だから、私は今日も料理をしたのである

私の兄は白血病……の、一歩手前まで行った。

兄、と言っても、訳あって血の繋がりは完全ではない。ので、脊髄が適合するかどうかの検査は私はしなかった。(兄は所望したが、医者に99.99%合わないから無駄だよと言われたのだ。)

母はつきっきりで看病し、彼女がいられないときは私や、当時の彼女……今は奥さんとなった人が付き添った。割合としては8:1:1くらい。母は、支援してくれる親戚との板挟みともなっており、疲弊していた。

無菌室の中で苦しむ彼の姿を窓越しからずっと見ていた。吐いているか、寝ているかのどちらかが多かった。母は無菌室の中に入って看病をしたが、私は母にそれを要求されなかったので、彼が欲しがる氷だけを買って持っていき、中と通じる電話でたまに話すだけで、あとは本当に、ただ見守ることしかできなかった。苦しいだろうに、窓越しに笑いかけてきた姿を覚えている。

無菌室を出てからは、治療の果てしなさに鬱になる彼と、ストレスと疲れで気が狂いそうになる母との間に入り、宥めることもあった。彼は恩義こそ一番に感じていたが、それに伴って申し訳なさもかんじていただろうし、そもそも心身ともに苦しさでいっぱいいっぱいで、常に優しい彼でも余裕などあるわけがなかった。鬱に近い状態がこのまま続いたら、自殺してしまうかもしれない、と看護師の方が心配して、彼が1人きりになる時間がないようにしていてくれたのを覚えている。それを理解している母にも余裕がなかった。だから、余裕が残された私が彼の愚痴を聞き、疲れた母に弁当を持っていき、病院の休憩スペースで一緒に食べながら、あなたがいてよかったと言われたことを覚えている。彼の苦しさと母のタスクを考えたら、大学終わりに見舞いに合流することなんて、1%にも満たない苦労だった。

病院食を食べれるようになった彼の姿を見て、昔のことを思い出した。母が運転する車の中、コンビニで買ったプリンを食べていたら、兄が一口くれというので渡したら、喋っているのに夢中で、一口どころか全部食べてしまったらしく、兄自身が一番驚きながら謝ってきたので爆笑してしまったのを覚えている。かなり昔の話だ。私たちと同じように、普通に暮らしていた彼は、入院する4年ほど前から急激に弱っていった。もともとお腹が弱かったり、風邪を引きやすかったりはしたけれど、そんな感じではなかった。頭が痛すぎて動けなかったり、慢性的に貧血になったり、怪我が異常に治りにくかったり。よくわからない体調にずっと振り回される中、大きな病院に通い続けてようやく病名が定まった。兄の体調がどこか変だとはわかっていたものの、移植まで必要な病気とは思っておらず、聞いた瞬間泣いてしまったことを覚えている。

そんな入院生活ももう2年前のことだ。あと3年再発しなければ、病気の再発率がグッと下がるのだという。一緒にレストランでハンバーグを食べている彼を見て、本当に元気になったのだと実感する。別れた後でも、夢でも見ているのではないかと思うほどに元気だったな、良かったなと思う。そう思うくらい、苦しむ姿を見続けていた。

今日も、夕飯の支度のためにと台所に立った。祖父が育てた野菜を切り、祖母にもらったお肉を焼いて、お米とお味噌汁を用意する。今日は祖父母のおかげでとても楽に夕飯の支度ができた。

もともと我が家は自炊一家なので、母の手料理をずっと食べて育ってきた。だから、私がご飯を作るのは自然な流れで、レトルトや総菜、カップ麺を継続して摂取するのを好まないのは昔からのことだった。

けれど、ここ最近は時々兄の言葉を思い出し、自分の、あとは母の体のためにと思いながらご飯を作ることがある。

俺みたいにカップ麺だとかインスタント食品だとかで何年も暮らして体を壊すようにだけはなるなよ、と、彼は言った。私の家系ではなく、彼の家系に流れる血がその大病の元なのではないかと睨んでいるようだったが、それよりも、一人暮らしをしていた頃の荒んだ食生活をとても悔いていた。食事のための時間と金を惜しんだ結果がこの病気なのかもしれないなとも言っていた。

だから、まあ、必然ではあったけれど、それも理由の一つとして、私は今日も料理をしたのである。今日作ったご飯が明日の元気に代わり、未来の自分の健康につながると信じているからだ。そして彼も手料理……かはわからないが、バランスよくご飯を食べたことだろう。あと3年、長いけれど、何事もありませんように。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?