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「サドンデス」と「覇王の轍」と相場英雄作品

小説のタイトルはどうやって決めるのだろう。
作家が決めるのか、編集者が決めるのか。
いずれにしてもこのタイトルによって、私はその本を手にするか否かが決まる。
手に取ってそのままレジへ行く場合もあるし、
手に取ってはみたものの、元の場所に戻す場合もあるし、
3周くらい書店内を彷徨ってから買うことも帰ってしまうこともある。
作家名ではなく、タイトルに惹かれる。
もちろん気に入った作家の場合、作家名で手に取ることも当然ある。
しかし、ピンとこないと、いくら好きな作家でも手に取ることすらない。
それだけ私の中での”タイトル”というのは重要なのだ。
とはいうものの、「サドンデス」と「覇王の轍」は作者名で購入を決めた。
両作品とも、著者は相場英雄氏。NHKでドラマ化された「ガラパコス(主演:織田裕二)」の作者でもある。
この作家の話は読んでいてなにしろ疲れる。それなのになぜ私は作者名でこの作品を選んだのか。ちょっと考えてみた。

読んでいて疲れる小説なんてどうかと思う。私が読書が好きな第一の理由は、現実では起きない世界を体験できる。自分のペースで誰にも邪魔されずに浸ることができるし、面白くなければ途中でその世界から脱出することもできる。リラックスできるし、自分だけのキャスティングで読み進めるのも楽しい。だから読んでいて心底疲れる相場作品はその理由に当てはまらない。
でははなぜ選んだのか。
相場作品の疲れる理由とは、耳慣れない警察用語がポンポン出る、描写が正確すぎる上に細かい、というまさにその場にいるような感覚、もっと言えば事件関係者でいるような捜査官になったような感覚に襲われる。
臨場感あふれる、とはまさにこのこと。
初めて相場作品を読んだときは新人刑事のような、何作か読んでいくうちに相棒のようなそんな気持ちでページをめくってしまう。
直感で選んだけど、おそらくそんな理由だ。

相場作品はどの作品にも特徴があって、プロローグとエピローグは”本件”に対するとても短い前日譚になっている。プロローグはわかるが、エピローグも前日譚なのだ。小説のエピローグは物語のその後を描いていることが比較的多い。”イヤミス”という終わり方であっても、いわゆる”結末”が描かれている。しかし私の知る相場作品のエピローグは、結末ではなく”始まりで終わる”のだ。

きれいに最後を迎えるのはスッキリしていていい。
いやな気分で終わりを迎えるのもまた一興。
では、大きな決意が打ち砕かれてしまう前の気持ちを最後に知ったとしたら。

それは読んだ人にしかわからない。


いただけるなら喜んでいただきます。