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仮題:アイドルを再定義する


ねつあいほうどう

(言葉のインパクトを弱くするために平仮名にしてみた)

波乱万丈な一年を経てようやくクリスマス前、大晦日には楽しいイベントが用意されていてみんなすっかりハピネス状態だったあの日、特大爆弾が投下された。
私自身と、XのFFの皆さんは結構落ち着いていたけれど、自分のネット上半径1m(比喩)から外はざわざわしていた。いや、ざわざわ程度じゃない、ドゥワンドゥワンしていた。
今は、まぁ大分落ち着いてきた気がする。
ざわ…ざわ……くらい。

私自身は正直、純度100%の祝福の気持ちでいる。これは別にマウントでもなんでもなく、この後アイドルを語るのに、ここの立場をはっきりさせないとずるいかなという気持ちで書いている。
もちろん、色んな感情があってしかるべきだと思う。
苦しんでる人も悲しんでる人もファンを辞める人も、誰も間違いじゃないと思う。

ファンダムおよび野次馬的世間の反応を垣間見る中で、「アイドルって何なんだろう」と考えることが多くなった。いや、ずっと考えている。
この騒動の間、ずっと考えている。
アイドル=偶像、という辞書的な意味でなく、ファンにとっての、世間にとっての、運営にとっての、そしてアイドル本人にとってのアイドルって何なんだろうと。

まず大前提として、

SNSで本人に直接誹謗中傷をする人はカスです。


うん。
あ、本人に直接じゃなくてもカス。不特定多数の目に触れる場所で誹謗中傷している時点でカス。

でも、誹謗中傷する人の思うアイドルの定義は、誹謗中傷に至る裏付けとかなり近いところにあるのではないだろうか。彼らの「アイドルの定義」が推しを追い詰める大義名分に成り得るのなら、逆に推しを擁護したい私の「アイドルの定義」とは何なんだろう、ということを考えている。

ここに、数日間思索した浅漬けの、アイドル再定義の試みの記録を記していきたい。
始めに言ってしまうと、「アイドルを定義することはできない」という方向に向かっていくと思うが。


山口百恵はアイドルなのか

というと、まぁアイドルなんですが。『欽どこ』出てたし。
山口百恵を今のアイドル界に投下したら、世間は彼女をアイドルと思うだろうか。
思わないんじゃないかなぁ。あの哀愁漂う佇まいと、背伸びなんてレベルじゃない大人っぽい色気漂う曲、でも時に見せる少女をすっ飛ばして老女になったような詫び感…。
少なくとも私は、パフォーマンス中の彼女をアイドルとはなかなか思えない。

ただ、冒頭に言った「『欽どこ』出てたし」。これが私にとって彼女をアイドルと定義する決定打。
バラエティーに出て、本人の素の(っぽい)笑顔を見せる、これが仕事の重要な一部になっていることが、彼女がアイドルだ、という結論の論拠になっている。

これは一例で、その人がアイドルかアイドルじゃないかという判断基準はすごくあいまいなところにあって、その決定打も観る人によって多様なのだと思う。
このことが、アイドルを定義することの難しさを表している。


少なくともアイドルの看板を掲げている人はアイドル(仮)

これからだいぶ今更感のあることを言う。

AKBの隆盛に伴って女性アイドル界は「アイドル戦国時代」に突入し、全国各地で地下アイドル・半地上アイドル(って言うのかな)が雨後の筍のように誕生していった。本当に、誰でもアイドルになれる時代になった。
どのくらい誰でもなれるかというと、ライブ会場を押さえてライブを企画し、フライヤーに「アイドル」って書いたらもうアイドル。
何なら、Xアカウントのアイコンを自撮りの鮮明な画像にして、BIO欄に「アイドル」って書いたらもうアイドル。

つまり、「誰かに選ばれてアイドルになる」時代から、「自称だけでアイドルになれる」時代に変わっていった。これは今後、逆行することはないと思う。
選ぶという行為には判断基準を伴うので、選ぶ側にアイドルの定義が存在しそれが適用される。
しかし、自ら「アイドル」という看板を掲げたものには、その他者のアイドル定義のふるいにかけられる機会がない。他者が世間がどう定義しようがアイドルになれるし、本人が「アイドル」という看板を掲げている以上それはもうアイドルである。


じゃあやっぱりアイドルは定義できなさそうだよね

「アイドルの判断基準はあいまい」「アイドルと名乗ればアイドルになれる時代がきた」この2点からするに、統一的なアイドルの定義付けは、たぶんできない
本人がアイドルと名乗っているかいないかだけ…と言いたいところだが、近年のM-1の「あれは漫才なのか」論争を見ていると、それもまた議論の種になりそうなので、定義とは言えないのかなと。

定義はない。
その代わりに存在するのがおそらく、「規則」だと思う。
具体的には、「アイドルは恋愛をしてはならない」という規則。
ここまで長々と書いてきたが、私が問い直したいのはこの部分だ。

早速ひっくり返して申し訳ないが、このアイドル=恋愛禁止が、規則や定義のようにまかり通っているのが話をおかしくしているのではないか。


アイドル=恋愛禁止は、手段であって目的ではない

このアイドル=恋愛禁止論になると鬼の首取ったように貼られるのがこれだ。

貼られすぎて画質も悪い

「いやそれお前の言葉じゃなくて明石家さんまの言葉だから~!
『虎の威を借る狐』の実演やりたいんか~!」と言いたくなるがまぁいい。

これも、よくよく読むと「アイドルが己の恋を隠すのはファンへの誠意」と言っているのであり、アイドルの心得くらいのものである。長きに渡ってエンターテイメントのトップに居るものとして、近しい職種の人間に与えた、ファンを離れさせないための訓示に過ぎない。もっと軽く見てしまえば、ノウハウの伝授。

実際、アイドルの恋愛が発覚すれば、リアコ(リアルに恋している人)やガチ恋(ガチで恋している人)勢は怒るし悲しむし離れるだろう。だから、運営側がアイドルに恋愛を禁じたり、アイドル本人が自制したりする。それはファンを離れさせないための手段に過ぎない。

この手段がいつの間にか、「アイドルという存在は、恋愛感情を喚起させてファンを集める、恋愛が禁じられた者である」ということになっている。つまり手段が目的化した状態になっているのではないだろうか。
さらに付け加えると、「ウチは恋愛禁止です」と明言していない運営や、「ウチは恋愛禁止していません」と明言する運営(この2者は似ているけど違うぞ)もいるし、「自分は恋愛をしません」と明言していないアイドルもザラにいる。つまり、先にも述べたが、恋愛禁止はアイドル業のノウハウの一つであり、すべてのアイドルに当てはめられるべき規則ではない

なので、恋愛をしたこと及びそれが報道されたことについて、そのアイドルを「アイドル失格」と断じるのはお門違いだと思っている。
まして誹謗中傷など、論外
※今回の推しの件については、真偽がはっきりしていないのでそことは切り離して考えてほしい。


長くなったのと、キリがいいので一旦ここで〆たいと思います。
次は、「恋愛禁止は今後のアイドル界にどう影響するか」を考えていくと思います。


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