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「才能がない」という救い

先日、あまりに暇なので、これまでに自分が書いたnoteの記事の文字総数を数えてみた。といっても、1記事あたりの平均文字数(感覚)×記事数、という非常にアバウトなものだが。

自分の中で、1記事の文字数は3,000字以上、というのが何となく決まっている。それくらいの質感の文章を書きたい、それに満たないものを「記事」として成立させる技量がない、というのが理由、かもしれない。今考えた。
3,000字以上を目指して書くと、だいたいそれを越えて、3,500字くらいになる。4,000~4,500字になることも珍しくない。たまに、2,000字台後半のこともあるし、「推し短歌」あたりはだいぶ少ない。
まぁ平均して3,500字ということにする。

そして、記事数。
7月:5本
8月:16本
9月:16本
10月:8本

7月の1本目が、7月23日に書いたWWT。
(これ以上の文字数―8,000字、熱量、アクセス数のものは二度と書けないと思う)

これ以降、単純計算で2日に1本は書いていることになる。
総数、45本。

3,500字×45本=157,500字
15万と7,500字。
一瞬、計算間違いかと思った。15万て。Myojoの1万字インタビュー15人分よ?
一応検算したけどやっぱり157,500字だった。
そのうちの9割が髙橋海人関連の記事である。

もう、ちょっとした異常者だ。

私が髙橋海人だったら絶対に引いているし怖いと思う。
仮に髙橋海人に、Myojoが「1万字インタビューを15回やりましょう」と言ってきたら、彼も(正気か…)と思うだろう。

さすがにおもろいと思ったので、友達に
「noteに書いた記事の文字数計算したら、15万字書いてて引いた」とLINEしたところ、
「15万字は最早仕事wwwテーマがジャニじゃなければ出版できたwwww」と返信があった。
ここで声を大にして言っておきたいが、友達にはnoteの記事は見せていないので、「出版できた」は単純に文字数についての感想であり、クオリティに関することでは一切ございません。
クオリティに関することでは一切ございません。

そこでふと、「一般的な本の文字数って、地球の歴史からするとどのくらいなんだろう?(CV 石川梨華)」と思い、調べてみた。

いや新書出版できるやんけ。

そうだよな~この3か月弱憑りつかれたように書いてたもんな~と一応納得はしたが、まさかそこまでとは。
いよいよ本格的に、髙橋海人本人に見られてはならないアカウントになっていた。

友達の言った一言「テーマがジャニじゃなければ」、これは結構なインパクトだった。確かに、ジャニーズタレントをテーマにした文章など、商業化できるはずもない。(商業化できるクオリティでないことは何度だって確かめ合いたい)
もしこれが、自分の生活とか仕事観に関する文章だったら、どう思っていただろう。
結構な文量を書き、自分自身でも文章が好きで(私はマジで、自分の文章のトップオタは自分だと思っている)、テーマ的にも差しさわりが無かったら。

ワンチャンあるんじゃん?と思っていたかもしれない。
もっと頑張れば、自費出版ででも本にできるじゃん?とか思ってただろう。

一介の、推しに関する文章を書いてニマニマするのが好きなだけのオタクが、こうなのだから、本当に文章力があり、感性も鋭く、テーマ性や問題意識を多角的に持てる、そんな文章書きの方はどうだっただろう。
自分の才能に期待し、その先を期待するんじゃなかろうか。

***

先日久しぶりに、本当に高校生ぶりに「山月記」を読んだ。
作者:中島敦は没後50年以上経っているため、青空文庫で全文読むことができる。
最初のめちゃくちゃ漢文調の部分で挫折しそうになったが、物語の核心部分は比較的口語的で、書き手の「伝えたい部分はここだよ」という丁寧さを感じた。

ざっくりあらすじを説明すると、中国の李徴という名の男は、詩家を目指して役人の職を捨てるが芽が出ず、ある日行方をくらます。
しばらくして、李徴の友人で引き続き役人を務めている袁傪は、藪の中で虎となった李徴に遭遇する。

この話の中でとても印象的だったのがこの部分だ。
李徴は、袁傪に「自分の詩を書き遺してほしい」といい、詩を朗ずる。それに対する袁傪の感想。

一読して作者の才の非凡を思わせるものばかりである。しかし、袁傪は感嘆しながらも漠然と次のように感じていた。
成程、作者の素質が第一流に属するものであることは疑いない。しかし、このままでは、第一流の作品となるのには、どこか(非常に微妙な点に於いて)欠けるところがあるのではないか、と。

ざ、残酷の極み…
しかも、”どこか”にとどまらず、(非常に微妙な点に於いて)というかっこ書きまで付けてとどめを刺してくれる。袁傪、もうそれそのまま李徴に言ってやれよ…

しかし李徴もそれを自覚していた。そして、己の才能を磨ききれなかった理由が、かの有名な

我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為である。

という名文に繋がるのだ。何と残酷かつヒリヒリするやり取り…
ほんと初っ端の漢文調で油断させておいて、現代人すらド刺さりするパンチラインを放つなんて、さすが高校の現代文の教科書に載り続けるだけあるぜ…
(なので、高校を卒業した皆さんは一度は読んだことがあるはずです)

***

才能がある。それは間違いない。しかし、ギリギリのところで、「非常に微妙な点に於いて」欠けるところがある。
この状態は、その道を目指す者として最もつらい状況なのではないだろうか。
賞に応募して、優秀賞ぐらいまではいける。でも大賞は取れない。
読み切りは掲載してもらえる。でも連載の話は来ない。

いっそ、才能がなければ。自分には才能がない、と思える程度の能力だったら。

才能がある、というのはとても重い十字架なのではないかと思う。
推しの髙橋海人も、敬愛する吉井和哉も、才能に満ち溢れた人たちだ。
そして無事その才能が世に放たれ、支持され、正当な評価を受けている。
こんな人たちは、一握りだ。
また、その吉井和哉も、(髙橋海人が演じた)若林正恭も、才能がありながら世に認められない、自分に才能があるのかないのか分からない、少なくとも客観的な証拠がないという日々を長い期間過ごしていた。
それでも諦めきれない。それこそ、「辛くて惨めで恥ずかしい」と思っても仕方なかっただろう。

***

今私はこうして、2日に1本のペースで、好きなように好きなことを書いている。批判的な意見が来るほどの知名度もなく、とはいえ読んで下さる方や好意的な感想を下さる方もいる。これはかなり恵まれた状態だと思う。
これもひとえに、自分の「才能のなさ」ゆえだと思う。
自分の文章のトップオタではあるが、さすがに私も客観視はできる。
私は、好きなものについて書く執念があるだけで、秀でた文章力や、新規性のある視点、卓越した表現力、そういったものは持ち合わせていない。

才能を持つ。その運命の残酷さに打ち勝った一握りの人たちしか、私たちの目には映らない。才能という残酷さに翻弄され、挫折したり逃げ場を失う人が、その何十倍何百倍といる。

才能に溢れる推しに巡り合い、「書きたい」という意欲を15年ぶりに刺激され、日々楽しく書いている、才能のない私。
この状況が、心から幸せなことだと思っている。
好きなことを趣味に留められる程度の能力、というのは、生きていくうえで、一番楽なんじゃないかな、と思った休日でした。

うん、短く書くつもりがまた3,000字行った。総文字数16万字越えたね。

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