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思想なんて現実の奴隷でしか無いよという話。~これからの愛国心や民主主義のあり方とは~

日本の政治論争を見てると「私は愛国心を持っている!」とか「憲法や民主主義を守るんだ!」というような「観念」の話がとても多い。

こういう「国家」とか「民主主義」とか「人権」みたいな「観念」は、物理現象や生物と違って、事物としては存在しないものだ。

だからある意味で、人間は今も昔も変わらない。昔は神を崇めていたものが、今はそれが人によって国家に置き換わったり、憲法や民主主義に置き換わっただけである。

また、貨幣なんかも「観念」の一種である。多くの人が価値があると思い込んでるから成り立つわけで、何かしら事物として価値がある訳ではない。

さて、人間がこのような「観念」を持つ事によって、どんな効果があるのか?

それは、多くの人が一つの”目的”に向かって動けるという事である。

つまり国家だの民主主義だの人権だの、そういう観念は、言わば人を動かすための「記号」に過ぎない。別にそこに入る言葉は、なんでも良いのだ。

問題は「正しい目的」に向かって人を動かす事だ。ここを誤ってはならない。そこをハッキリせず記号である観念だけを宙に浮かせて議論するから、現実を無視した不毛な観念論の衝突に発展するのだ。

もちろん、例えば「愛国心」には「国家を守り繁栄させる」という目的があるし、「人権」には「人間が生まれながらに持っているとされる権利を大切にしよう」という目的があるが、それらはもっと根源的な「正しい目的」の一部を取り出し、しかも余計なものをごちゃまぜにし、そのごちゃまぜにしたものを本来の「正しい目的」より優先すべきだという、非常に本末転倒なものだ。この記事はそれを問題にしている。

さて、その「正しい目的」を言い換えるなら、結果論ではあるがいろんな民族や勢力や国家などの共同体がしのぎを削ってきた人類史の中で、今も存在する共同体を残してきた目的が「正しい目的」だと言える。

その「正しい目的」とは何ぞやというと、トートロジーではあるが「共同体を存続させる事」が「正しい目的」である(ここで「結局はナショナリズムみたいな発想になるのか?」と思った人はちょっと待ってほしい)。

もちろん集団を存続させるには、ナショナリズム的な発想だけでなく、例えば独裁国家を維持するのがとても難しいように、人権や自由、福祉、多様性に良く似た観念が必要であり、それらを制度的にも強固にするには憲法や民主主義などの観念も必要である(もちろんそれは「正しい目的」に沿う形でなければならず、今の日本、とりわけ左派の間で語られる人権や多様性や憲法などはちょっと違うが)。

そしてここからが重要だが、我々は「ただ存続していればよい存在」ではない。それが「正しい目的」であっても、それを選びたいかどうかは別問題で、「正しい目的」の達成に必要な事を満たしつつ、「皆が選びたくなるような観念」が必要なのだ(近い概念を上げるなら「ソフトパワー」だろうか)。

さて、それにはどんな具体的な政策をすべきか?というのは、その時々の国内外の状況を見極めながらやるしかないのだが、ともかく今回の記事では宙に浮いた観念論争は不毛であるという事と、観念が「正しい目的」の達成を必要条件に、「皆が選びたくなるような観念」である事も非常に重要な十分条件であるという事は申し上げたい。

そしてこの記事は少し単純化している。これからグローバル化が進んでいくとして、その中で今回のテーマがどう変化していくか?という話も、反響が大きければ書いていきたい。

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