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「愛し生きること」花とユートピアの話


※毎度のことになりますが、語尾に「と私は思った」をつけて読むことを忘れないように。

向き合ってみるよ「愛し生きること」に

元来私は、感性がとても鈍い。
世の中の「良いもの」を適切なタイミングで適切に受け取ることができない。
なのでこうしていつも、自分にとっての「良いもの」を、感性ではなく頭で受け取って、文章にすることでどうにか感性に届けている。

King & Prince 14thシングル「愛し生きること」のMVが公開された。

作品として、とても素晴らしい。
それはちゃんとわかっている。
それにかける、メンバー含む「チームキンプリ」の熱量も分かる。
感動もした。
だが、私の感性の鈍さ故か、私の感動は薄っぺらいような気がしてならない。
誤解の無いようもう一度同じことを言うが、作品の素晴らしさに対して、受け手の私の感性の鈍さにより、生じた感動が薄っぺらかった。
それはSNSでの反響を見ていても感じた。
皆さんが思い思いに、強い感銘を受けたことを表現している。
自分はどこか欠落しているのかもしれん、とまで思った。

あと、「スイちゃん」(Eテレの幼児番組『みいつけた!』のメインキャスト)こと増田梨沙ちゃんが出演していたことに気持ちが完全に持って行かれた。
(スイちゃん誰やねん属性のみなさん、今増田梨沙ちゃんを起用するのは、Mother初回出演中の芦田愛菜ちゃん起用するぐらいの感じです。)

話がそれたが、やはり私が自分のやり方で感性に響かせるには、いったん頭で受け取るという作業が必要なのです。
正直怖いですよ、みんなが思い思いの感慨に耽っている作品に対して頭で考えて何か書くのは。
ただ、私も自分なりに受け止めてぇのよ。
作品の受け取り方って自由じゃん?
じゃあそのプロセスも自由じゃん?
という覚悟の元、「愛し生きること」に向き合っていきたいと思います。

MVと詞における「花」の役割の違い

まず、MVにおいて「花」が非常に重要かつ象徴的な存在であることは疑いようもない。
荒廃し終末を待つばかりの世界で、花畑を夢見てちっぽけな種を埋めること。
これはもう言うまでもないが、ルターのリンゴの木である。

たとえ世界が明日滅びるとしても、私は今日、リンゴの木を植える

マルティン・ルター

花は希望の象徴であることがMV冒頭で示される。
細かく言うと、
髙橋海人モノローグ

「いま世界は朽ち果て 崩れようとしている」

で女の子が開いている絵本のページは、まさに花も木もない暗い野原の絵だ。そして、
永瀬廉モノローグ

「ただ、終わりに向かうだけだったこの世界の片隅で 僕らは君に、出会ったんだ」

では、一面の花畑の絵のページを開いている。
花と、ページを繰る女の子が希望の象徴であること。
もう書かなくてもみんな感性で分かってることを改めて言葉にしちゃってごめんね。

花が希望の象徴と書いたが、加えて「生命の象徴」でもある。
女の子が、5人の大人たちを招き入れた建物には、観葉植物が植わっている(2:20あたり)。
しかしそれでも、女の子は花が咲くことを求める。
観葉植物(葉)ではなく、花を求める。

花は生命の循環だからだ。
非常に情緒のない言い方をすると、花は生殖の象徴でもある。
(観葉植物も自ら殖えますけどここは概念の話なんで勘弁してや)
生殖とは、生命が新たに生まれ、朽ちて、それを繰り返すこと。
つまり未来へと生命がつながることだ。

女の子自身は、無垢に「きれいな花畑が観たい」という想いを抱いただけだろうが、映像としては生命のその先につながる希望を象徴するものとして描かれている。
そして「花」が全体を貫いていることにより、「生命のその先につながる希望」が映像全体のテーマと言えるのではないだろうか。

そして、詞における花。

例えばテーブルに添えた綺麗な花も
言葉になんてしちゃえば枯れてしまうだろう

保たれたバランスさえ崩れて滑り落ちて
二度と戻らない姿に変えてしまうだろう

「例えば」と冒頭で念押しされちゃってるので、あんまり深読みするのはよくないが。
花が言葉にすると枯れる。いったいどういう現象かと、咀嚼するのに結構時間がかかるのではないだろうか。
おそらく詞全体を通して一番難解な表現を冒頭に持ってくる。
しかも「例えば」と付けることによって、あくまでこれがメタファーでしかないと宣言してくれちゃっている。
なかなか聴き手に厳しい。

私なりの解釈だけれども、テーブルの花を
「綺麗だ」
といった瞬間、それ以降の時間は今ある綺麗さを失いゆき、「枯れてしまう」までの過程となってしまう、ということではないか。
分かりやすく言うと、椎名林檎先生が仰るところの

あなたはすぐに写真を撮りたがる
あたしは何時も其れを厭がるの
だって写真になっちゃえば あたしが古くなるじゃない

椎名林檎/ギブス

これだ。

そしてもう一つ。
「花を綺麗だと思うこころ」は、「君を愛しいと思うこころ」のことである。
「君が愛しい(花が綺麗だ)」と口に出してしまえば、君との世界(関係)はバランスを崩し、二度と戻らない。
多分こっちの方が核心に近いのではないかと思うが、前者の解釈が私の好みではあります。

MVにおけるユートピア ―5人のシェルター

ユートピア=架空の理想郷。↓これのことではないです。たまたまです。

MVで言うユートピアは、大人5人と女の子が暮らした建物。
理想、と呼べるほどの環境ではないけれど、外の人々の生きているのに生きていないかのような表情に比べれば、笑いがあることがどれほど理想に近い場所か。
そしてユートピアは、皮肉にも女の子の死と、世界の終末(ではなかったが)によって完成する。
花という希望に満ちたから。

それでも、なぜ彼らはユートピアに別れを告げたのか?
女の子の遺した、希望と生命の象徴である花を守り生きる選択肢もあったのに。

その答えは、のちほど。

詞におけるユートピア ―2人だけの世界

これはもう私個人の考えであるが、「ある2人の人間関係」とは、ユートピアの最小単位だと思っている。
草野マサムネ先生の言うところの

誰も触れない 二人だけの国

スピッツ/ロビンソン

である。
これを引用せずとも、皆さんも経験があるのではないだろうか。
恋愛の絶頂期~安定期の、お互いがお互いの一部であるかのような、同じ想念の中で生きているような感じ。
あれがユートピアの最小単位(架空の理想郷)、その一例であると思っている。
もちろんそれは、同性同士の友情だったり、親子関係の中で成立することもある。
それが健全・不健全は今は問わない。

「愛し生きること」の2人は、おそらくこういった恋人関係ではない。
「例えばテーブルに添えた綺麗な花も~」のくだりで、想いを言葉にすることの危うさが表現されているから。

閉じ込めて鍵かけた
想いが永遠に変わらないこと わかっていたから

これもまた、「永遠に変わらない想い(愛情)を閉じ込めて鍵かけた」という、愛情表現を心のままにしてはならないことを表現している。

1番サビ

冷たくないさ孤独の雨も
綺麗な嘘で抱き締めるから
今世界が朽ち果て崩れようとも
この胸に誓い合った君と描いたストーリー
信じれるものなどこれだけでいいんだよ

ここで朽ち果てる世界とは、MVのような本物の世界ではなく、2人の世界(関係性)。
そして「綺麗な嘘で抱きしめる」。
誰を。君を。
2人の世界の中、綺麗な嘘で君を抱きしめる。
というか、僕の綺麗な嘘(世界)が君を抱きしめる。
これは、ユートピアですね。架空(嘘)の理想郷ですね。

詞とMV、それぞれのユートピアからの離脱

この時点でまだユートピアの中にいた二人ですが、曲の後半ではどうでしょうか。

粉雪が舞う頃
また君を思い出すだろう
それぞれの場所で だけど

冷たくないさ孤独の雨も
綺麗な嘘で抱き締めるから
今世界が朽ち果て崩れようとも
この胸に誓い合った君と描いたストーリー
信じれるものなどこれだけでいいんだよ

生きて行くこと

「それぞれの場所で」
明らかに2人は同じ場所にいない。ユートピアからの離脱。
ラスサビも1番サビと同じ文言でありながら、主体(1人称がない!)はもう1人で居る。

なんで1番サビはまだユートピアにいる設定なんだよ都合よすぎだろと思うかもしれない。
しかし、1番Aメロでバランスが崩れることを恐れ、
1番Bメロで「君を愛しいと思うこころ」を閉じ込めた、
つまりこの時点ではバランスは保たれていた=2人のユートピアが成立していたということだ。

話が行ったり来たりで申し訳ない。
落ちサビ「それぞれの場所で」でユートピアからの離脱が示唆されたわけだが、その後の主体は「君と描いたストーリー」だけを抱きしめ、信じる。

言い換える。
甘やかな世界から離脱したとしても、通じ合う想いがそこにあったことは真実である。
その真実を糧に進む。
そして、それこそが彼なりの「生きて行くこと」。

MVの「なぜユートピアに留まらなかったのか」の話に戻る。
公式で示された曲のメッセージ、

嘘か本当かわからないものに振り回されそうになる時、
誰しもが身近な人に支えられている。
自分にとって大切な存在がいるからこそ、
どんな現実も受け入れて進んでいくことができるという
メッセージを込めたバラード曲

https://www.kingandprince5th.jp/

「どんな現実も受け入れて進んでいくことができる」。
そして、ラスサビの「生きて”行く”こと」。
留まってはならないのである。
外が荒れ地であろうとも、女の子が託してくれた希望を抱え、生きて行くしかない。
MVの最後の5人の距離感。
もう、チームではない距離感、だけど目線を交わすことができる。
お互いが躓けば、助けに行くことができる。
これこそが、「どんな現実も受け入れて進んでいくこと」なのではないだろうか。

それは苦しみなのか。試練なのか。

曲タイトルを思い出してほしい。
「愛し生きること」(いとし いきること)。
「愛し生きること」(あいし いきること)ではない。
あいし、生きることであれば、愛される対象は他者である。だが
いとし、生きることであれば、生きることそのものをいとおしんでいる。
つらい現実の中で、変わらない想いを抱えながら踏み出すすべての「生きること(人間)」を肯定する。
「愛し生きること」とは、あまりに大きな人間賛歌なのだ。

この大きな人間愛を表現するにあたって、King & Prince史上最も壮大と言えるだろうMVとなったのは、必然だったのだ。

長くなったけれど、これが私が頭で受け取って考えて考えてようやく心に届けた、「愛し生きること」への感動です。
みなさんはみなさんの、「愛し生きること」を大切にしてください。