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言葉と存在証明

文章を書くことが楽しいって思うひとつの要素は、言葉にすることではじめて、自分はこう思ってたのかってわかるからだと思う。

この言葉で今の私の気持ちにしっくりはまってるかな、この表現で読む人が誤解なく受け取ってくれるかな、って考えて、納得できるまで読み直して自分の感情を精査して、そうして出来上がったわたしの文章が好き。

「思う」って、心の中でしゃべったりなにか文字列を言うのとはちがう。

本当の「思う」は、「感じる」だと思う。自分の中になにか感じている感覚があって、その感覚に言葉をあてはめること。感覚を言葉にしようとする過程ではじめて、「自分はこう思ってるのか」「こう思ってたんだ」とわかる。

以前の私は、自分が思ってること(=感じてること)がなんだか醜いもののように思えるとき、誰かに非難されそうなとき、自分の理想と違うとき、それを無意識に抑圧して、閉じ込めようとしていた。私は聖なる人間でいたかったし聖なる人間であろうとしていた。こんなこと感じるなんて人間として最低だ、こんな腹黒い気持ちはみんなに見透かされる、嫌われる、もっと心が綺麗で純粋な人間になりたい…と、自分が感じている感情を、自分を否定して生きていた時期がある。

その頃は、毎日不安で不安でたまらなかった。なぜ、何がこんなに辛いのか、自分でも本当にわからなかった。

私はこの時期のことを、私の中で勝手に「病み期」と呼んでいる。こういう状態におちいったことのない人は少し想像しづらいかもしれないけれど、ほんとうに、ほとんどすべての瞬間がわけのわからない不安に包まれていたのだ。他人の目を過剰に気にし、心の中まで見張られているような状態。いい人でいたい。素敵な人でありたい。そのためには、心の中で感じる感情まで綺麗でなくちゃいけない。憧れるような心の綺麗な、素直で素敵な人と接するたびに感じる劣等感。自分はこの人みたいに、心の美しさがない。根っからのいい人になれない。私の優しさは偽善だ。人と話すのが怖い。自分が存在している実感がない。高すぎる理想と完璧主義が自分を縛り、否定した。身動きが取れない。息ができない。劣等感と自己嫌悪のかたまりが、人の形をして歩いていた。


そんな病み期を乗り越えた今も、多少の後遺症はある。でも、最近の私はずいぶん人として強くなったと思う。

書くことは、私を強くしてくれたことのひとつだ。

よくわからないけどなぜか憂鬱なとき、すべてのやる気がなく虚無感に襲われるとき、ちょっとしたことで涙が出そうになる精神状態のとき、私の場合こういうときはだいたい、自分が心に抱えている気持ちを無視して、それが存在しないかのように振舞っているのだと、最近気づいた。

そういう時に、私は書く。

もっと言えば、書こうとして気持ちを言葉にまとめていくだけでもいい。なんでこんなに心が晴れないんだろう、なにが私の中に引っかかっているのだろう。そうやって考えていくと、見つかるのはだいたい、私の中の「人として醜い部分」だ。できれば自分の中にあるのを認めたくないような、人には絶対に言えない、最低だと言われるしむしろ自分でも最低だと言いたくなるような、そんな黒くてどろどろした感情。でもそんな奴が確かに私の中に、ある、それに気づくのだ。

そして、気づいて、それを眺めるだけ。ああ、私はこう思ってるんだなと、認める、だけ。そんな思いを抱く自分に対する価値判断はしないことが、重要。そうすると、不思議と気持ちが和らぐ。緊張していたものがほどける。私の魂が、ここに居てもいいんだと安心しているのかもしれない。病み期には、それらの感情を真っ向から否定するどころか、それがあることを認めることさえしてあげていなかった。それは、私という命の存在の否定だったんだなあ…

そういう、自分自身も心から嫌悪するような、自分の中の黒い感情を「認める」「眺める」作業は、はじめは文章を書くことから出来るようになっていったけれど、最近は、人に話を聞いてもらうことで、声に出すことでも出来るようになった。(その時わたしはたいてい泣いている笑)

これは、つまりは自分の醜い部分を人にさらけ出す事だから、文章を書くことよりもずっと難易度が高い。土台に安心できる人間関係が無いと出来ないことだ。これについては、感情を認める作業ができること自体より、そこまでの関係を築くことができた相手がいることが、とてつもなく、嬉しい。


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長々と書いて、どこが落とし所かわからなくなってしまったけれど、言語化すること・文章を書くことって面白いなあっていうことと、最近ちょっと、強くなったよ。というお話でした。


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