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私は養子をとりたい ~野田市女児虐待殺人事件に思うこと~

こんにちは、淑江はるかです。
大学生になったとき芽生えた結婚願望はすっかりなりを潜め、ここ数年の将来へのイメージといえば、父親が定年退職したら一緒に暮らして、最後まで一緒にいたいなぁ、という設計である私ですが、今回は件の虐待殺人事件(あえてこう書かせてください、怒っていますから)を中心に、子どもを育てることについて書こうと思います。

私の大学生の頃の結婚願望は、子どもが欲しいというその一心でもたらされたものでした。二人以上の子どもが欲しかったから、結婚相手は立派な職業についていて、子ども二人が私立大学を選んだとしても通わせられるような経済力のある人が望ましい、と思っていました。
そんなに子どもが欲しかったのには理由があります。

乳がんで死にたくなかったからです。

私の母親は私が10歳の時に乳がんで死にました。たぶん40歳くらいだったと思います。
乳がんは、遺伝的な要因が多いというのを、どこかで聞いた気がした私は、私の母親の母親、つまり祖母にあたる人も50歳くらいの時にがんで死んでいることを思い出しました。(乳がんだったのかは覚えてないけれど)

私もがんで死ぬんだろうなぁ、と漠然と思いました。
それと同時に、お父さんが生きてるうちにガンで死ぬのだけはダメだ、と思うようになりました。愛した人をふたりも、同じ病気で失うなんて、かわいそう過ぎるから。
人はつよいから、それで後追いなんかするようなお父さんじゃないはずだけれど、大好きな父親にもう一度なにかを失う痛みを味わわせずに済むなら、そっちのほうが良いに決まっているので。

だけど社会に出て働いて、結婚というシステムに思うところがあったり、父親を守る手段としての代替案が思い浮かぶようになってからは、がんで死にたくないから結婚して子どもを産むという考えが、めちゃくちゃしょうもない事に思えてきました。
このあたりは本筋に関係ないのでまた今度という事で、ともかく社会人一年目あたりに、こうなりゃ死ぬまで生きよう!という思考に切り替わったのです。
自分ががんで死にたくないからなんてクソくだらない理由で結婚しようとか、子どもを産もうとか、よくよく考えたら(考えなくとも)バッカじゃね~~~の~~~!?ってだけの話ですけどね。

「死んだら終わり」を避けられないから

生きるのって基本的に哀しいことだと思うのです。哀しかったり、虚しかったりするもの。
誤解を生みそうな言い方しかできないのは私の語彙力のなさのせいなのですが、なんというか、人は産まれると同時に確約された死に向かって生きなくてはならないですよね。

死がつらい物であるかどうかは、死んでないからわからないのですが、それまで結んだ絆や思い出とかは全部リセットされて、大好きな人やものをすべて忘れて、もう一度なにかに生まれなおした自分が存在するのかと思うと、発狂するほどこわいです。
だから死ぬのがこわいし、大切な人が死ぬのがこわい。大切な人の死を忘れていくのが恐いのです。

でも、きっと私がおばあちゃんになる頃までに不老不死の技術が確立しているかどうかは怪しいし、となると生きるしかなくて、また死ぬしかないのです。
さっきは生きることを哀しいことだと言ったけれど、哀しいだけでもないとも思っています。大好きな映画に出会ったり、忘れがたい経験をしたり、流れ星をみたり、めちゃくちゃ気持ち良いセックスをしたり、好きになったり、憎んだり、何かをしたりしなかったりできるのが人生で、そういういろんなことを愛おしく思い出すことができるのも、人生の良いところだなぁと思うのです。

それで私は、どうせ決められた死に向かうとき、その喪失を埋められるくらいのお土産を置いていきたいし、この身体いっぱいに詰め込んで死にたい。
だから、死にに行く生きている私やあなたができるだけたくさんのものを手にする事ができる人生であって欲しいんです。

中絶を望む女性とお腹の赤ちゃん、守られるべきは

少し前に、妊娠中の奥さんが彼女を省みず夜遊びを続ける旦那にブチ切れて、つらいつわりの末に子どもをおろすと決めたツイートが物議をかもしていました。詳細は以下のリンクを参照ください。

現在該当のアカウントは無くなっているので、彼女が今どうしているのかはわかりません。(トゥギャッターのコメントには、重度の鬱病と診断され、中絶手術を行ったとありますが真偽のほどはわからないので)

中絶したいと言った彼女のもとには、諭すように止めようとしたり、批判をしたり、彼女を擁護したりとさまざまなリプライが寄せられていました。中には「人殺し」とか「母親の資格がない」というような誹謗中傷めいた言葉も多くありました。
私はあまり「FF外から失礼」するのが得意ではないし、好きでは無いけれど、この彼女に対してはもういてもたってもいられなくて、思わずこんなリプライをしてしまいました。

今読み返すと誤字もあるし、内容も支離滅裂なんだけど、気持ちとしては全く変わってません。なんにせよ、どんな事があったってまずは今生きていて苦しんでいる誰かが救われて欲しいのです。
それから、彼女が選んだ結論に自分自身が苛まれないようにあってほしいと思うのです。もちろん中絶というのは簡単に決められることではないでしょう。だから後悔したり喪失に喘いだりする日もあると思います。でも、それに潰されることを、他人や私が望むような言葉を言うべきではないと思って、慎重に、これらが伝わればと思いました。

ここで養子という話に戻るのですが、上記にあるような自分の価値基準と照らし合わせたとき、まだ生まれてない死ななくて良い子を産み落として育てるより、今いる子どもたち・ひいては人間が幸せに生きていけるようにしたいという結論にいつからか至っていたのです。(これは私の価値基準に基づく一個人の考え方です、みんながこんなふうに考えていたら絶滅しちゃいます)

だからこそ子どもを殺す親を騙ったクズを許せない

そんな私にとって、10歳の女の子が両親からの虐待で命を落とした、落とさざるを得なかった、というか殺されたという一件は、悔やんでも悔やみきれない出来事でした。
きっと心を痛めているたくさんの大人がいるでしょう。そんなうちの一人が、このnoteを読んでいてくれるのではないでしょうか。

だからこそはっきりというと、私は猛烈な敗北感を抱いています。私は子どもを殺した両親の悪意に負けたのです。助けられなかったのは弱いからで、社会のシステムを欺いて子どもを殺す悪意に負けたのです。

知っていたら助けたのに、と思った人がどれだけたくさん居たことでしょうか。でも私達は知らなかった。知らなかったから手を伸ばすことができなかった。
悔しくてしょうがないし、この子を殺したすべての要因のうちのほんのひとつに、自分自身も含まれていることを理解したうえで、無力感に苛まれています。

彼女を養子にできていたら、と短絡的なことを思うつもりはなくて、例えば殺人に加担してしまった母親(夫からのDVもあったとされています)を、もっと早い段階で父親から引き離すことができなかったか。殴られながらも夫から離れられないのは、夫がいなくては生きていけないからだったのか、という事などを考えていました。結果たった10歳の子どもを殺すことになった事実がある以上、毛頭擁護できるものではないけれど、あらゆるシチュエーションや可能性を想像し、考えなくてはならない事象であることは確かです。

変革か滅亡を選ぶとしたら

子どもというのは、人間にとって未来をつくるための共通の財産であると考えています。
そして私たち大人は、「多様性や役割の自由」の確立がどんどん推進されていく一方で、その自由によって生じる責任も同時に負わなければならなくなっています。

人間は群れを作るのをやめ個に生きるようになっていて、潜在的な増殖本能による種の保存という動物的な機能の部分から少しずつ離れているのではないでしょうか。だからこそ、産まれてきた子どもは、個に生きる大人が知性や倫理のうえで、ともに育てなくてはならないと思います。

男は外で働いて、女は家を守るという役割が薄らいで、好きなことをして生きていくのは、素敵なことだし、本能を超えて理性的であり知的で高度な事であると思います。
と同時に、人間は動物である以上、システマチックに繁殖がなされなければ、いずれ滅びる事になるでしょう。そうじゃなければ、私たちは自由と多様性を持ったまま、知性と理性で子どもを産むことを選択し、またそんな他人を尊重するために、産まれた子どもを社会で一緒に育てる、という意識へと変わっていくことができるでしょうか。
私は、変わるほうを選びたいです。
だってきっと、世界が滅ぶより先に私達は死にますから。そしてその時、私の死を悼むどこかの誰かに、できるだけ多くのお土産を置いて死にたい。

死を恐がることすら知らないような子どもが、生きることに怯えていた事実を、私は忘れずに生きて、死んでいきたい。
だから私は、養子(里子)をとりたいのです。

特別養子縁組には配偶者が必要であるとか、様々なハードルがあって簡単ではない事はわかるけど、でも今回の事件のように、何が何でも子どもをサンドバッグにして手放したくない、という親から子どもを奪ってでも守り保護するためには、保護先の頭数は多いほうがいいと思うのです。子どもは親を選べず生まれてくるけど、傷ついたり失ったりした子どもが再度生活や幸せを取り戻すための選択肢は、あればあるだけ良いと思う。そのうちのひとつに、どうにかなれるようにしたい。

どうせ必ず死ぬ私たち。
それなら私は、いま痛みに耐えている、孤独で凍えている、お腹を空かせている、朝が来るのが恐いどこかのあなたと、一緒に生きて生かされたい。

最後に、心愛さんへ心からのご冥福をお祈りいたします。

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