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1999 「君」「僕」 の反転 〜Strangerな僕は誰か〜

前置き

・いつもの事ではありますが、これは私の推測(憶測)に基づく解釈であり、1個の捉え方として受け止めてください
・誰かの生き方、判断を否定するものではありません

1999の、ほんの少しの違和感

シングル「愛し生きること/MAGIC WORD」発売以降、カップリング曲「1999」 についての皆さんの感想を拝読し、
「ああ、特に私が言及することは無いな」と思っていました。
ほぼ、皆さんと同じ解釈をしたことと、あまりこの詞について深読みするのは、作詞者の本意では無いのかもしれない、というのが理由でした。

ただ、ある1点において、どうしても気になるというか、腑に落ちない点があり、そこについては少し私の考えを残してもいいのではないか。そう思いこうして書いています。

それがタイトルの、2番Aメロ

見慣れない町のランドマーク
見渡す僕はStranger
高鳴る鼓動
行き交う人の中で踊るOne verse

1999

この部分における「僕」という存在です。

2番Aメロにおいてのみ、「僕」「君」が反転している

結論から先に述べると、上の通りです。

曲全体を通して、「僕」「君」が複数形であること、もっと突っ込んで言ってしまえば、残る者と旅立つ者、という解釈は、多くの方の受け止め方と同じだと思っています。

ただ、2番Aメロの僕は、「旅立つ者」である、と私は解釈しました。
これは結構私の感覚に拠るものであり、一応以下にそう思った根拠らしきものを述べますが、「そんなことはない」と一笑に付して頂いて全く構いません。

1.「見慣れない町のランドマーク」

このフレーズは、精神的な変化と言うより、僕の居る環境の物理的変化と受け止める方が自然だと思っています。「ランドマーク」という単語が、「特定の場所」の目印であり、「風景」といった広い範囲の言葉より具体的であることが理由です。

そして、これまでの「僕」(残る者)は、詞の中で物理的な移動はしていません。
「歩いてくの」という表現はありますが、これは、精神的な前進である、と思います。

もう、King & Princeの歌であると言い切ってしまいますが、その場合彼らの活動拠点は日本の、特に東京という街にあった訳です。
そこから物理的に移動する者とは、「旅立つ者」である、と捉える方が自然でしょう。
特に、活動拠点についての考え方は、King & Princeを語る上で無視できない論点である、と思います。

2.「僕はStranger」

この表現。Strangerは「旅人」とも訳せますが、他所から来た人、というニュアンスの方が強いと思います。

主語「君」「僕」が反転している、という前提で話を進めてしまいますが…。
これまでの文脈に則り、旅立つ者を「君」と表現するか「僕」と表現するかで、かなりフレーズの柔らかさが変わってくる、と思います。
「君は異邦人」「僕は異邦人」。
例えて言うなら、
「私ってほんとドジだから」

「あなたってほんとドジだよね」
の違いとでも言いましょうか。
表現している事象が同じでも、主体をどちらの視点から見るかで印象はかなり変わります。
作詞者の、余計な角は無くしたいという配慮と、私は受け止めています。
あるいは、この歌が「残る者」だけのものではないよ、という示唆。

その後に続く、「僕」が見慣れない町での生活に心踊らせている描写から、Strangerとなった僕への希望とエールではないかと思いました。

3.僕が「残る者」であったなら、それを支える者の存在はどうなるのか

これまで、「残る者」である2人は、「ファンのために」と、限りない配慮と優しさと愛情を見せてくれていました。
その「残る者」が、自分たちをStrangerだと思っているとしたら…?

ファンとして、こんなに悲しい話はありません。例え、精神的に前進したからそのメタファー、という理由付けがあったとしても、ファンは「残る者」に付いていく、支える、という気持ちでいるでしょうし、それを1番感じているのが「残る者」である。

これは希望的観測に過ぎません。
ですが、作詞者のこれまでの言動からして、自分たちをStrangerとは表現しないと思うのです。

4.1番Aメロの描写との関連性

1番Aメロは、明らかに「旅立つ者」の風景です。

朝日が昇る一瞬
新しい今日が来る
昨日を詰めた段ボール
揺れる足元のGray

1999

この1番Aメロは主体「君」「僕」は使われていません。しかし、この一連の詞と2番Aメロが呼応しているとしたら、やはり2番Aメロは「旅立つ者」の視点あるいは描写だと思うのです。

作詞者の限りない優しさ

以上が、私が「2番Aメロにおいて『君』『僕』が反転している」と感じた理由です。

そして、こういう表現方法に至ったのは、作詞者の

「誰をも傷付けたくない」
「旅立つ者の背中を快く押していることを示したい」
「旅立つ者の幸福を願いたい」
「5人のこれからの歌である」

という、掛け値無しの優しさ故なのではないかと思っています。
そしてタイトルの「1999」、これは手紙の署名のようなものである、と思いました。

もし私の憶測と願望の通りであれば、主体の反転という非常にトリッキーな手段を用いてでも、この優しさと配慮を貫いた作詞者に、改めて敬服し、尊敬を深めるところです。
「そういう意味じゃないよ」となっても、それ以外の部分でやはり愛に溢れた詞であることは変わらないので、やっぱり敬服しますね。

自分の憶測で勝手にですが、泣いてしまってかいごめ(海ちゃんごめんね)。

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