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結局推しの記事書く時が一番楽しい問題

何が筋トレだよ。いきなりオタク記事書いてんじゃないよ。

昨日すごいやる気満々というか、闘志みなぎってたと言うか、多分1か月後見返したらヒャァってなるテンションで書いてましたが。

昼、推しの出ていた音楽番組を観ていた。
その中で、冒頭推しが「即興創作漢字」を披露していた。
番組が終わり、テレビを消して即PC立ち上げ、こちらの記事 を書いた。
(正確には、その間に推しの創造した漢字を筆ペンで練習する時間があった。)
この、漢字練習→PC立ち上げ 間にあった、執筆前の構想。

「うわぁ~、出たての女子ドルみたいなことしてておもれ~。
キャリア10年目なのにかわい~。」

これだけ。

この2行が、番組の説明もちょっとは入ったとはいえ、トータル3,300字ぐらいになった。
「出たての女子ドルみたい」に辿り着く前にも、
「推したちのトークのパッケージができてんじゃん、おもれ~。」パートが入り、
「出たての女子ドルみたい」以降も
「ちょっとまって、何かしっくり来てない…ハッ、あれじゃん!!!」というどんでん返しが起き、最終的になんかこれまでの推しの歩みと重なって伏線回収、というまとまり方をしてしまった。したんじゃない。してしまったんだ。勝手にそうなったんだ。

そのうえ、夫帰宅後にもうひと展開あるというおまけつき。

なんだよ、なんなんだよ。
推しの文章書くの楽しすぎるよ。
勝手に指も脳も進んじゃうよ、無計画で余裕で3,000字越えちゃうよ…。

今日は、受賞発表あった翌日でさ。フォロワーも微増しててさ。
いきなりオタク全開記事書いてどうしたよ。
(でもその前の記事で『今後も推しにハスハスする記事しか書きません』って書いてたし!!有言実行だし!!!)
ほんと、マイナビさんもnoteさんも、只のオタクに賞あげちゃった状態で申し訳ない。申し訳はない。でも仕方なかったんだ…これ言うともう最終手段だけど、言論の自由あるから…。

推しの記事、脳から直接出力できてしまう。

長い期間かけて熟考して、草稿も作って、推敲重ねて書く楽しさと達成感も、もちろんある。たとえば これ とか。結局3か月ぐらいずーっと考えていたことだし、書くにあたっては草稿も作ったし、書き上げた時は「これは現時点でのひと区切りだな」と思った。

でも、今日みたいな、「おもれ~、かわい~」が3,300字になるマジック。この快感もたまらないのです。
おもれ~、を掘り下げるうちに勝手に脳内で展開が起きたり、書くことで気付いた違和感をさらに掘り下げることができたり。これもう、熱量の成せる技。推し愛の成せる技也。
多分、多ジャンルで書ける人は、こういう脳内展開や掘り下げを、高い熱量を使わなくてもできるか、すべてにおいて高い熱量を注げるか、どっちかなんだろうな。
私がもっと世の中の色んな事に興味を持てばいいんだろうけど、いかんせん推しが魅力的すぎる。頼む、その色気ちょっと抑えてくれん?あるいはかわい~おもれ~行動控えてくれん?と思う。そう、すべては彼のせい。

昨日書いた通り、書く力の筋トレはいるなあと思うけど、それがために、推し愛語りの脳直文章執筆の楽しさを放棄する必要はない、と思う。仕事じゃないからね。
楽しいから書きたい、それだけなんだよなぁ。それってめちゃくちゃ健康的じゃん!と思う。
”「与えない」を与える”だって、「私今日娘にめっちゃいいこと言ったのにスルーされたから文章にしよ!」くらいのところから始まったんだ。イオンから帰宅してご飯食べて、子供たち寝た後書いてみて。そしたら自分で「やばい…すごい良いの書けてしまった…どうしよう……」ってなって夫に人生で初めて自分の文章読ませて。
(自信満々で鼻につくかもしれないけど、『ノリで材料入れてったらめっちゃおいしい料理できてしまった…』くらいの感覚で受け止めてほしい)

楽しさをベースに、いろいろ書けたらもっといいね

たぶん、今時点でのいちばんリアルな目標設定ってこれなのかも。
”推し”という存在が居て、彼が魅力的で人気があるがゆえに私の文章を読んでくれる人が一定数いる。だから楽しく書ける。
さすがに私も、読者居ない状態で書くのは寂しい。
というか自意識過剰な自覚あるから、常に読んで読んで状態。
この「書いて楽しいコンテンツと読んでくれる方々の存在」があるうえで、こっちで推し抜きの、自力の文章を書く練習をする。
そしてたまにオタク記事のメイキングをこっちで書いたりする。楽しい。イイネ!

ちなみに、昨日今日と、エッセイ上手くなりたいと思って、エッセイの至高「父の詫び状」(向田邦子 著)を再読した。
毎回新しい発見があるけど、今回は「起きた出来事への異常なまでの感受性の高さと記憶力」、これに圧倒された。
高校生の脳で読んで、「あー私も子供時代こういうことあったかも」って共感するのとは違う。大人になりそこそこ年齢もいった状態の脳で読むと「えっっっっ、小学1年生の時のことこんなに情感持って書けるの!!?こっちはもう記憶ないけど?!」という衝撃がある。
これはまた改めて書きたいと思うけど、向田邦子は作家以前に脚本家なんだ、ということに気づかされた。多分、ネタ帳的なものは常に持ち歩いていたと思う。そんなことはしていない小学生時代の記述が鮮明なのはもう才能としか言いようがないけど。

本気でエッセイ上手く書けるようになりたいなら、向田邦子の脳を持たない者なりに感受性の精度をあげることと、感情を記録すること、この努力もしなくちゃなぁと思った。
もしかしたらこの垢が、それの一助になるのかもしれないな。試行錯誤していきます。


*TOP画、「父の詫び状」といえば「ごはん」。教科書にも載ってたね。




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