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「弱者」や「マイノリティ」でなくとも、苦労なんて誰でもしている。

世間には「弱者はこんな苦労をしてるんだ!」とか「マイノリティはこんな生き辛さを抱えているんだ!」という言説が溢れている。それらがただの愚痴ならば問題ないが、なにか政治や社会を変えようとアプローチしている「主張」であるならば、「苦労なんて弱者やマイノリティでなくとも誰でもしてるよ」と言いたい。

ここで「同じ苦労でも弱者やマイノリティは環境要因や生得的要因など、本人の力ではどうしようもない事で苦労してる人が多いんだ!」という人がいるかも知れない。

しかし、究極的には人間は自分のどんな要素も、自分で選んではいないのだ。ここでグダグダ語るつもりは無いが、なにか「本人の努力でどうにかできる事とできない事」を分離しようとする、自由意志を過度に強調するような前近代的発想をする人間は笑止としか言いようがない。

また、「弱者やマイノリティの苦労は、強者や多数派の苦労とは性質が違う」という人もいるかも知れない。しかしそんな主観的な問題を客観的な形に直すのは、ナンセンスだとしか言いようがない。年収300万でも十分に幸福に暮らせる人もいれば、年収1000万でもストレスで本当に死んでしまう人もいる。それを後者の人が死に物狂いで年収1000万を稼いでいるのに、勝手に「強者」だと認定されて過度に課税されるのは、生存権を脅かされている。

絶対的貧困、相対的貧困なんて分類には何の意味もないのだ。年収が相対的貧困ラインを上回っていたとしても、生命を維持できない人は確かにいるのだから。

さて、ここまではタイトル通り、「弱者やマイノリティでなくとも苦労なんて誰でもしている」という事を言ってきた。

しかし私は、「苦労なんて誰でもしてるんだから我慢しろ」とか、「弱者やマイノリティも強者やマジョリティと変わらないのだから支援するな」と言いたい訳ではない。

そうではなく、弱者と強者、マイノリティとマジョリティという対立構造を作るのではなく、皆が協力して「苦労」「生きづらさ」に対応していくべきではないか、という事が言いたいのだ。

現実問題、いくら「生存に必要な金は人それぞれである」と言っても、「今持っている金が全て生存に必要な金だ」という人ばかりではないのも事実だし、富裕層になればなるほどそういう人が減っていくのも事実だと思う。

だからやはり累進課税は正しいと思う。けど、それは「資本家が搾取した金を闘争によって奪い返したぞ」というような形ではなく、やはり「助け合いの精神」で、高額納税者は感謝されるべきだし、社会保障を受ける側も感謝して良いと思う。もちろんそれを義務にすべきだと言っているのではなく、個々人の自由の中からそういう姿勢を選択しても良いのではないか、という話だ。

いくら生存権が憲法に定められていると言っても、納税者も人間だから、「社会保障を受けるのは我々の当然の権利だ」という姿勢の人ばかりでは「俺だって苦労して稼いだ金なんだぞ・・・」という不満が溜まる。それが多くの富裕層が過度な自己責任論・新自由主義を唱える風潮に繋がっていると、強く感じる。

そして、ここからがこの記事の肝だが、どうしても「課税」や「再分配」という話になると、社会全体の富を奪い合うかのような構造になってしまうが、そうではなく経済全体の効率化を皆で模索し、より小さな労力で大きな富を生み出す。そうすれば「全員が得をする社会」になりやすいのも事実だ。

これからAIなどが普及してくる事で、更にこういった姿勢は必要になる。人間以外のものが生み出した富を、BIなどの公平な形で再分配する。

それは、これまでの人間同士の対立構造からは生まれてこない世界である。日本にはまだ「自己責任論VS過度な平等主義」のような対立が根強く残っているが、今こそ新しい思想の台頭が必要ではないかと思う。

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