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3. ミシェル・ウエルベック入門。(19/09/24-30)

目が覚めて気がついたが、僕はカーペットに吐いていた。パーティは終わろうとしていた。僕は反吐をクッションの山で隠し、それから家に帰ろうと立ち上がった。その時、車の鍵がないことに気がついた。
                       『闘争領域の拡大』 p.10


今週のテーマは、「ひたすらウエルベックを読む」。

ミシェル・ウエルベック - Wikipedia

ウエルベックについて知らない方のために言うと(僕もよく知らない)、彼は現代フランスを代表する作家の一人である。僕ですらその名前といくつかの著作のタイトルを知ってたくらいだから有名人。

彼の作品は、「どれも現代西欧社会に対するある種の強烈なルサンチマンをエネルギーにして書かれている」。僕の研究室の先輩はそんなことを言っていた。「読んでて楽しいとか、スッキリするとかそういうものとは対極の文学だよ」。とも言っていた。これは読むしかない。と僕は思った。


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一週間でどこまで読めるかなと思って始めたが、結局2冊しか読めなかった。まあでも今回読んだ2作品だけでも、ウエルベックという作家のことがある程度わかった気がするし、研究室の先輩が言ってたこともとても納得がいくものだった気がする。ということにしましょう。

ちなみに僕は本のレビューとかを上手に書けるような能力は持ち合わせていない。なので以下では印象に残った部分を引用するとか、そんな感じのことをちょっとするだけ。少しでも気になったら自分で読んでみてほしい。


『闘争領域の拡大』( Extension du domaine de la lutte, 1994 )

『闘争領域の拡大』は、ウエルベック最初の長編文学作品。

主な登場人物は、ソフトウェア会社のアナリスト・プログラマーである主人公の「僕」と、その同僚のティスラン。「僕」はまあまあ仕事ができると思っている。ただ「僕」は仕事にうんざりしている。「僕」の仕事ぶりに対する周囲の評価もあまりよくない。というかうんざりしている対象は仕事だけじゃない。同僚のティスランは「僕」と行動を共にする。ティスランは醜い。ティスランは女と寝たくてもどうにもならない。それが、「性的行動が一つの社会階級システムである」この世界である。「僕」はそんなことについて動物小説を書いたりしている。「僕」は会社を休む。


本編の冒頭にはこのような部分がある。タイトルが意味するところはざっくりとこんなところかと( ( )内はページ数を表す(河出文庫版))。

あなたもこの世界に関心を持っていたことがある。ずっと前のことだ。どうか思い出してみてほしい。あなたは、ただルールに従っていればいいという領域に満足できなくなった。もうそれ以上、ルールの領域では生きられなかった。だから闘争の領域に飛び込んだ。(18)


では、以下本編のほんの一部分をば。


奇妙なことに、往きに見たように、今また太陽が赤くなった気がする。しかしだからなんだ。真っ赤な太陽が五つあろうが六つあろうが、僕の瞑想の行方は変わらない。...僕はこの世界が好きじゃない。(104)


やはり僕らの社会においてセックスは、金銭とは全く別の、もう一つの差異化のシステムなのだ。そして金銭に劣らず、冷酷な差異化システムとして機能する。(126)


「僕になにができる?」彼は言った。
「オナニーしてこい」
「もう駄目だと思うかい?」
「そうだとも。ずっと前から駄目なんだ。最初から駄目なんだよ。」(149)


(※次の一節は大きなネタバレになるので注意)


ティスランの死のニュースを聞きながら、僕は思った。少なくとも彼は、最後まで奮闘した。若者向けバカンスクラブ、ウィンタースポーツ系バカンス...。少なくとも彼は、諦めたり、降参したりしなかった。

...僕は知っている。ひとけの無い高速道路で、205GTIのシャーシに潰され、黒のスーツと金色のネクタイ姿で血まみれになりながら、彼の心中にはまだ闘争も、欲望も、闘争心も残っていた(155)。



その後彼は会社に休暇願いを出す。司祭をやっている友人の「告白」を聞く。そして、夢を見る。目がさめる。また夢を見る...。



『素粒子』(Les Particules élémentaires, 1998)

ミシェル・ジェルジンスキは、世界史上に新時代を開くこととなった、多くの点で最もラディカルな大三次形而上学的変異の先駆者でもなければ、立役者でもなかった。しかし、人生におけるまったく個人的ないくつかの事情ゆえに、彼はその最も意識的で、最も明晰な推進者となったのである。(プロローグ)


『素粒子』は『闘争領域の拡大』に続いて出版された長編小説。彼の名が一躍広がるきっかけになった作品でもある。


あらすじはもう巻末のそれを引用してしまう(ちくま文庫)。

人類の孤独の極北に揺曳する絶望的な“愛”を描いて重層的なスケールで圧倒的な感銘をよぶ、衝撃の作家ウエルベックの最高傑作。文学青年くずれの国語教師ブリュノ、ノーベル賞クラスの分子生物学者ミシェル―捨てられた異父兄弟の二つの人生をたどり、希薄で怠惰な現代世界の一面を透明なタッチで描き上げる。充溢する官能、悲哀と絶望の果てのペーソスが胸を刺す近年最大の話題作。

...もう、何が何だかですね。読むしかなさそう。


というわけで、こちらも読みました。この作品についても、何節かを半ば自分用のメモとして残します。

また、未来の読者のために相関図を適当に描いてみました。混乱しやすい方は参考までにどうぞ(間違ってたらごめんなさい)。

相関図

画像1


ちなみに、ミシェルとブリュノそれぞれが抱える「痛み」は、どちらも同じく普遍的。それだけは確かな気がする。



七月のある午後、庭で読書しているときにミシェルは、生命の科学的基盤は全く別のものでもありえたのだと気づいた。...別の惑星上で、異なる気温と気圧の下に置かれていたなら、生命細胞は珪素、硫黄、燐からなるものだったかもしれない。それともゲルマニウム、セレニウム、砒素か、あるいは錫、テルル、アンチモンか。そうした事柄について一緒に語り合える仲間は誰もいなかった。孫にせがまれて、祖母は生化学の書物を何冊も買ってやった。(51)


テントの中に寝そべって、ミシェルは夜明けを待っていた。夜の終わり頃猛烈な雷雨が訪れ、ミシェルは自分が少し恐怖を感じているのに気づいて驚いた。やがて空には穏やかさが戻った。しとしとと雨が降り始めた。彼の顔数十センチのところで、雨粒がテントの布地を叩き、鈍い音を立てていたが、雨に濡れる心配はなかった。突然彼は、自分の全生涯は今のこの瞬間に似たものになるだろうという予感に襲われた。人間たちの様々なエモーションの中を自分は渡っていき、時にはそれに巻きこまれかけるだろう。他の人間たちは幸福か、あるいは絶望を知るだろう。だがそうした事柄が、自分にとって真に問題となったり、自分を動じさせたりすることは決してありえない。(119)


生まれてくるのが男の子だと聞かされたときは、激しいショックを受けたよ。いきなり最悪のニュースさ。これであとは最悪の人生と決まったようなものだ。喜ぶべきところだったんだろう。でも二十八歳にして、もう死んだような気分だった。(238)


とりあえず主に前半部分のみ。

ちなみに一番覚えているのはブリュノが夜中に起き出してコーンフレークを食べるところ。あのシーンに救われる人が、決して多くはないが必ずいる。



そして以下は、『素粒子』の訳者でもある野崎歓によるウエルベック評である。

「作者の死」の彼方に ―ミシェル・ウエルベックの挑戦

あとこちらも同じく『素粒子』に関するレビュー。

素粒子の研究



とまあこんな感じ。少しでも興味を抱いた方がいれば書店で手にとって読んでみてください。他にも『服従』『地図と領土』といった作品が話題を呼んだそうで。



まとめ

ウエルベックが作品を通して伝えようとしたことは、もしかすると半ば数ページで要約できるかもしれません。それを読めばその作品が意味するところは理解可能かと思います。ただそれは、「ウエルベックが作品を通して伝えようとしたことを理解する」以上のことを意味しません。

文学作品を読む目的は果たしてそれだけなのか。 
少なくとも僕にとっては、そうではありません。


次回予告


「東京三角コーンコレクション」

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