ポリアモリーと浮気の違い。それは罪悪感。


〜「一人すら愛せない」んじゃなくて、「全員愛せる」だけだった〜


結局浮気とどう違うのか。

ポリアモリーを語るときにみんな一番頭を悩ますのがこれなんじゃなかろうか。

浮気とポリアモリー

結論から言うと

やっている事は全く同じ

その行動の裏にあるフィーリング、意図が違う

というのがわたしが経験から得たこと。

浮気の根底の根底にあるのは

「私は一人の人もろくに愛せない人間だ」

「このまま一生誰も愛せないのではないか」

という罪悪感。

(それより浅いところには

・パートナーに自分の全てをさらけ出せないという恐怖

・パートナーが自分の欲しいものを与えてくれないから他を探し続けるっていう依存

だったりがある。(超省略))

対してポリアモリーは

「ただ、わたしは全員を愛せるだけだった」

「全員を愛することができるという性質を否定していただけだった」

「そもそも、愛に"区切り"をつけること自体に違和を感じる。

なぜこの人に80の愛を、この人には15、この人には5の愛を、などということがこの世の条理になり得るのか」

「全員と100の愛を分かち合えばいいだけじゃないか」

という、自らの本来持って生まれた性質に対する気づきが

ポリアモリーの本質なんじゃないかと思う。

でもこういう言い方をすると

ポリアモリーが上でそれ以外は下なのか?みたいなことを感じる人もいるかもしれないけど

わたしはただの「性質の違い」だけという気がしている。

肌の色の違い、髪の色の違い、国の違い、と同じように

「今回の人生で何を体験したいのか」

に合わせて選んできたボディパーツや国籍などの項目の1つが

「愛のカタチ」の違い。

だから、ポリアモリーが愛の本質でほんとは全員ポリアモリーなんだよ、

なんてことを言いたいわけじゃない。

一生涯で一人の人だけを愛すって決めてきて

本当に一人で満足する人種の人もいる。

(その昔わたしはそれに憧れて、劣等感を抱いていたな。)

現にわたしのパートナーがその人種だ。

隣で見ていてただただびっくりするほどに、

一人の人以外に「意識が向かない」らしいのだ。

興味を圧し殺してるとか、無理やり、とかじゃなくて

(初めはそうとしか思えなかった。笑)

彼はただただ一人で満足しているのだ。むしろそれ以上は彼にとって無駄な、必要のない事なのだ。

(彼にとって一人以上を愛することがむしろ「無理する」ことになる。わたしとは真逆だ・・)

だからね。

よく、ポリアモリーの定義、みたいなやつで

「相互の同意を得ていること」ってあるけど。

わたしからしたら、あれも人間特有の

「わかり合いたい、認め合いたい」っていうエゴから生まれたように思う。

エゴって別に悪い意味じゃなくて、人間らしい、可愛いやつ。

その昔、わたしもパートナーと試してみたことがある。

「好きな人ができました。」

「その人のことを愛している。でもあなたのことも1ミリも曇りなく愛している」

「もしわたしに現れたように、あなたにもそんな貴重な人がこの先現れたら、心から祝福できる自信がある」

と伝えて、2人同時平行で愛したしばらくの間。

パートナーは絶望に打ちひしがれて、どうしたらいいのかわからない、という状態でい続けた

わたしはひたすら、あなたへの愛に曇りは一切ないのだ、だから悲しむ必要なんてないのだ、ということを必死に説得し続けた

そしてお互い憔悴しきった頃、わたしのもう一人の人との恋愛が終わり

わたしとパートナーは元の状態に戻った

その時のわたしは

「同意を得ないとただの浮気になってしまう」

「わたしの生き方をわかってほしい」

「これが愛の本質なのだからあなたもそうすべきだ」

と、罪悪感にまみれたエゴをただぶつけていた。

もちろん、お互い同意の上で完璧な調和が取れているカップルも存在するに違いない

でも、結局どこまでいっても

そこに「罪悪感」がある限り

それは浮気だ。

呼び方は「浮気」でもなんでもいい、ただ、そこに

ジャッジメント(相手へのジャッジ、自分に対するジャッジ、両方含めて)

が入った途端、それは不完全で不調和な状態になる

じゃあ罪悪感がなければいくらでも遊んでいいっていうの?都合が良すぎない?

なんて声もきこえてきそうです。

わたしが言いたいポイントはただ単純に

愛のカタチは人それぞれ性質が違うんじゃない?ってこと。

婚姻という人類史的にはチョー最近導入されたばかりの謎めいた制度によって何故か

「一人だけを愛し続ける事が真実である」

と人々がミラクルなまでに洗脳されきった世界で

「一人とだけじゃなくて、全員と100の愛を分かち合うタイプの人も存在するよ」

ってのを知ったらもっと平和になるんじゃないかなあ、てこと。

ああそうだ、ここまでで当たり前のように省いてきてしまったけども

そういう自分の愛の本質にたどり着くまでに

たっくさんのドロドロ試練を乗り越えてきての、これですけどね。

本来の100の愛を体現するまでに、たくさんの

自己否定、依存、恐怖、ジェラシーetcetc...

というすべてのエゴと幻想と向き合うプロセスがあっての

ポリアモリーです。(そのプロセスは別記事にでも。)

これはマスト、大前提、デフォルトです。

これ抜きだったらそれこそただの遊び、浮気、依存だ。

唐突に終わりますが、最後に。

なによりも、なによりも

「一人さえ愛せない」と今も罪悪感に苛まれ続けている同胞たちへ

もういい加減じぶんを解放してあげてほしいな、と願っています。

シリウス同盟✳︎







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