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『あれから・・・ 』

 この話は2017年11月にトラベラーズノートのウェブサイト「みんなのストーリー」に掲載された旅のストーリーです。現在も掲載されています。そのままここに掲載いたします。現在も「みんなのストーリー」に毎月一作旅の話を書いています。これは掲載第121作目です。

 121作目としてこの話とは別の話を用意して構成していた。そろそろ本文を書き始めようとしたときに、2017年の今年は香港が1997年にイギリスから中国に返還されてちょうど20年であることに気付いた。主人公が返還の日の香港に降り立つところから始まる文庫本で3冊組の沢木耕太郎の小説の2冊目を読み終えていたが、気付かないままだった。  

 2017年のうちに投稿して年内に掲載していただけるチャンスはあと2回。年内最後の掲載に向けては別途準備を進めている話を書く予定でいるので、返還20年の節目で香港の話を書くのはこのタイミングしかなかった。来年になってから、改めて振り返ってみると・・・という体で書いてもいいのだが、キリのいい20年目のいま書くのとでは書こうという意欲が多少変わってくる気がした。それに、読むほうの受け止め方も変わってくるはずだと思った。“今年で20年”と“去年は20年目だった”ではかなり異なる。

 初めて香港を訪れたのは航空会社へ入社して3年目だった1992年の6月。短い休暇を取っての旅だった。自社便で降り立った空港は、返還前なのでもちろん啓徳空港だ。この旅が私の初めてのアジアの旅でもあった。

 航空機が啓徳空港への着陸態勢にはいると街中に突っ込むようになると事前に聞いていた。座っていた通路側の席からも隣の席の窓越しに街中のネオンがはっきり見えたときは、事前に聞いていたとはいえ、結構驚いた。しかし、その後頻繁に香港を訪れるようになると、香港に来たなと先ず実感するのは機内の窓からネオンが見えたときになった。その独特の着陸態勢を”Hong Kong Approach” とパイロット達が呼んでいることを知るのはもう少し後になってからだった。

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おー懐かしい!・・・と思ったトラベラーも多いのでは? この絵葉書は左上の年号から返還後に発行されたものだということが分かります。    返還は1997年、新空港開港は翌1998年でした。返還後訪れる度に見つけるとつい何枚か 買っていました。私からこの絵葉書が届いた友人は結構いると思います。しかし、飛行機が建物に近いなぁ〜。轟音が凄かったろうなぁ〜(苦笑)。

 機内からターミナルビルへ入った途端に、お香というか中華料理に入っている八角に似た匂いと生乾きの洗濯物の匂いが混ざったような匂いがした。これまで訪れてきた欧米の空港とは全く異なる匂いがしたので、ここは勝手が違うぞと肩に少々力が入った。その後似たような匂いに台北、北京、上海で出会うことになるのだが、それももう少し後の話だ。

 タクシー乗り場へ向かうためにターミナルビルから外へ出た。出た途端に瞬時に“これか!”と分かったアジア特有の湿気を肌に感じた。6月だったので東京も梅雨で体が多少通常よりは湿気には慣れていたとはいえ、かなり強烈であった。

 タクシーで九龍のホテルへ向かう途中飛行機がその中に突っ込みそうに見えたネオンが頭上に並んでいた。これまで写真や映像で見てきた香港の景色の1つが本当にそこにあった。まるで映画のセットの中に放り込まれたようだった。匂いの次は訪れてきた欧米の都市との景色の違いを目にしたが、ここは面白そうだと思い、肩の力が少々抜けた。

 短い旅ではあったが、食事もちょっとした観光も楽しめた。食べたものはどれも安くて美味しかった。飲茶をしに行った際に、前菜程度にしか思っていなかった点心のその種類の多さに驚き、選んだものがどれも美味しかった。具合の悪いときにしか縁がなかったお粥がここでは立派な食事であり、滞在中毎朝食べた。スターフェリーにもトラムにも乗った。駆け足の観光だったが、レパルスベイとスタンレーへバスで行った。道中の山道に小学校の林間学校で行った日光のいろは坂を思った。

 いくら国際都市とはいえアジアだから多少の不便は感じるだろうと思っていたが、何1つ不便を感じることはなかった。近くにこんなに面白いところがあったのかと思い、近いうちに必ず再訪しようと思った・・・というより誓った。アジアなんて・・・と思っていた“旅の食わず嫌い”が治った旅となった。

 その初めての香港の旅でランチに立ち寄ったあるお店で飲んだそのお店自家製のカクテルが美味しかった。カクテルはほとんど飲まないのだか、なぜかそのカクテルはまた飲みたいと思うくらい美味しかった。翌年再訪した際にそのお店にランチに行った。前年に美味しいと思ったカクテルはすでにメニューになかった。そこでウエイターにかくかくしかじかカクテルのことを話したら気持ちよくそのカクテルの注文を受けてくれた。香港は融通が利くところなんだなと思ったと同時に広東人の商才に感心した。

 シーアイランドコットンを使ったワイシャツをお仕立てで誂えることを覚えたのも返還前の香港だった。いまでも頻繁に着ている仕立てたワイシャツに関しては改めて詳しく書く予定でいる。

 私の香港好きは返還前に確立された気がする。このように楽しかった記憶のほとんどが返還前に経験したことだ。返還の日が近づいてくると、返還後の変化に関してメディアが取り上げる頻度が増した。中国政府は50年現状を維持すると言っていたが、果たしてそれで安心した人はどのくらいいたのだろうか。私はいろいろと不便になったら嫌だなと思った。特にビザは不要のままでいて欲しいと切に願った。

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返還を約半年後に控えたときに発行されたBRUTUSです。当時入手されたトラベラーも多いのではと思います。私もこのときまでにお気に入りのお店がいくつかあったので、返還後に無くなってしまわないか結構心配しました(苦笑)。

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断捨離の効果ではありませんが、未使用のままでこのTシャツが出てきました。90HKDの値札が付いているので、現在のレートで約1,300円くらいです。Duty Freeで買いました。改めて見ると結構政治色が強い絵ですね、香港発だし(苦笑)。ペンキ職人が国旗を塗り替えているイラストのTシャツなどが当時街中に出回っていたのを覚えているトラベラーも多いのでは?  そのイラストがついたスウェットシャツを持っていましたが、パジャマ代わりに着て何年も前に着潰しました(苦笑)。

 返還の翌年1998年に新しい国際空港が開港した。本当は返還時に開港したかったらしいのだが工事が間に合わなかったらしい。新空港のチェックラップコック空港(いまでもこの空港名はいい辛い)は中心地からはかなり遠く離れたランタオ島の近くに作られた。啓徳空港があった香港の中心地九龍とどのくらい離れているかは、ぜひ地図をご覧になって実感していただきたい。

 新空港では入国審査を通って荷物をピックアップしたら、すぐにチケットを買ってエアポートエクスプレスに乗り込む。九龍サイド、香港島サイドへは約2、30分で着き、駅からホテルへ向かうことになる。啓徳空港の頃をご存知ないトラベラーは、この移動は便利だと感じるだろうが、私には当初そのエアポートエクスプレスにかかる時間の分だけ不便を感じたが、車だと両サイドへ1時間以上かかる距離をその時間で結んでいるのだから評価はできる。慣れてくるに従ってストレスを感じなくなった。帰国時には九龍の駅で乗車前にフライトのチェックインを済ませることができ、そこでスーツケースを預けてしまえば日本まで手荷物だけで過ごせるのは楽で良い。距離のハンデを見事に克服している。

 振り返ると啓徳空港は立地が良かったせいか本当に便利だった。ホテルを九龍サイドに取っていて、入国審査もホテルまでの道のりも何も問題がなければ、空港を出て30分足らずでホテルに到着した上に自室で旅装を解くことができ、さっさと街歩きに出かけることが出来た。当時の自社便は到着が21時過ぎだったが、ちょっとした食事もお酒も十分楽しめた。

 新空港では、同じ時間に空港に降り立っても移動時間がかかるので、到着日の楽しみが限られた。空港に関してこれだけ字数を使ってしまったことから察していただけると思うが、空港に関しては返還前後でこれだけの変化が生まれてしまったのだ。現在の国際空港を開港から約20年経ったいまでも“新空港”と呼んだり書いたりしてしまうところに、返還前の便利さをいまでも懐かしく思い、この変化に返還後を感じているのが表れてしまう。

 返還直後に真っ先に感じた大きな変化は、空港の場所よりもホテル代の高騰だった。望みのところが取れなかったらここ・・・という候補のリストの下のほうに位置していたホテルも一流並みの値段設定を堂々と提示してきた。これでは数年に1回訪れるのがやっとだろうという値段設定だった。一時期落ち着いたが、ここ数年再び高騰しているようである。それは我が国にもやって来た中国本土から押し寄せる観光客の所為だろう。  

 返還が主な理由ではなく、時代の流れと偶然が重なっただけだと思うが、慣れ親しんだものの変化に対しては1997年の返還を基準に考えてしまい、全て返還が影響しているように思ってしまった。たとえば、蒸籠を山積みにしてカートで運んでくるスタイルの飲茶のお店も、街中にいくつもあってフラッと立ち寄れたお粥のお店も徐々に姿を消していった。ワイシャツを何枚も仕立てたテーラーも、屋号はそのままだったが、ある日経営者もスタッフもすっかり変わっていた。経営者もスタッフもイギリスやカナダに移住してしまったのだろうか。

 あまり興味がなかったアジアに香港をきっかけにして興味が湧いた。香港で下地ができたのか、その後アジアの他の国に初めて訪れる際にはほとんど抵抗がなかった。

 しかし、香港はどうしてこんなに楽しめるのだろうと考えたときに、好きなイギリスの匂いがここかしこに残っていたからだった。標識、番地、通りの名称、建物などの表記にはしっかりした英語が併記されていた。

◯◯センターの“センター”の綴りが “center” ではなく、”centre”であった。街中にパブもイギリス系のデパートもあった。アフタヌーンティーができるホテルもある・・・香港ではまだしたことはないが。ペニンシェラにもリージェント(現インターコンチネンタル)にも正面玄関に大きなロールスロイスが停まっていた。街の所々で、決して臭いという意味ではなくて、“ブリティッ臭”がした。訪れる度にこの二箇所でロースルロイスを目にすると何故かホッとする。2012年に訪れた際にはそれらまだ残っていたが、返還後訪れる度にじわりじわりと街の空気の中に私が感じてきた“ブリティッ臭”が消臭されていっているのを感じてきた。

 最近聞いた話でため息が出たのは、英語が通じないところが増えてきたということだ。現体制が維持されるのはあと30年だが、それを待たずして中国の一都市として違和感なく溶け込んでしまうのだろうか。

 私よりひと世代下のトラベラーに返還前の香港の楽しさを伝えたいと思った。そして、ひと世代下のトラベラーから返還後の現在の香港の楽しみを教わりたいと思っている。教わった楽しみは、今後はがっかりするのがオチになりそうな返還前の名残を探す楽しみを凌駕するだろうか。

追記

① 主人公が返還の日に香港に降り立つところから始まる小説は「波の音が消えるまで」というタイトルです。舞台はマカオのカジノで、展開するストーリーのあいだに垣間見えるマカオの景色と自分の旅の記憶を照らし合わせて楽しんでいます。

② 私の直近の香港への旅は2012年で、そのときの話は「私の発作的週末旅行」というタイトルで書きました。

③ 昔ながらの香港らしいあらゆるものが無くなり、変わってしまっても、スターフェリーだけはそのままで存在し続けて欲しいな心からと思います。スターフェリーは来年120周年のようです。

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