とは、テレビのことですから、この言葉は「テレビで人々が見ているプロレスラーは虚像、つまり自分を偽っている存在である」という意味です。

猪木がこの言葉を使った背景

この時代は、猪木と馬場が同じ団体、日本プロレスにいたことが重要です。

猪木と馬場には、大きな差がついていました。

馬場は日本プロレスの絶対的エースで、猪木は二番手でした。

メインは必ず、ジャイアント馬場がシングルマッチで締めるという時代でした。

猪木が馬場と肩を並べるのは、1969年4月に行われた第11回ワールド・リーグ戦で、猪木がクリス・マルコフを破って優勝した時です。

猪木がこの言葉を発したのは、それ以前で「オレのほうが馬場さんより強いのに・・」という不穏な本音をちらつかせていた時でした。

ブラウン管の虚像の一つの解釈は、「猪木は実力を発揮する事ができない、ジレンマを抱えていた」ということです。

プロレスに限りませんが、すべては政治です。

つまりパワーバランスが、世の中を支配しているということです。

虚像を演じた猪木は、政治には勝てませんでした。

もう一つの解釈

もう一つの解釈は、猪木が意外にもファンにプロレスの見かたを伝授したという考え方です。

プロレスには様々の、事情というものが絡んでいます。

競技でありながら興行であるという矛盾、強いものが必ずしも上に行けるわけではないという不条理、プロレスラーのプロレス観、団体の目指す方向性、プロモーターの意向、テレビ局の思惑などなど、です。

プロレスはブラウン管の虚像という意味は、プロレスラーには実像つまり純粋な競技としてプロレスを戦えない制約がある、という現実を指しているのです。

しかし、猪木の60年に渡る戦いを見てみると、その制約をすべて生かし切って、独自のプロレス美学に昇華したことがみてとれます。

ときにはその制約を無視し、文脈無視のアドリブをかまし、試合中のインスピレーションで予定調和をぶっ壊し、プライベートの件で私的制裁を課すなど、やりたい放題をやってきたのが、アントニオ猪木というレスラーなのです。

ですから、「ブラウン管の虚像」とは、猪木ですらわからない、プロレスラーという一種のおばけのことを言っているのです。

制約はあるし、守らねばならない、しかし、おのれの美学がそれをよしとしなければ、いつでも破っていいのです。

そこに予定調和を遥かに超えた、猪木のプロレスがありました。

それは格闘技も超えた、芸術だったのではないでしょうか。

実像なんて、実は面白くねぇんだ、虚像こそが美学、そしてそれを演じるのは、最高のアーティスト、そんな思いが「プロレスは虚像」という言葉に秘められていたのではないでしょうか。

マーケティングの文脈でまとめると、「マーケターは猪木たれ」、という言葉になります。

虚像を演じるとは、ターゲットとするお客さんとの、融通無碍な駆け引きをせよ、ということにほかなりません。

だましたフリ、だまされたフリはもちろん、旧製品が散々で、死んだふりして、画期的な新製品を作り出すとか、鉄鋼業が美味しいクッキーを作っちゃうとか、世の中を裏切ることを上手にやってのけるマーケティングをやれ、ということです。

たとえば、ガリガリ君の赤城乳業が、「ガリガリ君シチュー味」を発売しましたよね。あれも、公式発表は「意図的にかました」ですが、実はマーケターが暴走した結果かもしれません。

会社的には大赤字を被ることはわかっていても、猪木のようなエース社員が企てたことだから、仕方ないとなったのかも、です。

マーケターは、いまこそ、猪木の研究が必要ではないでしょうか。

野呂 一郎
清和大学教授


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