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拒触症の時代に飲み込まれていたことに気づくーユニバーサルミュージアムー

先日、国立民族学博物館(みんぱく)で開催された特別展「ユニバーサルミュージアムーーさわる!"触"の大博覧会」に行った。

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コロナ禍における「あたらしい生活様式」がスタンダードになりつつある世界で「さわる、さわられる、さわらせる」の「むかしの生活様式」に焦点を当てた展覧会は、僕たちの「このままでいいのか?」を考える良い材料を提供してくれた。

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普段、美術館や博物館に行く場合、誰かにその体験を伝える前提で見ることが多い。

解説を読み、カメラを携え、その後に鑑賞する。

しかし、今回はそれらをあえて後回しにし、目を閉じて触れ、想像し、見て、解説を読む。また、写真を撮らないために、あえてスマホの電源はオフにした。

そんなスタイルだと、普段の2倍近く鑑賞に時間がかかってしまい、改めてリアルの情報量の多さを感じさせられた。

コロナ禍があったからこその展示ではあるが、コロナ禍以前の美術の楽しみ方にも問うものであった。

「わかった気になる」美術鑑賞

これまではアートの楽しみ方をわかっていなかったのかもしれない。

というのも美術館にいると、次々と「見るべきモノ」に出会うし、人の流れに押されるし、人混みの中がそもそも疲れるしで、作品を感じることなんてしなかった。

一眼見て「おお...」と唸り、解説を読んで、写真を撮れば、その作品を「鑑賞した」ってことになってしまうからね。だから、美術品を見た後に何かわかった気になっていたのかもしれない。

今回の展示はとにかく触れることで作品一つ一つに向き合うことができた気がする。

ただ、そうし続けるにはあまりにも作品の数が多く、途中で疲れてしまい、鑑賞の仕方が雑になってしまった作品群もあった。

こんな楽しみ方をしたのは岡本太郎美術館のとき以来だろう。

あそこは常設展だからあまり人が多くないし、一つ一つの作品に多大なる「気味悪さ」が込められているから立ち止まらずにはいられない。

何度か行ったものの、その度にこれからの指針を考える上での重要な視座を提供してくれる。改めてまた行きたくなった。

写真を撮ることすらも鑑賞の一つ

そんなユニバーサルミュージアム展だが、ついにスマホの電源を入れ、撮ってしまった作品があった。

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タイトルは覚えていない。

これは触れる巨大な絵であったが、一緒に来ていた妻がカメラを構えているのを見たときに、実際の絵と彼女のスマホから見える絵と大きな違いがあったことに気付かされた。

人間の目で見る景色とレンズ越しに見る景色には大きな違いがある。

人の身体を使って絵を見ているために影になってしまう景色とスマホによって浮き上がる細かい粒子を保ちつつも全体が見える景色。

あえて、スマホを使うからこその楽しみ方ができるのではないかと考え、この絵を見るときだけはスマホの電源をオンにしていた。

空間の一部になる

展示を出た後、お気に入りの日本庭園に向かった。

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万博記念公園の日本庭園はEXPO70にて実際に展示されていたものだ。

日本庭園の文化を世界に向けて発信すべく、上代・中世・近世・現代の4つの時代それぞれの庭園を再現したものがこの庭園だ。

規模や美しさは当然、既に50年以上もこの庭園が維持され続けていることに感動を覚えてしまう。

竹林の小径に休憩のベンチがあった。その周辺は白い小石で敷き詰められていた。

ベンチにかける前にその小石の上で膝をつく。

その瞬間に何か巨大なものに引き込まれるように倒れ込み、しばらく動けなくなってしまっていた。

このとき、たしかにこの森と一つになった感覚があった。

優しい気に包まれ、大地と空のエネルギーを一身にうける。

たぶん、瞑想していたのかもしれない。

「ああ、こんな楽しみ方もあったのか...」

目を閉じて聞こえてくる音、触れる風。この地にしかない、ここにいかなければ味わえない感覚に気持ちよく酔った。

太陽の塔、その巨大なるもの

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太陽の塔はあまりにも巨大だ。

きっと写真では伝えられないし、下に立ってみなければその大きさはわからないだろう。

完全に日没し、誰もいなくなった太陽の塔のふもとで座り込み上を眺める。

今年、シンエヴァを見て、「世界の終焉と何者にもなれない自分への悲観」である平成から卒業した。

太陽の塔は昭和からの卒業の象徴であることはオトナ帝国が教えてくれた。

とにかくあの映画が大好きで、リアルタイムで劇場で見て、高校生の頃に改めて見てひどく泣き崩れ、何かから立ち直ろうと考えるたびにオトナ帝国を見ていた気がする。

岡本太郎もオトナ帝国がなければ出会えていなかったのかもしれない。

未来はこの手で作ることができる。その情熱、その希望、全てをこの太陽の塔に教えてもらった。

1時間くらい経ったのだろう。気温が低くなければずっと見ていたのかもしれない。

触れる展示から最終的に見る展示へと落ち着いたが、研ぎ澄まされた「見る」はたくさん触れ、見ることを一度辞めたからこそできるようになったのかもしれない。

岡本太郎ならびに太陽の塔そのものへの敬意を払い、奈良の家へ帰ることにした。

P.Sマスク強制社会の中で

ユニバーサルミュージアム展にはいわゆる身障者の方を見かける機会が多かった。

杖をついている人、車椅子で来ている人.....

それでもマスク着用や手指のアルコール消毒を徹底されることに嫌気を覚えていたけれど

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ありがたいことに、このような札を用意してくれていたのだ。

受付時に「マスクをつけることができない」と伝えるだけで貸してもらえる。

コロナ禍が始まる前からマスクをつけると頭痛や熱っぽさを感じることが多い僕にとっては大変にありがたい取り組みだ。

今日も「マスクをつけてください」とお願いされるが「コロナの後遺症でできない」と答えなければいけない世界だが、「マスクをつけることができない人がいる」ことがより知られるようになってほしい。

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