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横谷加奈子「遠い日の陽」感想 ―自分を「お焚き上げ」する

Xにてもうとっくにバズりにバズられているこちらの作品。
(12/3 13:00現在2.1万RP)

今更自分の感想なんて…と思いつつ、X上だけでは、そしてコミックDAYSサイトのアンケートフォームでは書ききれない感銘と感傷があり、ここに記すことにする。
これを読んで下さる方は、ぜひ上に貼ったリンクから作品を読んでほしい。

ざっくりとしたあらすじを書くと、フリマサイトで自分の幼少期の写真を売る「チヒロくん(30代男性)」と、何となく惹かれるものがありそれを買った男子高校生の話。3度の売買と1通の手紙の後、二人のやり取りは途絶える。そして…

年齢的にどうしても、奇しくも私と同じ年生まれの「チヒロくん」に寄った目線で読んでしまった。
彼の、幼少期の自分の写真を売る、という行為。これは、もちろん生活のためでもあるが、現在とあまりにも違った過去の自分を切り離すような、そして切り売りするような行為に思えた。そんな行為に、なぜか私は自分を重ねてしまった。
と書くと、自分の春を売っていた、みたいなセンセーショナルな展開になりそうだが、そういう話にはならないのでご安心を。

”キラキラ輝く乙女の宝石”

乙女はカッコよく孤独です。
「心を開けば友達は出来る」なんていいますが、他人に心を開くなんて勿体なくて出来ません。
キラキラ輝く乙女の宝石は、滅多やたらに人に見せるものではないのです。

嶽本野ばら「それいぬ」

嶽本野ばら(下妻物語などで有名)のエッセイ、「それいぬ」の一節だ。
私は中高生時代、このフレーズを胸に抱えては時々確かめて、少女期特有だったのかどうかしらないけど、誰からもわかってもらえなくていい、という推し愛を、そして友人関係に不器用な自分を肯定してきた。
※詳しくは↓↓の記事にて。

ずっと、推しの作品を解釈(考察)しては一人ノートに書き留めて、「間違いないでしょ絶対こういう暗喩だよ!」と興奮していた。「推し被り」している人は居なかったし、そういう方向性で推している人も居なかったので、誰にも見せる機会はなかった。見せたところで”乙女の宝石”の輝きが曇る!と決め込んで、共有できない寂しさを紛らわせていた。
当時はファンサイト文化全盛期で、ブログというサービスが普及する前だった。そのため、ネット上で語り合うにはまずネット上のファンダムにお邪魔して仲間と認めてもらう必要がある。それはさすがに田舎の中学生にはハードルが高すぎた。

過去の自分を切り売りする

今、私が別アカウントでやっている「推しの作品を解釈して記事に残す」という行為は、中学生期にやっていた上に書いたようなことと全く変わらない。少し語彙が増えて、発想と理由を繋ぐ術を身に付けて、そういうものを書くフォーマットがあるだけ。

中学生期にやりたかったことをそのまま、内容と推す対象は違えど文章という形で「念写」して、切り売りしている。その辺りが、「チヒロくん」と自分と重なって見えた。「チヒロくん」の場合は、幼少期の幸福な時代を切り売りしていて、現状の自分について「俺はもうほんとに色々とダメだから」と言っているので、過去と現在の状況については私とは立ち位置が違う、もっと言うと逆なんだけれども。

この「切り売り」行為を経て思うのが、どんなに切り売りしようと、結局、自分は過去の自分と地続きである、ということだ。念写を切り売りして、誰かに読んでもらえて、それでも過去の渇望感と私は地続きのまま生きている。

お焚き上げ

私の場合念写して切り売り、と表現したが、「チヒロくん」の場合は「お焚き上げ」なのかもしれない、とも思う。
実際に作中、買い手の男子高校生が写真の一部を地域の焼き芋会の火にくべて「お焚き上げ」する。これは、本来は「チヒロくん」側がやる行為なのではないかと思っている。ただ、「チヒロくん」の経済的状況だったり、現在のフリマサイト等の機会があることなどの理由で、他人に投げ込み金銭を得る、という「ネットお焚き上げ」をしていたのかな、と。
これが例えば、小児性愛者の手に渡り、性として消費されれば、写真の中の「チヒロくん」は彼自身の歴史から切り離された、ひとつの物質となり、「ネットお焚き上げ」完了であった。
しかし、男子高校生が人間としての「チヒロくん」に興味を持ったことで、お焚き上げされることなく、何ならもっと鮮明に現在の「チヒロくん」との繋がり―地続きであることが浮かび上がってしまった。

物質的な始末を付けても、過去がお焚き上げされて今の自分と切り離され、成仏することはない。そういう「チヒロくん」の行為の行方と、今の私自身とがまた重なって見えた。2回目。

ここにいない人と友人になること

過去と現在の自分が地続きであることを、「切り売り」行為を経て再確認したことで、「チヒロくん」と私は同じ体験をした。それは、今目の前にいない人と友人になる、ということだ。
私の場合、当初の想定以上の人の目に自分の文章が触れることになった。その結果、私側で勝手に「この人はもはや友達」と思う人数名と出会うことができた。実際会ってはいないのに出会う、と表現するのはおかしいかもしれないけれど。その中には、自分の半分くらいの年齢の人も居る。推しのファン層とファン母数の多さに因る結果ではあるし、現代の繋がりやすいツールのおかげでもあるが。
「チヒロくん」もまた、SNSという小道具があってこそ、男子高校生と人間的やり取りを深めることができた。

「切り売り」も「供養」も「お焚き上げ」も、自分という人間が生きてきた以上は出来ない。だけれども、切り売りした先に思いもよらない幸運が存在することもある。今私は、成人して一番くらい、人生の妙を噛み締めている。自分と重ねまくって読んだ「チヒロくん」もまた、辿り着くべきところに自力で辿り着いていて、こうした救いがあることが私自身の人生をも肯定されたようで、なんだか涙がこぼれてしまった。

作品を受け取る時、共感という軸で語るのはダセェと、上に貼ったnoteでも書いたが、今朝ばかりは、存分にダセェ大人になることを自分に許可した。

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