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ラップはダジャレorダジャレじゃない論争にケリをつける【ボブ・ディランの詩学】

先日ABEMAの『マッドマックスTV 論破王』という番組で、
「ラップはダジャレなのか、ダジャレじゃないのか」
についてディベートをするという企画が行われていた。

そこではラッパーのDOTAMAさんがラップはダジャレじゃない側、ひろゆきさんがラップはダジャレ側で議論していたのだが、話はひろゆき得意の論点ずらしによって混沌としていた。

要約すると、ラップや韻は音楽表現であり、何かしらの感情を表そうとしていたらそれはラップだというのがDOTAMAの主張。一方、韻を踏むこと自体がダジャレなのだから、ラップも一部だけ切り抜いたらダジャレになるよねというのがひろゆきの主張。
DOTAMAは目的の話をしているのにひろゆきは形式の話しかしないので話がかみ合わないという印象だった。


私はラッパーでもなくラップもフリースタイルバトルくらいしか興味がない素人なのだが、それでもラップがダジャレか論争には一家言がある。

それは「韻に意味的なつながりがある」+「音楽に乗せている」という2つの要素があればラップだと思う。
ダジャレとは、韻は踏んでいるという形式上の共通点はあれど、意味が繋がっていないものや、音楽に乗っていなかったり笑いを取ることを目的としたものはダジャレだと思う。

平凡な意見だと思われた方もいるかもしれない。
しかし、特に「韻に意味的なつながりがある」は非常に重要な要素だと考えている。
その「韻の意味的な繋がり」は実例を見れば早いかもしれない。
そこについて、韻の大家(だと勝手に思っている)であるボブ・ディランの詩を引用しながら説明したい。

ボブ・ディランの詩の特徴

ボブ・ディランとは、言わずと知れた有名なミュージシャンであり詩人である。
2016年には歌手として初めてノーベル文学賞を受賞している。

そんなボブ・ディランの歌詞は、いわゆる「バラッド連」と呼ばれる詩型がよく用いられている。
バラッド連は4行から成る連で、強勢の数が4,3,4,3となり、脚韻が2行目と4行目で踏まれるという形式だ。

これはラップではないのだが、韻を用いた音楽表現ということでラップにも通じるものがあるだろう。

バラッド連の形式の中で、ディランは韻によって様々な意味を表現している。

『Not Dark Yet'』

まずご紹介するのは、『Not Dark Yet'』という曲中に登場する韻だ。

Feel like my soul has turned into steel
I've still got the scars that the sun didn't heal

太字にした部分が韻を踏んでいる部分である。
この一節は同一行内で韻が踏まれるというディランにしては珍しい形式の韻だ。
この韻の使い方は、その行の内部に空間を囲い込むような効果が生まれるとされている。

この一節の直訳的な意味としては、
「魂がはがねになったように感じられる。日に当てても癒されない傷跡が残る。」
というような意味だ。

まず最初のFeelとSteelで韻を踏んでおり、このSteelは2語後でStillに変わる。
この繋がりによって、「はがねのように感じられても、なお、癒されない」のようにsteelとstillに意味的な繋がりが生まれる
また、steelとhealで脚韻が踏まれており、ここでもやはり「魂がはがねになっても癒すことはできない」というような繋がりを補強している。

さらに、2行目は/s/の頭韻がstill/scars/sunと畳みかけるように続く。
この頭韻の関係は1行目のsoulとの間にもあることから、この傷というのは魂の傷ではないかという推測もそこからできるのだ。

このような、単語と単語の繋がりを示唆したり、そこから新たな意味を見出すというのが、ディランの韻の使い方である。

Talking New York

もう一つ、知ったときに心から驚いた韻を紹介しよう。

So some mornin' when the sun was warm
I rambled out of New York town
Pulled my cap down over my eyes
And headed out for the western skies
So long, New York
Howdy, East Orange

『talking New York』という曲の最終連なのだが、
ここには驚くような仕掛けが施されている。

その前にまず、詩と歌の特徴について触れないといけない。

世の中には、詩の朗読を嫌う現代詩人もいる。
その大きな理由は、詩には目で見ないと分からない要素が多くあるからだ。
例えば行や連は、現代詩人の多くが用いる自由詩の場合は耳で聞いただけではほとんどわからない。
この点、ディランはバラッド連なので韻の存在によって連の存在を耳でも認識できる。

もう一つ、終わりが分からないという問題がある。
これが問題なのかは詩人ではないのでわからないが、おそらく詩のどの段階でどんな言葉が使われているかで感じ方も変わるのだろう。

この終わりが分からないという問題に対して、ディランは様々な方法で終わりが分かる工夫をしている。
中でも上手く解決したのが、上記の『talking New York』という曲の最終連である。

英語で韻を踏む人の間では常識とされているそうだが、
英語にはorangeで韻を踏める単語は存在しないのだ。

つまり、最終行の最後にorangeを持ってくることによって、これ以降はこの行と押韻する行は現れない。つまり、もう曲は終わりだということがここで暗示される。

さらに、前の行のニューヨークの愛称がthe Appleであり、appleからorangeに変わることでニューヨークという町を離れてEast Orangeに向かうということがイメージでも伝わる。
ちなみにEast Orangeとはニュージャージー州の市の名前である。


ディランはこれ以外にも、終わりを暗示させる方法として最終連だけ全ての行で脚韻を踏むなどの工夫もしているが、ここではくわしくは触れない。


意味を込めようとしていれば韻であるしラップである

最後に、このように練りに練られた韻を見てくると、
「フリースタイルバトルで踏まれているような韻なんて韻じゃない。ダジャレだ」という人も出てくるかもしれない。

しかし、本人たちはそこに何かしら意味を見出そうとして韻を踏んでいると思うし、上手なラッパーは即興でもしっかり意味の通る韻を踏んでくる。

韻に意味的なつながりを見出そうとしている音楽は、全てラップだと思う。

ディランも面白いことを言っている。

「年を食うと、知恵がついて、それが創作の邪魔をするようになる。創造的衝動をコントロールしてやろうという色気がでるんだ。(中略)もし頭が知的に介入したら、止まってしまうよ。あまり考えすぎないように脳をプログラムしなければいけない。」

つまり創造する主体としての詩人の精神を、知的な頭の働きより高次に置かないといけないということだ。

実際ディランは、知的な意識を排除した無意識な状態で、まず韻を踏んでみて、そのうえで意味が通るか、新しい意味が生まれないかを考えるという。

ラップにしても、最初からラッパーの意図した意味だけでなく様々な意味の解釈が生まれる余地があり、その余地の存在をラッパー自身が認識していれば、たとえ一見意味が無さそうな言葉の繋がりでも、意味を込めようとしている韻ととらえられる。

なので、そのような意識があり、音楽に乗っていればすべてラップなのだと思う。

ダジャレとはというはなしはさておき、上記がラップであるので、ダジャレはそれ以外、もしくはラップに包含される概念だと思う。


参考文献:『ボブ・ディランの詩学』菱川英一

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