ヒロぼうさん

ヒロぼうさんインタビュー (前編)

ヒロぼうさんの経歴

2007年07月 - 2013年06月 いろいろなところに常駐するSES
2013年07月 - 2018年09月 金融工学の中小企業でインフラエンジニア
2018年09月 - 現職 Fintechのベンチャー

金融業界でインフラエンジニアになり10年ちょっと経ちます。
キャリアの初めは、客先常駐のエンジニアとしていくつかの金融機関で働きました。主にサーバーの構築、運用、保守を担当しました。
ある程度経験値を積んだら常駐じゃなくて自社で働きたくなったので、金融機関向けのシステム開発から運用も行う会社に転職しました。ここでは、システムの要件定義、設計、構築、テスト、運用、監視、障害対応、改善活動の一連を経験。他にオフィス移転やシステムリプレースなどを担当しました。
いろんな経験をさせてもらいましたが、自分にコンテナ技術の知見とコーディングスキルが足りず、いまいちInfrastructure as Codeの流れに乗り切れていないことに不安を覚えたので、それらを補完する目的で再度転職しました。
そんな流れで現在はいわゆるFintechベンチャーで働いています。

ヒロぼうさんインタビュー(前編)

――学生の頃、どんなことを勉強していたのでしょうか

大学では文系でして日本文学を学んでました。中学と高校の国語の教員免許取りました。
小説家になりたくて就活せず、卒業後、引っ越し資金が欲しくて正社員になろうとして、雇ってくれたところがエンジニア派遣の会社でした。以来、そのままエンジニアをしています。

――文系ど真ん中ですね。どんなジャンルを書いてたのでしょうか。

純文学でした。学生のころは夢を追いたくて必死でした。

――おお、芥川賞狙いですね

ですね、芥川賞。文豪に憧れてましたねー。でも書ききるのは根気がいりますからね。本出されてる佐々木さん尊敬します。
小説家目指してる、って面接で役員に話した気がします。

――私も大学生の頃は小説を書いたり応募したりしてましたが、面接で言ったことはないです。

面接官に「就職したら小説書けなくならない?」って聞かれました。若かりし私は、「いや書くし、書けるし」なんて意地はった回答をしました。
懐の深い面接官で、エンジニアになるきっかけを与えてくれて感謝してます。

――エンジニアとして働きながら原稿を書く生活が始まったんですね。

エンジニアとして働きながら文芸活動を色々やりました。方向性を考えて現代詩や脚本、コピーとか書いたりしました。小説ではないですが、詩では賞をいただいたりしたこともありました。
コピーは、仕事後に養成講座に通いました。
でも文章をメインの仕事につなげることはできませんでしたね。

――文字を書いて生きるって難しいですからね。僕も書いていて夢がないと思うことがあります。

ここ数年、エンジニアにどっぷりだったんですけど、最近ふと書いてみたらとてもしっくりくる充実感があったんですよね。やっぱり文字が好きなんだなぁと。
しかし、本職はエンジニアなので、エンジニアとして文章とかかわりある仕事なんかできたらいいなーと思ったりはします。

――そのエンジニアの仕事は文系で未経験のまま始めたんですよね。

はい、学歴的にも丸っきりの未経験でした。教育制度には力入れてる会社だったので、2ヶ月の研修を経て、SIerに派遣されました。

最初の常駐先は、官公庁のシステムを請け負ってる大きな会社で、右も左もわからないまま、パラメータシートを作ったりしてました。
2ヶ月の短期でしたが残業時間が月に100時間を超えて、先が不安になったことを覚えています。

――いきなりパラシーだと難しいですね。意味がわからないでしょうし。

ひたすら怒られましたね。キレる人の多い業界なのかなー、家にも帰れないし、、、って不安に苛まれてました。

――それは案件が無理ゲーですよ。高稼働で周りも余裕なかったでしょうし。ちなみに何のパラシーか覚えてますか?

ファイアウォール、ロードバランサ、スイッチ、サーバーの各種設定値ですね。
巨大な官公庁システムのごく一部をひたすら作るチームで、要件定義書と、先輩の方々の構築したコンフィグをパラメータシートにおこしてました。
あとは顧客に渡す手順書なんかもつくりましたね。

――うわ、それ今の僕でもいきなり入った現場で一人でやらされたら苦戦しそう・・。機器がバラバラだから結構手間がかかります。

確かにわからないながら、時に朝までかかってなんかやってましたね。
ただ、一人ではなく未経験の三人だったので、怒られながらも頑張れました。

――いきなり大変でしたね。次の派遣先はどんな現場だったのでしょうか。

次は超優良な環境でした。中小の会社で、金融工学(資産運用や取引、リスクヘッジ、リスクマネジメント、投資に関する意思決定などに関わる工学的研究全般を指す)を使った開発を行う会社で、後に正社員に誘われる会社です。

ビジネス内容としては銀行や金融機関が顧客でして、顧客のシステムを自社開発して運用まで行います。
会社にクオンツ開発のアナリストがいるので、金融データに付加価値をつけて顧客に提供する会社でした。
常駐期間は1年2ヶ月。ここで様々な技術のイロハを教えてもらいました。
ファイアウォール、ロードバランサ、スイッチ、ルーター、各種サーバー、いろいろなメーカーのを触らせてもらいました。当時ホットだった仮想化技術なども。
データセンターの立ち上げにもかかわらせてもらい、エンジニア一年生としては恵まれたと思います。

――かなり盛り沢山な内容ですが、知識経験ゼロからは厳しくありませんでしたか?

部長が真摯に厳しいかたで、しっかりと教えてくれました。
例えば、サーバーにcentosインストールするというありがちな作業にしても
手順書もあって慣れるとさくさくできるのですが、「なぜパッケージは最小限にするのか」なんて質問してきて、「手順書にデフォルトでいいって書いてあるので」なんて答えると2時間くらい説教されました。

――ハードな新人教育ですね。もちろん設定の意味は理解すべきで、必要なものだけインストールするのが正しいのですが、実際デフォルトで余計なパッケージ含めて入れてるサーバも、世の中に結構ありますからね。

その部長はとても技術力が高くネットワークからサーバーまでこなせる人でしたね。新人の私が少し背伸びすればなんとかできる課題を常に与えてくれたかたでした。

環境が良くて全ての実機があった上に残業も多くなく、この期間でCCNAとLPIC, ITIL, MCPをとれました。ここで構築、運用、保守を経験できてとても実りのある一年でした。

――ものすごく濃い一年ですね。で、リーマンショックで大激震が走るわけですね。

金融業界は会社も人も通夜みたいな雰囲気でしたし、私の契約も終了となりました。
2009年の1月から3年3ヶ月、某外資系銀行に常駐しました。サーバーのミドルウェアまで担当する部署で構築運用保守やりました。

3000台規模のサーバーの面倒をみることになるので、故障率が1%以下だとしても、毎日のようにハード障害がおきます。毎日サーバーを作り、障害対応しました。

――ああ、大変そう。ハードディスクとか壊れたら交換は自分ですかベンダーですか?

半々です。というのは、古いサーバーなどは契約が満了していたりしました。
でもなぜ自前でメンテできるかというと、豊富な財力で、無数のハードディスクや数十台のサーバーをストックしていたからです。
そういった在庫管理しつつ、ジャンクなサーバーからパーツを抜き取って別のサーバーを直すスキルが身につきました。

――そのほうが素早い対応できるのでメリットはあるんですが、ちょっと時代を感じる話でもあります。

クラウド、コンテナ技術の席巻する現在ではほぼこのスキルは使えません。当時のバックアップはraid 1(ミラーリング)の片割れのハードディスクだったし。なかなか時代を感じますね。
当時の経験のハイライトとしては、3000台のサーバーの移転、そしてリーダー経験ができたことです。

――20代で大きな仕事のリーダーをやれるのは貴重です。

保守部隊は比較的若いメンバーで構成されていたからですね。
壮大な移転でした。毎月関西に出張できたし、いい思い出です。二日で100台キッティングしたりしました。
もうそんなことは一生やる機会がないと思います。

――物理のこの規模の移転はレアすぎて一生モノですね。

移転業務の最中に、311の東日本大震災でしたね。私は関西のデータセンターにいたので揺れは感じなかったのですが、東京以北が大変なことになっていたので、帰るべきか相当不安でした。
うろたえる私に、「こういうときは普通に仕事するのが一番大事です」
と後輩に言ってもらったのを覚えています。

――忘れられない経験をたくさんしていますね。ここで2012年まで過ごしたんですね。きりが良いので前編はここで切ります。後編ではさらなる波乱とドラマとハッピーエンドが待ってます。必見です!



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