【掌編】 荒野のスターバックスで

「ごめん、待った?」
 20億デニールの黒いタイツを履いて、彼女は繭状になっていた。
 海外の有名ファッション・モデルが過剰に厚ぼったいタイツを使ったことからデニールはインフレを起こし、その桁は千、万を超え、ついに億の時代へ。流行なのだから仕方がない。いまや街ゆくオシャレなひとたちは挙って億単位のデニールに手を出し、誰もがつやつやしたカラフルな繭のようになっている。
「ううん、いま来たとこ」
 そう答えたが、ほんとうは30分ほど待っていた。それを察してか、彼女は「そっか」とすこし申し訳なさそうに云った。その聲はくぐもり、表情もぶ厚い繭に包まれているため見えない。
 20億デニールともなれば、その重量は2トン。とても自力では歩けないので、最近ではタイツを履くひと用の移動補助具も豊富に展開されている。車輪のタイプが比較的安価だが、彼女のは性能のよいキャタピラ式で繭をのせた小型の装甲車みたいになっている。タイツを履いたまま、オフ・ロードも難なく移動することができる優れものだ。
「どこ行く?」
 カタカタカタカタカタ……。
「ねえ! どこ行く?」と、もう一度大声で。
 カタカタカタカタカタ……。
「えー!?」
 キャタピラ式の難点は動きだすと互いに聲の届きにくいところにある。繭のなかから《スタバ》とメッセージが届き、ぼくは《OK》とだけ返事をする。それで、ぼくらは荒野にあるスターバックスを目指した。
 旧来のカフェは流行りのタイツ愛用者にはあまりに手狭だ。バリアフリー化が進んでいるとはいえ移動補助具はあちこちに突っかかるし、億単位のデニールになるとそもそも入り口を通過することができない。その点、荒野にあるスターバックスは気兼ねがなかった。
 風のとても強い日だった。ぼくは目を細める。荒野のスターバックスはふき曝しで、灰いろの砂塵がごうごう舞っているが、勿論タイツを着用している彼女はものともしない。
《注文どうする?》
《キャラメルフラペチーノ、エスプレッソ・ショット追加、トール》
《OK》
 スターバックスの店員は柄もののタイツを履いていて恐竜の卵みたいな姿をしていた。カウンターには砂埃にまみれたトランシーバーが1台。ぼくはそれを使って注文のやりとりをする。ザー、ザー……ご注文は?……ザー、ザー……キャラメルフラペチーノのエスプレッソ・ショット追加、トール。それから、アイス・コーヒー、ブラックで。オーヴァー……。恐竜の卵は外付けのアームをつかって器用に代金を受けとり、商品の載ったトレーをぼくに手渡した。
 店内、というか荒野には厚手のタイツ愛用者があふれていた。タイツを履いた彼女とタイツを履いていない彼氏の組み合わせもあれば、どちらともが繭状になったカップルもいる。タイツを履いていないひとのほうがここでは寡ないみたいだ。
《あなたにもタイツ履いてほしいな》
 じつはぼくは薄手のタイツを着用していた。だが、100デニールにも満たない薄手の青いタイツだった。
《そんなださいのじゃなくてさ。億のやつ》
《うん。考えとくよ》
《そればっかじゃん。実行しようよ》
《うん》
 スタンプ。スタンプ。スタンプ。彼女とおなじ黒い繭状のイラストが並ぶ。
 キャラメルフラペチーノには1メートルちかいストローがついていて、ぼくは苦心してそれを彼女の繭に挿しこんだ。長いストローをゆっくりと液体がのぼっていく。それがタイツの表面に到達する頃には、フラペチーノの嵩はずいぶん減っている。
《おいしい》
《あ、砂嵐くるかも》
 荒野のスターバックスはときどき砂嵐に襲われる。もう慣れっこだが、ぶ厚いタイツを着用していないぼくは、その間ふき飛ばされないよう繭状の彼女にしがみついていなければいけなかった。目を開けていられない。ごうごう風がふき荒び、砂粒が露出した肌をうつ。それでも、キャタピラに載った彼女は微動だにもしない。わー! と、近くで聲がした。茶いろく霞む視界のなかで楕円形の影が幾つかごろごろと転がり、やがて砂嵐のなかに消えていった。
《大丈夫?》
 彼女からメッセージが届く。
《大丈夫。でも、何人か飛ばされてった》
《大変じゃん。掴まってて》
《うん》
 砂嵐は弱まるどころか強くなっているみたいだった。ぼくは彼女にしがみつく。ぶ厚いタイツの繊維は土壁のように固く、そして温度がなかった。ぼくと彼女はデニールに隔てられていた。そういえば、最後に彼女の顔をみたのはいつだっただろう。20億デニールの黒いタイツに包まれた彼女の中身をぼくはもう数ヶ月はみていなかった。わー! と、また近くで聲がした。他のお客たちがまた飛ばされていく。ドン、ドン! と、ぼくは黒いタイツの表面を強めにノックした。返事はない。本当に彼女がこのなかにいるのかぼくは不安になっていた。ドン、ドン!
《なに?笑》
《いや、ちゃんとこの中にいるのかなって》
 繭のなかから ピコン! と音がする。微かにだけれど、砂嵐のなかでもその着信音はちゃんと聞こえた。ぼくのメッセージは確かに届いているらしかった。
《安心した》
《なにそれ、うける笑》
 スタンプ。スタンプ。スタンプ。

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