香港総統

香港デモの現状と中国の現代史について



香港デモの背景と中国の現代史について34365文字書いたので気長に読んでもらえると嬉しいです。


現在香港ではアジア史上最大のデモが行われています。        

ネット上にある日本語の記事も断片的な情報はあるのですがなぜ今回のデモが行われているのか、その原因となった歴史的背景にはどんなことが起きたのか?また中国という国はどんな国なのかについてもわからないかと思います。中国という国があり、そして香港という国があり、ただ原因がありデモをしている。僕は友人に「香港が中国に独裁されたらそんなにダメなの?」や「ただ香港が中国に独裁されるのが早まっただけじゃない?そんな言葉を言われました。

それは仕方のないことだと思います。日本のメディアは香港が危機的状況であるのに報道しません。もし今回の改正案が通ってしまい、事実上の一国二制度が終わり、中国に独裁されてしまったら香港人の方や香港にいる日本人の方に何が起こるのかわかりませんもんね。

なので今回香港デモの背景と中国がなぜ?香港を独裁しようとしているの、そして香港政府はなぜ?デモを無視してしまうのか。チベットはなぜ?中国の一部となってしまったのか、中国がなぜ?反日と言われるようになった背景や台湾の歴史や中国の現代史の歴史や戦後の日本の歴史について書きました。読んでもらえると嬉しいです。


下記の画像は台湾の蔡英文総統が12日、「香港の警察が抗議者たちにゴム弾を発射している映像を見て本当に悲しい。香港の人たちへ、自由の要求が聞きいられないように感じているかもしれないが台湾や世界中の志を同じくする友人たちが支持していることを覚えていてください」とツイートしました。↓

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出典: Twiiter [ 蔡英文 Tsai Ing-wen ] [2019年6月12日11時14分] [ https://twitter.com/iingwen/status/1138811906238570501] 

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出典: TIME  [Hong Kong Is on the Frontlines of a Global Battle For Freedom] ( https://time.com/longform/hong-kong-protests/?fbclid=IwAR2Zr5dpg7fTSds5I-HCChbx1gqNZmQq-94YE0RjxaEyaSnpWUey6fmrkcU ) 
出典: ANNnewsCH ( https://www.youtube.com/channel/UCGCZAYq5Xxojl_tSXcVJhiQ)
出典: 日経ビジネス [ 香港デモは「最後の戦い」、2014年雨傘革命との違い] ( https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00002/061300443/ ) 


自分には香港の大切な友達がいます。


その友達と話すごとに香港の情勢を肌で感じながら何もできない自分がとても悔しい気持ちになりました。そんな現状に対して何もできず黙って見ることは耐えられなかったです。香港の友達から『死んだ人達のためにもこの出来事を日本の人に伝えて欲しいと言われました。』


一昔前は、僕は世界史の先生を目指し浪人をして、半年以上アルバイトをしながら予備校になんとか特待生で入れてもらえた勉強をしました。今ではもう亡くなってしまいましたがそこで世界史という学問を通じてたくさんのことを教えてくれた先生がいました。


なので現在香港で行われているデモの背景と中国の現代史や台湾の歴史や日本の戦後の歴史について、間違っている情報があったりしたら教えてください。たくさん検索して、浪人して必死で勉強してた資料をかき集めて記事を書きました。

どんな出来事にもその背景を知られずに亡くなっていったたくさんの命と人生が詰まってます。それは歴史を通して伝えなくてはならないと思うし、自分の中にも刻みこまないといけないと思います。今の日本人にできることは、戦後日本の価値観である民主主義、人権、国民に与えられた自由など、香港人と共通の価値を持っていることを理由に香港人の行動を理解し、共感して、支援して、彼らが大事だと思う、守りたい物を守られるようにまた、この現状に見て見ぬふりをしないように働きかけることではないかと感じます。それは、今後日本が深刻な危機の淵に立ち、望まない価値観や制度の強要を他国から求められ、日本人自ら立ち上がらなければならなくなる可能性に対する、想像力の問題だと思います。香港人は香港にとって大切なものを守ろうと画面越しでソーシャルネットワークなどを使い世界に訴えかけてます。なぜ、若い人や高齢の方も立ち上がっていることを理解する必要があります。


人間は守るべきものがたくさんあると思います。それぞれに正義があるし、悪があります。その歴史を伝えたくて僕は記事を書くことにしました。


歴史学は過去の生きていた人の出来事を今生きている人に繋げることができる大切な学問だと思っています


前半は雨傘運動の背景と香港デモの背景を書きました。

後半は中国の現代史とチベット問題、台湾の歴史について書きました。

大変字数が長い記事になってしまいました。。。。

途中画像の画質が少し悪いところがあるかもしれません。サイトにたくさんのリンクと動画が埋め込まれてます。サイトが重くならないようできる限り画像のサイズの圧縮とサイズの変更をしました。ご了承お願いします。

僕の書いたこの記事を頭の片隅にでもいれてもらえたら嬉しいです。



0.雨傘運動


1997年に香港が返還されてから香港政府のトップである香港行政長官は1200人の選挙委員だけが投票権を持つ選挙でした。親中派が8割以上を占め、香港市民の民意が反映される選挙からは遠かったのです。

天安門事件(血の日曜日事件)から25年が経った、雨傘運動は普通選挙を求めた民主派の香港市民と親中派である香港政府との戦いです。


雨傘運動の全体図を書きます。

香港の憲法に当たる香港基本法は、この制度(香港政府のトップである親中派の香港行政長官だけが投票権を持つこと)について「必要であれば、2007年以降に」改正できると定めていました。行政長官の任期は5年間です。つまりこれまでに2回選挙方法を改める機会がありました。


0-1. 2007年  1度目の戦い


当時の行政長官(董建華氏)の辞任を求めるデモが激化する中で、民主派は普通選挙の実施を求めたが、中国当局は「2007年以降に変えるというのは2007年に変えるという意味ではない」とする基本法の解釈を発表して時間を稼ぎました。


0-2. 2011~2012年  愛国心カリキュラムのボイコット


もともと香港政府は2011年に義務教育に中国中央政府に対する愛国心を教育するカリキュラム(愛国教育)を加えようとしたが学生からは「それは洗脳教育だ」と強い反発があった。黄之鋒(こう しほう)などがリーダを務める。10代学生が結成する学民思潮が大規模デモを行った結果、香港政府はカリキュラムを撤回するまで追い込まれました。


0-3. 2014年6月10日 一国二制度の白書


中国政府は6月10日「香港特別行政区における『一国二制度』に関する白書を発表しました。

内容は香港の土地は香港の土地ではなく、全て中国政府から与えられたものであるという内容でした。一国二制度が有名無実になってしまうのではないかと香港人は危機感を感じました。


白書の内容です。↓

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画像引用サイト: 日本経済新聞 2014年6月26日 [「白書」に揺れる香港の一国二制度 民主派投票に70万人](https://www.nikkei.com/article/DGXNASGM24H08_V20C14A6000000/)
出典: China Government Network [ 《“一国两制”在香港特别行政区的实践》白皮书] ( http://www.gov.cn/xinwen/2014-06/10/content_2697833.htm ) 香港特別行政区における「一国二制度」の実践に関する白書です。


0-4. 2014年8月31日  2度目の戦い


雨傘運動の始まりの年

8月31日に中国政府は新選挙制度を発表しました。一人一票の投票権を市民に与えると言いました。ただしその内容とは、政府(親中派)が認定した指名委員の過半の支持を受けた者のみが候補者になれるという者でした。中国政府は親中派を候補者にあげることが目に見えており、形式だけの普通選挙でした。

これに怒った学生が立ち上がり、大規模なデモに発展しました。

この時に立ち上がったデモの学生の指導者はジョシュア・ウォン(黄之鋒、ウォン・ジーフン)氏です。まだ選挙権をもつ年齢にすら達していない痩せた学生ですが過去最大規模の民主化デモにおける最も有力な指導者の1人です。

ウォン氏は2017年の香港行政長官選挙における公平な普通選挙を目指し、香港の複数の大学で起きた授業ボイコットを指導しました。その運動が学校以外の様々な領域でのストライキや抗議活動の引き金となりました。

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出典: HUFFPOST  [【傘の革命】リーダーは17歳。ジョシュア・ウォンは訴える。「僕たちには民主主義の最前線に立つ責任がある」 ]  ( https://www.huffingtonpost.jp/2014/10/03/hong-kongs-umbrella-revolution-has-a-truly-complex-leadership_n_5930528.html )  


0-5. 2014年 9月~10月


2014年9月26日から、香港の高校生と大学生を中心とした、授業のボイコット及び真の「普通選挙」を求めるデモが香港中文大学内で繰り広げられていた。当初は平和な座り込み、週末からは秩序のある街の占拠が見らました。

この写真は僕の友達の香港人が当時雨傘運動に参加した時に撮ってくれた写真を送ってくれた写真です。↓

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2014年9月28日

警察はデモ隊に対して、何度も催眠スプレーや胡椒スプレーを使い、武器を持たない一般市民を鎮圧しました。催眠スプレーから身を守るためにデモ隊が傘を使ったので雨傘運動と呼ばれるようになりました。

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出典: ハフィントン・ポスト(HUFFPOST) [『睡眠ガスはいらない。もう私たちは泣いている』]  [ https://www.huffingtonpost.jp/2014/09/30/hongkong-demo_n_5905192.html?utm_hp_ref=hongkong-protests ] 

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出典サイト: ハフィストン・ポスト(HUFFPOST) [睡眠ガスに抵抗する人 ] [ https://www.huffingtonpost.jp/2014/09/30/hongkong-demo_n_5905192.html?utm_hp_ref=hongkong-protests] 

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 出典サイト: ハフィストン・ポスト(HUFFPOST) [睡眠ガスを防ぐため、人々は傘をさす] [ https://www.huffingtonpost.jp/2014/09/30/hongkong-demo_n_5905192.html?utm_hp_ref=hongkong-protests] 


0-6. 10月10日 夜


推定で1万5000人を超える人たちがデモの指導者達たちの呼びかけに集まり抗議活動の主要な舞台となっている政府庁舎の向かい側の幹線道路に集まりました。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』[ https://ja.wikipedia.org/wiki/2014%E5%B9%B4%E9%A6%99%E6%B8%AF%E5%8F%8D%E6%94%BF%E5%BA%9C%E3%83%87%E3%83%A2#cite_note-14] 

デモ隊と香港政府は10日に対話を行う予定だったが、デモ隊が抗議活動を拡大させる構えを示したことに態度を悪化させた政府側は対話を見送ることを発表しました。デモの参加者は次第に膨れ上がりました。

デモ隊の先導者たちは演説をし、ネイザンロードには学生による著名入りのメッセージの訴えや、ヒットした「レ・ミゼラブル」の劇中歌「民衆の歌」を広東語で歌ったりしました。民主派は暴力を暴力によって抵抗せず、暴力に対しての反対ジェスチャーとして両手を高く助けを求めました。

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出典: ハフィストン・ポスト(HUFFPOST) [この音楽家たちは、映画「レ・ミゼラブル」で使われた「民衆の歌(Do you hear the people sing?)」を演奏していたという。] [ https://www.huffingtonpost.jp/2014/10/03/hong-kong-protesters-photos_n_5930436.html?1412386491 ] 

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 出典: ハフィストン・ポスト(HUFFPOST) [ネイザンロードに駐車されたバスのウィンドウには、学生による署名入りのメッセージがあった。「ご迷惑かけてごめんなさい。香港が非常事態にあることはご存知のことと思います。どうぞお許しください」] [ https://www.huffingtonpost.jp/2014/10/03/hong-kong-protesters-photos_n_5930436.html?1412386491 ] 


0-7. 徐々にデモは力を失う


11月以降、デモは徐々に力を失い、失敗に終わります。

形式だけの普通選挙すら撤回されてしまい、1200人の委員による間接的な選挙が継続されることになりました。


香港はイギリスからの返還時の取り決めによって高度な自治が認められていると言われるが、法治主義や資本主義はあったけど民主主義はなかったのです。中国の改革派の胡耀邦が中国基本法に書き込んだ文字によって、2007年以降は民主主義を手にすることができるかもしれない」という希望が生まれ、それが裏切られた。これが雨傘革命の実像でした。


胡耀邦とは?

..... 胡耀邦については中国の現代史で説明するのですがとても頭が良かった方です。1987年1月に起きた一月政変で鄧小平に追い詰められ失脚してしまいます。後、胡耀邦の葬儀に集まった学生達が共産党一党独裁を批判するのが天安門事件へと繋がります。





1.現在香港で行われてるデモの背景


雨傘運動の説明をしたので今回アジア史上最大の規模にまでデモの人数が膨れ上がっている香港デモの背景について書かせていただきます。

最初に香港デモの全体像を書いてから詳細の説明を書かせていただきます。


1-1. 香港デモの時系列を追いながら全体像を見ていきます


イギリスと香港返還協定を締結 (1984年に締結、1997年に返還)

→ この協定は、1984年に締結され、1997年7月1日にイギリスから中国に香港の返還が実行されました。

一国二制度の元に50年間の資本主義体制が保障されましたが。(資本主義体制は保障されましたが親中派である香港政府が香港を支配していたので民主主義はなかったのです。)

→ この時、香港は国際条約である中国との犯罪人引渡し条約を完全には締結しませんでした。


2003年 ( 香港政府は一度香港にあるものを壊そうとしました ) 

→ 当時香港行政長官だった董建華氏は、中国共産党の指示を受け、香港の法律を改正しようとしたことがあります。香港市民の猛反発に遭い、撤回を余儀なくされました。


2018年3月13日 ( 台湾で香港人が殺害されました ) 

→ 台湾で香港人が殺害されましたが犯罪人引き渡し条約が適用され、香港で逮捕した犯人を裁くことができず、台湾に引渡しも出来ないため、台湾で殺人罪として裁くことが出来ませんでした。


2019年2月 ( 韓国政府が逃亡犯条例の改正案を提出しました )

→ 香港政府が逃亡犯条例の改正案を提出しました。


2019年3月31日 (1回目のデモが開催されました)

→ 1回目のデモ活動が開催されます。


2019年4月3日 ( 改正案についての1回目の会議 )

→ 改正案についての1回目の会議(第一読会)


2019年4月28日 ( 2回目のデモ活動が開催されました )

→ 2回目のデモ活動



2019年 6月12日 (改正案についての2回目の会議 )

→ 予定通り 第二読会の実地されます。


2019年 6月13日

立法会秘書署の発表により、6月13日は改正案修正の会議は開きませんでした。

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出典: Twitter [ 「逃亡犯条例」の改正を反対」[ https://twitter.com/HKnewsJAP/status/1139008947946344448 ] 


2019年6月15日 (本日)

星鳥政府は、香港政府トップの林鄭月娥行政官が「逃亡犯条例」改正の延期を決めたと伝えました。改正に反対する大規模デモや、警察隊とデモ隊の衝突を受け、冷静に議論するための時間を設けるのが目的で、改正の撤回ではないという。

出典: Twiiter [ 共同通信公式 ] ( https://twitter.com/kyodo_official/status/1139773343408652288?s=21 ] 

撤収とは言ってないので6月16日と6月17日のデモは継続されます。

目標は撤収です。


2019年 6月16日 ( 大規模デモが起きる予定です )

→ 市民団体は午後に市の中心部で逃亡犯条例改正への反対を訴える大規模デモを開催すると発表しました。


2019年 6月17日,6月18日 (香港立法會は逃犯條例(逃亡犯条例)」改正案の審議を来週17日(月)及び18日(火)にも開催しないと発表しました。 )


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出典: Twitter ( https://twitter.com/japanavi/status/1139491443540520960?s=21&fbclid=IwAR2-77leBEYotQdowWMUsD9pvSiPOHSiGcEy7JTHcnMNf6YRn-5BqCpeDRQ) [ 香港立法會は、延期中の「逃犯條例(逃亡犯条例)」改正案の審議を来週17日(月)及び18日(火)にも開催しないと発表。 ] 


1-2. 香港デモの詳細を書いていきます


これから詳細について書いていきます。


1-3. 2003年 ( 返還以来最大の激動の時代 )


香港の2003年は激動の時代でした。

当時香港行政長官だった、董建華香港行政長官は、2009年9月から中国共産党の指示を受け、香港基本法23条を具体的に執行する法令である「国家安全条例」の制定を行おうとしたことがあります。

香港基本法23条とは「香港で国家分裂や反逆などを禁じる条例を制定することを定めた法律」です。その中の条文の中には「香港特別行政区は国家分裂や反逆、国家機密を盗み取るなどの行為を禁じる法律を自ら作る」という一文があります。この条例に基づいた条例を香港政府は2003年に成立させようとしたのだ。もし成立していれば、中国政府に対する批判が罰せられ一国二制度が適用されなくなり事実上中国が独裁していたと思われます

16年経った現在で中国は世界GDP二位を誇る国なのでこのまま香港を強行して独裁してもおかしくありません。



1-4. 逃亡犯条例の改正案の引き金となった香港人女性殺人事件 


2018年3月13日(火曜)香港から台湾・台北市に渡航したまま行方不明となっていた20歳の女子専門学生の遺体が台北市郊外で発見され、19歳の香港人男子大学生が逮捕されました。香港在住の男が休暇で訪れた台湾で妊娠していた交際相手の女性を殺害し香港に逃亡したという事件です。

出典: 香港ジャピオンウェブサイト[台北で香港人女性殺人事件 犯人の引き渡し条約が壁に]


現在の制度(容疑者引渡し条例)では香港にいる人の身柄が中国・マカオ・台湾に引き渡されることはありません。しかし条例が修正された場合、香港から中国本土への容疑者の引渡しが可能になります。

それはつまり、香港にいるのに合法的に中国に香港人を連れ去ることが可能ということです。つまり、修正された場合、香港は中国によって独裁されることを改正案が意味しています


改正案が修正されると香港人はどうなりますか?

「容疑者引渡し条例」が改正されてしまうと、中国の法制度が香港に直接入り込むことになります。

現在の中国の習近平体制では一党独裁を敷いているので、香港で中国政府、または中国共産党に批判を出す者は必ず中国大陸に移送され、不公平な審判を受けることがあります。

雨傘運動の時とは違う空気感を感じているようです。

香港の存亡をかかっている状況なので普段ならデモに参加しない人たちや高齢な方々もデモに参加しています。しかし、親中派の香港政府はデモを無視して条例の改正を進めているのが現在の状況です。


なぜ香港政府はデモを無視しているのか?

1997年にイギリスから中国に返還された時の香港の憲法に当たる、香港基本法は(香港政府のトップである親中派の香港行政官だけが香港で偉い人を決める投票権を持つこと)ができます。なので今回の改正案の最終決定権を持っている香港特別行政区行政長官(林鄭月娥(キャリー・ラム)行政長官)は中央人民政府に任命されたということです。

親中派が8割以上を占め、香港市民の民意が反映されない選挙なので中国政府の思うままにコトが運ばれてしまうのです。。

林鄭月娥行政官は、台湾での殺人事件処理を別にしても、これまで容疑者たちを台湾送還から免れさせてきた法的抜け穴を埋めるために必要だと言います。

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出典:BBC (英国放送協会)   [ 香港デモ72人負傷 行政長官は「組織的な暴動」と非難 ] ( https://www.bbc.com/japanese/48618754 ) 




1-5.デモの実態と香港人と警察官(武警)


2019年3月31日4月28日に二回の抗議デモが行われ、それぞれ12人・13万人が参加しました。


3月31日、1回目のデモの写真です↓

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出典: 時事ドットコムニュース [中国介入、香港民主派憂慮=「逃亡犯条例」改正案めぐり] ( https://www.jiji.com/jc/article?k=2019060800372&g=int&p=20190608at29S&rel=pv )

4月28日、2回目のデモの写真です↓

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出典: AFPBB News [ 香港で「13万人超」デモ、中国本土への容疑者引き渡しに抗議] ( https://www.afpbb.com/articles/-/3223040?pid=21212693 )


天安門事件(1986年6月4日)からちょうど30年後の2019年6月9日に3回目のデモが行われました。参加人数は103万人に達し、香港が返還されて以来、アジア史上最大規模のデモとなりました。


同日夜に香港政府がデモについてコメントを発表し、第二読会は6月12日に行うと強調しました。この行動が香港市民の怒りを招いて、デモ参加者と警察の間に暴力衝突が起こるようになりました。

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画像の出典 : Bloomberg (香港立法会、13日の「逃亡犯条例」改正案審議を見送り) [ https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2019-06-13/PT0QR76JIJUP01 ] 

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画像の出典 : Bloomberg (香港立法会、13日の「逃亡犯条例」改正案審議を見送り) [ https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2019-06-13/PT0QR76JIJUP01 ] 


おそらくですがこの画像のデモ隊に向かう機動隊は中国人民武装警察部隊(武警)だと思います。下記のサイトから引用させていただきました。

人民武装警察は、中国国内の治安維持を担当する準軍事組織です。
通称「武警」と呼ばれています。1983年に人民解放軍から分離しており、建前上は治安組織ですが、実質的に軍との繋がりが強い組織です。人民武装警察は、天安門事件の際、民主化を要求したグループを鎮圧し、死傷者を出しています。また最近では、チベット自治区でも、僧侶や一般住民を鎮圧し、死傷者を出しています。中国国内はともかく、国際的には厳しい批判を受けている組織です。
出典: Beach [中国の特殊部隊について] 2008年4月4日 ( https://www.beach.jp/circleboard/ac83929/topic/1100066473890 ) 



1-5. 国際社会の反応


アメリカ政府機関「中国問題に関する連邦議会・行政委員会(CECC)」が議員の共同書簡を香港の行政長官である林鄭月娥(キャリー・ラム)行政長官)に届けました。

つい先日、いいニュースがアメリカから届きました。ソースはTwitterからですが香港の友達に『この情報は合ってる?』と聞いたら、『合ってるよ』と返信が来たので香港の公式サイトに発表されてるんだと思います。翻訳の内容は以下の通りです。↓

2019年6月14日、米国会議員は香港人権と民主法案の修正について提案ありました。法案では香港の人権と法の支配について支持することを明確に表、アメリカから与えられた香港の特殊な地位を保証する。新法案では逃亡犯条例の為の新要素を追加される予定です。

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出典: Twiiter [ 逃亡犯条例の改正を反対 ] 2019年6月14日 [https://twitter.com/HKnewsJAP/status/1139379063796060160] 


以下の記事は香港でもと世界各地で行われているデモの様子です⬇︎

イギリスの公共放送『BBC』やイギリスの週刊新聞『エコノミスト』アメリカの日刊紙『ニューヨークタイムズ』や各国の著名人のコメントなどがサイトに載せてあります。



イギリスのジュレミー・ハント外相は、香港政府に対し「市民や国際社会の友人たちの懸念に耳を傾け、立ち止まってこの議論を呼んでいる改正について熟慮する」ことを求めました。

アメリカのドナルド・トランプ大統領は、中国と香港は「解決策を見出す」ことができると述べたと、ロイター通信が伝えました。

欧州連合(EU)のフェデリカ・モゲリーニ外務・安全保障政策上級代表は、欧州各国は香港市民たちの懸念を共有していると判明。平和的な集会と意見表明の自由は尊重されるべきだとしました。

出典:BBC (英国放送協会) [香港デモ72人負傷 行政長官は「組織的な暴動」と非難 ] ( https://www.bbc.com/japanese/48618754 ) こちらの記事から上記の文章の引用をさせてもらいました。


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出典: 産経新聞 [ 欧米が懸念する香港自治崩壊 条例改正で「自国民が危険に」と危機感も](https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190613-00000608-san-cn ) 


1-6. 日本人にどう関係するか?


外国人は香港への旅行、出張、留学だけでも影響を受ける恐れがあります。

中国政府は、香港にいる外国人が中国の法律に違反したとしたら、逮捕され中国に引き渡されると説明しました。

私は犯罪者ではないし犯罪を犯していない。

だから、逮捕されるわけがないだろう。

しかし実はそんな簡単な理屈ではありません。

政権転覆同罪というものがあります。

これは騒ぎを起こし、社会に混乱を与えた罪は中国では有名な罪であります。政権転覆同罪の一例を紹介します。

ノーベル平和賞問題という出来事があります。

出典: BBC (英国放送協会) [劉暁波氏――中国が消せなかった人]

ノルウェーのノーベル平和賞委員会は中国の人権運動家の劉暁波に対して受賞を決定しました。(2010年)。しかし、中国政府は同氏の釈放はおろか、妻や親族による授賞式参加も認めませんでした。


ノーベル平和賞問題の背景に何がある?

中国で共産党一党支配を終結させるキャンペーンに関与したと見られ「政権転覆同罪」で有罪判決が下され、服役中にノーベル平和賞の受賞が決定したのですが同氏の釈放は愚か、妻や親族による授賞式参加も認めませんでした。

条例の改正が可決されたら、上記の法律は香港で適用されます。つまり、日本で中国の当時や政府について話し合って、香港にいたら、逮捕されて中国に引き渡される可能性があるということです。


中国に支配された香港政府がこのような時期に法改正を提案したのは中国の勢力を拡大して、より多くの香港に移住する外国人を中国で逮捕するためだと考えられています。


余談ですが、この頃、台湾独立問題がアメリカと中国の間で加熱していましたがアメリカがインド太平洋戦略報告を発表しました。内容はこちらです。

米国防総省は6月1日、「2019年インド太平洋戦略報告書」を発表した。このなかで、米国は台湾について、地域のパートナーシップを強化する4つの「民主主義の国家の一つ」として取り上げた。

出典: ロイター通信社 [台湾と関係強化へ 米国防省、2019年インド太平洋戦略報告を発表]


アメリカの国務省が発表した文書によると、台湾を国家として認めました。

その結果、アメリカは今回の改正案を香港政府が修正して、事実上の中国独裁になると見越したのでしょうか。


1-7. これからなにが起こるのか?


2019年 6月16日,6月17日

市民団体は16日午後に市の中心部で逃亡犯条例改正への反対を訴える大規模デモを開催すると発表しました。17日には立法会周辺での集会も計画している。

出典: 福岡静哉 [ https://mainichi.jp/ch180805944i/%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E9%9D%99%E5%93%89] 



2.話す内容の全体図


これから中国の現代史についての書いていきたいと思います。

世界史の先生からもらったプリントをベースにして説明していきます。

毛沢東が中華人民共和国を建国して行ったこと、なぜ中国は反日と呼ばれるようになったのか、血の日曜日事件と呼ばれる天安門事件のこと、チベットが中国の一部となってしまったチベット問題のこと、台湾の歴史について書きました。

途中日本の降伏について、僕が思うことを書かせていただきました。

これらの歴史的背景がわかると今の世の中の見方が変わるかと思います。

普段なんとなく聞き流しているニュースを違った視点で見れると思います。

一読してもらえると嬉しいです。


まずは全体図からの説明です。

大雑把な図と字が汚くてすみません🙇‍♂️

下記の画像がこれから話す流れの全体図となります。⬇︎

中華人民共和国の成立から中国の歴史を内政史と外交史と分けて説明させていただきます。

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3.戦後の中国の指導者たち


NO1.のポジションの党主席 (1982年以降は党総書記と改称)

NO2.のポジションの国家主席

NO3.のポジションの首相

それぞれのポジションにいた人と年代はこちらです⬇︎(首相はこれからの中国史の説明にあまり出てきません)(周恩来はよく出てきます)


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4.中華人民共和国の権力闘争史のまとめ


現在の党総書記(NO1のポジション)の習近平までに中国は下記の図のように権力闘争を繰り返しました。

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政治と経済の欄にある、一党独裁と開放経済について説明をします。

一党独裁とは?

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%85%9A%E7%8B%AC%E8%A3%81%E5%88%B6) 一党独裁制(いっとうどくさいせい)とは、特定の政党による独裁体制である。非競合的政党制とも。政治学では通常、純粋な一党制のほか、事実上の一党独裁であるヘゲモニー政党制も含まれる。


日本の政党と何が違う?

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%85%9A%E7%8B%AC%E8%A3%81%E5%88%B6 ) なお55年体制における日本のような自由選挙の下で特定の政党が多数を確保し続けることによって成立する長期政権は一党優位政党制と呼ばれ、一党独裁制とは区別される。


開放政策とは?


中国で、1978年から鄧小平を中心として実施された経済政策のことです。毛沢東が社会主義を目指し動いた反対の動きのことです。文化大革命後の経済を立て直すため、経済特別区の設置、人民公社の解体、海外資本の積極的な導入などが行われ、市場経済への移行が推進された。


赤いペンで引かれている人達は政治と経済を独裁体制を敷いて中国を統治しました

緑色のペンで引かれている人達は政治は独裁、経済は資本主義でやろうね。という人達です。

青いペンで引かれている人達は政治も、経済も開放政策でやろうよ。という人達です。


青いペンの思想を持つ方の説明です。

この場合、経済の場合は資本主義を指します。政治の場合は、共産党一党独裁ではなくて、たくさんの政党から市民が選ぼうようという政党です。この派閥の人達はインテリの方が多かったと勉強しました。しかし、インテリの方は政党に批判するなどすると牢屋に放り込まれたり、法で裁かれたりするのでむやみに発言することができなかったと言います。


5.中華人民共和国の成立(1940年~1949年)


5-1 建国


戦後の中国は毛沢東によって作られました。

毛沢東は "新民主主義" を発表しました。(1940年)

→労働者階級の指導のもとに、労働者・農民の同盟を強調し、将来の中華人民共和国の建国方針となりました


彼は戦時中、中華民国において軍閥の統一が取れず、日中戦争の侵略によって中国存亡が危うい中、理念や思想の違うライバルであった蒋介石と手を組み、日本軍に抵抗しました。

→ これを国共合作といいます。国共合作は民族の独立と統一を守るという一点で協力し合ったことで、中国現代史の過程でも最も重要な動きでした。


国民党軍は、正面から日本軍と戦ったために弱体化してしまいました。

一方、共産党はゲリラ戦や後方での戦いを担当しながら、勢力を拡大し、農村地帯を中心に民衆の支持も得るようになってきました。敗退した日本軍から武器を獲得したこともあり、急速に力をつけてきたのです。



5-2.日本の終戦(1945年8月15日)


1945年8月15日、正午に、昭和天皇自ら「玉音放送」を行いました。

第二次世界大戦の一部であった、日中戦争が終わり日本が降伏しました。

また、日本の降伏は国共合作の終わりも意味していました。


1945年8月末に日本軍降伏後も、両軍は一触即発の状況だったので毛沢東と蒋介石による重慶会談を開催し、1945年10月10日に双十協定を国民党と共産党が締結して、一時内戦は回避されました。


5-3. 日本の降伏 (玉音放送の現代語に何を思うか )


「終戦の詔書」(現代語訳)

私は、世界の情勢と日本の現状を深く考え、緊急の方法でこの事態を収拾しようとし、忠実なるあなた方臣民に告げる。              私は政府に対し、「アメリカ、イギリス、中国、ソ連の4カ国に、共同宣言(ポツダム宣言)を受け入れる旨を伝えよ」と指示した。        そもそも日本臣民が平穏に暮らし、世界が栄え、その喜びを共有することは、歴代天皇の遺した教えで、私も常にその考えを持ち続けてきた。   アメリカとイギリスに宣戦布告した理由も、日本の自立と東アジアの安定平和を願うからであり、他国の主権を排して、領土を侵すようなことは、もとより私の意志ではない。                       だが、戦争はすでに4年も続き、我が陸海軍の将兵は勇敢に戦い、多くの役人たちも職務に励み、一億臣民も努力し、それぞれが最善を尽くしたが、戦局は必ずしも好転せず、世界情勢もまた日本に不利である。                                                                                                    それだけでなく、敵は新たに残虐な爆弾を使用して、罪のない人々を殺傷し、その惨害が及ぶ範囲は測り知れない。なおも戦争を続ければ、我が民族の滅亡を招くだけでなく、ひいては人類の文明をも破壊してしまうだろう。そのようなことになれば、私はどうして我が子のような臣民を守り、歴代天皇の霊に謝罪できようか。これが、共同宣言に応じるよう政府に指示した理由だ。                               私は、アジアの解放のため日本に協力した友好諸国に対し、遺憾の意を表明せざるをえない。日本臣民も、戦死したり、職場で殉職したり、不幸な運命で命を落とした人、またその遺族のことを考えると、悲しみで身も心も引き裂かれる思いだ。また、戦争で傷を負い、戦禍を被り、家や仕事を失った者の生活も、とても心を痛めている。これから日本はとてつもない苦難を受けるだろう。臣民みなの気持ちも、私はよくわかっている。けれども私は、時の運命に導かれるまま、耐え難いことにも耐え、我慢ならないことも我慢して、未来のために平和を実現するため、道を開いていきたい。                                私はここに国体を護ることができ、忠実な臣民の真心に信じ、常に臣民とともにある。もし、感情のままに争いごとや問題を起こしたり、仲間同士が互いを陥れたり、時局を混乱させたりして、道を誤り、世界の信用を失うようなことになれば、それは私が最も戒めたいことだ。国を挙げて家族のように一致団結し、この国を子孫に受け継ぎ、神国(日本)の不滅を固く信じ、国の再生と繁栄の責任は重く、その道のりは遠いことを心に留め、持てる総ての力を将来の建設に傾け、道義心を大切にし、志を固く守り、国の真価を発揮し、世界の流れから遅れないよう努力しなければならない。あなた方臣民は、これが私の意志だとよく理解して行動してほしい。

「終戦の詔書」(原文)

朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以(もっ)テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲(ここ)ニ忠良ナル爾(なんじ)臣民ニ告ク       朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其(そ)ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ                           抑々(そもそも)帝国臣民ノ康寧(こうねい)ヲ図リ万邦共栄ノ楽ヲ偕(とも)ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々(けんけん)措(お)カサル所曩(さき)ニ米英二国ニ宣戦セル所以(ゆえん)モ亦(また)実ニ帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如(ごと)キハ固(もと)ヨリ朕カ志ニアラス然(しか)ルニ交戦已(すで)ニ四歳(しさい)ヲ閲(けみ)シ朕カ陸海将兵ノ勇戦朕カ百僚有司ノ励精朕カ一億衆庶ノ奉公各々(おのおの)最善ヲ尽セルニ拘(かかわ)ラス戦局必スシモ好転セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之(しかのみならず)敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻(しきり)ニ無辜(むこ)を殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル而(しか)モ尚(なお)交戦ヲ継続セムカ終(つい)ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延(ひい)テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯(かく)ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子(せきし)ヲ保(ほ)シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ是(こ)レ朕カ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レル所以ナリ                        朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝国臣民ニシテ戦陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃(たお)レタル者及其ノ遺族ニ想(おもい)ヲ致セハ五内(ごだい)為(ため)ニ裂ク且(かつ)戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙(こうむ)リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念(しんねん)スル所ナリ惟(おも)フニ今後帝国ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善(よ)ク之(これ)ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨(おもむ)ク所堪へ難キヲ堪へ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス                          朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚(しんい)シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若(も)シ夫(そ)レ情ノ激スル所濫(みだり)ニ事端(じたん)ヲ滋(しげ)クシ或(あるい)ハ同胞排擠(はいせい)互ニ時局ヲ乱リ為ニ大道(だいどう)ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム宜(よろ)シク挙国一家子孫相伝ヘ確(かた)ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念(おも)ヒ総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤(あつ)クシ志操ヲ鞏(かた)クシ誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克(よ)ク朕カ意ヲ体セヨ
出典: HUFFPOST ( 玉音放送を現代語にすると...「耐え難いことにも耐え、我慢ならないことも我慢して...」【終戦の日】) [ https://www.huffingtonpost.jp/2017/08/14/emperor-broadcasting-decleartion_n_17752858.html ] 


1945年8月15日正午、昭和天皇がポツダム宣言を受諾し、無条件降伏をしました。太平洋戦争の無条件降伏を告げる終戦の詔書をを朗読した音声、いわゆる玉音放送がラジオで全国放送されました。しかし、当時の放送には難解な漢語が使われていたため、当時を知る人からは内容がわからなかったなどの証言も多かったらしいです。


無条件降伏と言いましても武装解除を行ったと言うだけで、講和条約が締結された訳ではないので厳密に言えば終戦ではなく停戦です。日本が本当に終戦を迎えるのは、日本国と48ヶ国でサンフランシスコ平和条約が締結された1952年(昭和27年)4月のことです。

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出典: わかりやすすぎ日本近代史 [ GHQの占領政策 ] ( https://sites.google.com/site/wakarisugi/home/showa/ghq ] 

太平洋戦争の終結から74年を迎えました。

終戦時に10歳だった人は84歳になり、15歳だった人は89歳になるわけです。成人した人で戦争を経験した人が日本から少しずつ少なくなっている状況です。

自分のおじいちゃんは僕が15歳の頃に亡くなってしまいました。おじいちゃんが亡くなってから、戦争のことに興味を持つようになり、おばあちゃんからは当時の戦争の話をたくさん話してもらいました。

庭に穴を掘り、板で蓋をして防空壕を作り空爆から逃れた話や、当時東京都に住んでいたおばあちゃんは山梨県に疎開して疎開先の人達とは話が合わなかったなどの話や戦争に行った父親が殺されてしまった話などを聞きました。

歴史の話をもっとたくさん学ばなければいけないと当時15歳だった僕は強く思いました。

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出典: Yahoo! JAPAN [ 太平洋戦争で、空襲から安全に身を守る方法はありますか?[https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1190230806 ] 


作家で元東京都知事の猪瀬直樹は戦後の日本というのは「ディズニーランド」という一言で表しました。日本の周囲のことはアメリカに守ってもらい、ある種のフィクションの中「夢の国」で楽しく暮らしていたわけです。しかし、もし北朝鮮がミサイルを放ったら日本の最後の砦であるSM-3はミサイルを撃ち落とせるのか?またアメリカも自分達の国のだけを考えるようになりました。

まずはこの背景を歴史から学ぶことが大事なのではないのかと思いました。

1945年8月15日から無条件降伏をした日本は約7年間の間、連合国(主にアメリカ代表)の占領下に置かれ、様々な制約を強制的に強いられました。

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アメリカを中心とする連合国軍総指令部(GHQ)は日本の弱体化、民主化を図る為に様々な政策を行います。

軍国主義を全て廃止させ民主化を進め、戦時中に利益をあげた財閥は全て解散され、小作人に安く渡す農地改革が行われ、地主と百姓の縦社会を壊し、横一列の社会にして、皇室の財産を接収し皇族の縮小をはかり、日本人の宗教自体を禁止し、天皇自ら人間宣言させる事により現在の日本国憲法にもある政教分離を実現させ、これにより帝国主義を廃止させ天皇が政治に携わる事を禁止しました

現人神(あらひとかみ)である天皇に人間宣言をさせ、天皇は神でなく日本の象徴と位置付けました


戦後の大日本帝国憲法は廃止され、日本国憲法が作られました。

日本国憲法はGHQ(アメリカ側)がわずか6日で作り上げたものです。その背景にあるのは、アメリカが中心となり自分達の都合がよくなるように作りました。わずか6日間で作成の背景には、日本側と一緒に作ったことをアピールするために作ったと言われています。

自国の憲法を外国人が作り、公布している国は先進国で日本だけであり、独立後現在に至るまで独自の憲法を作り直さなかったことは戦後日本で大きな失敗の1つかもしれません。


5-4. 国共内戦ふたたび。。


1946年1月、アメリカは特使のマーシャルの仲介で国共停戦協定を締結しました。その結果、国共両党をはじめ多くの少数政党・諸派の代表が重慶に集合して開催されました。(1946年1月)


1946年7月

.... 国民党が国共停戦協定を破棄して内戦が再開されました。

→ 国民党はアメリカの支援を下に攻勢をかけたが、国民党自体の腐敗体質から人民の指示を得られず、じょじょに共産党に敗北していきました。


のちにマーシャルはノーベル平和賞を受賞します。

マーシャル(G.C.Marshall)はもとは軍人で、第二次世界大戦でアイゼンハウアーのもとで対ドイツ作戦に従事して軍功をあげ、元帥まで昇進した。戦後はトルーマン大統領の下で国務長官をつとめ、1947年にヨーロッパの経済復興計画であるマーシャル=プランを打ち出し、それが東西冷戦構造の枠組みを作ることとなった。
朝鮮戦争開戦期の50~51年は国防長官を務め、トルーマンにマッカーサー解任を進言したと言われる。そのため一時マッカーシズムによる攻撃にさらされることとなった。1953年に、ヨーロッパ復興の功績により、ノーベル平和賞を受賞している。 
出典: 世界史の窓 ( https://www.y-history.net/appendix/wh1601-063_0.html ) 


5-5. 国共内戦の終了、中華人民共和国を宣言


1947年、毛沢東が "土地法大網" を発表しました。(みんなにお金をばら撒くよと言いました。これが共産党が国民党に勝因する大きな原因です。)

.... 土地均分策を発表し、農民の指示を取りつけました。

 → 中国共産党軍が優勢となり、中国全土を解放(1949年末)

   → 蒋介石は国民政府を率いて台湾に逃れました。(1949年末)


台湾に逃れた蒋介石は、中華民国政府を成立させました(1949年12月成立)

.... 台湾に逃れた蒋介石の政府は、アメリカの指示で国連の代表権を持ち、国際連合の安全保障理事会の常任理事国になっています。のち台湾の総統は蒋介石の息子であるあ蒋経国が引き継ぎます。(1978~1988年)


台湾北部に設置された蒋介石の像です。↓

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2017年12月6日、台湾の立法院(議会)は5日夜、権威主義的政治体制が敷かれた過去の象徴の一掃を義務付ける法案を可決し、国民党の元指導者である蒋介石(Chiang Kai-shek)の像が撤去されたり、道路や学校などが改名されたりする見通しとなった。
出典: AFPBB News [ 台湾、蒋介石の像を撤去へ 権威主義の象徴一掃目指す法案可決 ] ( https://www.afpbb.com/articles/-/3154445 ) 


人民政治協商会議の開催(1949年9月)

.... 勝利を目前にした中国共産党が北京において開催した会議。蒋介石派を除く諸政党や諸派(国民党左派など)を加えて新政府の方針を決定しました。

→ 中華人民共和国の最高機関として機能しました(1954年まで)


中華人民共和国の建国を宣言(1949年10月1日)  (社会主義の中国が誕生しました)

.... 首都: 北京。 国家主席: 毛沢東、首相: 周恩来。


中華人民共和国の諸外国の承認

ソ連・東欧諸国・インド(1949年)

イギリス(アトリー労働党内閣、1950年)

フランス(ド=ゴール大統領、1964年)

日本(田中角栄内閣、1972年)

アメリカ(カーター大統領、1979年)



6.内政史


6-1. 建国初期 (毛沢東は国づくりは下手でした)


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出典: Yahoo! JAPAN [ 中国、NHK「映像の世紀」の天安門事件場面が真っ暗に…番組が断続的に中断] ( https://blogs.yahoo.co.jp/teripokin/13961214.html ) 


1950年、土地改革法の成立

....  大地主から土地を没収し、農民の土地所有を進める法。

 → 1952年以降、土地改革が進められた。


1953~1957年、第一次五カ年計画 (成功した) 

.... 毛沢東の指導下に農業の集団化・工業化の基礎固めを図った。

 → ソ連の技術援助を受け、目的を達成した。


1958年~1962年、第二次五カ年計画(大失敗した)

主な失敗の原因は毛沢東の失敗・中ソ論争・天災です。

.... 毛沢東が、"大躍進"を掲げて強引に生産の大幅拡大と社会主義の建設をめざした。

人民公社の結成による農業の集団化 (ソ連のソフホーズ・コロホーズ)を真似しました。

・大幅な工業力の増大

→ 工業生産でイギリスを抜くことなどを目標とした。(当時のイギリスは空爆の被害もなく工業生産では2位でした。日中戦争などを経験して、土地が壊滅的な状況になっているのに無茶な目標でした。)

→ 無理な計画(土地製鉄など)、人民の疲弊、中ソ対立によるソ連の技術協定破棄、自然災害などで大失敗しました。

→ 各分野で生産は壊滅しました。(約1500~1800万人が餓死(?))



6-2. 悪夢の大躍進時代


大躍進政策は毛沢東最大の黒歴史でもあり、権力を失う原因にもなり、近代の歴史上稀に見る愚策でありました。

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出典: elken`s blog 雀狩りをしまくった大躍進政策がヤバすぎる [ http://elken.hatenablog.com/entry/2017/03/23/152615 ] 


1950年代の終わりに、大躍進の政策の中でも最も悲惨で何十億もの動物の命を奪うこととなった事件が起こりました。

1958年、毛沢東は四害駆除運動を実地します。当時進めていた農業や工業の大増産を目指した大躍進の政策の一環で、飢饉をもたらしマラリアなどの感染症を媒介する4つの害鳥獣を撲滅しようというものでした。


結果として、20億匹のスズメの命が奪われ、同数のネズミと、100万トンのハエと11トンの蚊の命が奪われました。

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出典:  YouTube [ Great Sparrow campaign 1957 ] ( https://www.youtube.com/watch?v=LjRZIW_hRlM ) 

毛沢東は穀物を育てるために大切なスバメはイナゴなどの害虫を食べるという事実を見逃してしまいました。結果としてスズメという天敵がいなくなり、害虫が大量発生して畑を食い尽くし、中国全土は壊滅的な状況になってしまいました。

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出典:  YouTube [ Great Sparrow campaign 1957 ] ( https://www.youtube.com/watch?v=LjRZIW_hRlM ) 


結果として、中国全土は餓死が多発して食べ物のために子供を売ったりするなどの状況に陥りました。

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出典:  YouTube [ Great Sparrow campaign 1957 ] ( https://www.youtube.com/watch?v=LjRZIW_hRlM ) 


毛沢東がこれだけ好き勝手できた背景とは?

毛沢東がこれだけ好き勝手やった背景には歴代王朝時代から続く素朴で東洋的傾向の残る大多数の人民に対して尊敬できる偉大な指導者像を作り上げることにより、絶対的な精神的支柱である皇帝の代わる存在を提供することも意味していた。なので、中国共産党は自らの内部で毛沢東を皇帝化し、毛沢東が仮に誤った政策判断を下しても党内においてそれを批判できない。という雰囲気を産んでしまいました。




6-3. 廬山会議(毛沢東が少年時代の友人に詰められる)


1959年、廬山会議       読み方 ろざん かいぎ

.... 1958年の中央政治局拡大会議が行われました。

会議は "大躍進" の教訓を総括し、今後の経済政策を討論を討論することに決めていましたが、毛沢東の少年時代の友人である彭徳懐は毛沢東の大躍進を激しく批判しました。

中央政治局拡大会議に出席していた、中央と地方の責任者も彭徳懐に同調し、国家首席(NO2のポジション)を辞任させました。

しかし、党主席(NO1のポジション)の地位はそのままで、死ぬまで手放しませんでした。



6-4. 新政権の成立(1959年) 


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出典: Yahoo! JAPAN [ 中国、NHK「映像の世紀」の天安門事件場面が真っ暗に…番組が断続的に中断 ] ( https://blogs.yahoo.co.jp/teripokin/13961214.html )   


..... 国家首席に劉少奇が抜擢され、また補佐役に鄧小平が就任しました。

この二人は資本主義寄りの経済政策を取っていきます。

鄧小平はとても偉大な方で『 今の中国のあった政策をする』といい就任しました。

→ 調整経済を採用し、"大躍進" の無理を修正し社会主義建設のスピードを緩和しました。(1961年)

→ 生産は復調に向かいました。

しかし、毛沢東はそれを革命の墜落と激しく批判しました。

のちのプロレタリア文化大革命へと繋がっていきます。


6-4. なぜ、生産は復調に向かった背景とは? 


劉少奇と鄧小平はとてもインテリな方達で、政治はまだ混乱しているので一党独裁にして、経済は社会主義から資本主義の(開放政策)にしました。

この結果中国本土のインテリな方の支持があり、順調に中国の経済は復調に向かいました。


6-5. 日本と中国の関係part1 


ここから日本と中国との関係を小分けで説明していきます。

日本と中国との関係についてはこの記事を参考に書かせていただきました。出典: [周恩来と鄧小平(と胡錦濤)は真に偉大な政治家でした ] ( https://ameblo.jp/sofianobara/entry-11988370920.html ) 

また鄧小平は日中戦争で中国の収容所にいる日本人に対し、手厚く遇し、裁判でも一人も死刑にしませんでした。のちのインテリである党主席の胡耀邦は鄧小平を尊敬しました。

鄧小平の行いや周恩来の行いにより、お互いに日中戦争で傷つけ合いましたが日本との友好を唱え融和路線へ突き進みました。彼らはそれによって、日本国から搾取できなかったので自国の利益を損なったでしょうか???

いや、彼らこそが、日本人を本当によく知る政治家でした。日本人は彼らに深い感謝と感銘を受けて、中国の国共合作や第二次五カ年計画でボロボロになってしまった土地を無償で援助しました。

彼らは日本人の人間性を信頼することで、日本と戦争していた時と比べ、日本からはるかに多くのことを教えてもらい、受け取ることができたのです。それどころか人間としても政治家としても、周恩来と鄧小平は多くの日本人に感謝され、尊敬されました。

事実彼らのおかげで1972~1980年代(鄧小平が復活し、実験を掌握するのですがその時は中国と日本はとても良好な状態だったのです。)

しかし、「天安門事件」によって日本と中国との関係は真逆の方向に進みます。この話は天安門事件の説明が終わったら説明します。


6-5. 国を壊したプロレタリア文化大革命(1966~1977年)


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出典: HUFFPOST( https://www.huffingtonpost.jp/2016/05/28/these-vintage-propaganda-posters_n_10176520.html) [ 中国は、プロレタリア文化大革命の時代に毛沢東を称える数多くのプロパガンダ用ポスターを発行した。このポスターには「世界革命人民の中心、赤い太陽の毛主席 万歳!」と書かれている ] 


プロレタリア文化大革命の概要


1966年5月16日 プロレタリア文化大革命の開始

.... 毛沢東が復権を目指して劉少奇政権の打倒を画策した。

  → 学生が中心に紅衛兵が組織されて学園闘争が開始されました。

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出典: Yahoo! JAPAN [ 中国、NHK「映像の世紀」の天安門事件場面が真っ暗に…番組が断続的に中断 ] ( https://blogs.yahoo.co.jp/teripokin/13961214.html )   


→ 毛沢東の意をうけた林彪(毛沢東のイエスマン)が暗躍し、紅衛兵(中学生や高校生)によって知識人・文学者・芸術家などが次々と襲われた。 ↓

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出典: Yahoo! JAPAN [ 中国、NHK「映像の世紀」の天安門事件場面が真っ暗に…番組が断続的に中断 ] ( https://blogs.yahoo.co.jp/teripokin/13961214.html )  

 → 劉少奇・鄧小平らは資本主義をめざす "実権派(走資派)" として党内部で批判された。

  → 劉少奇国家主席失脚しました。(1968年、以降1983年まで国家主席は空席)


プロレタリア文化大革命の背景


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出典: Yahoo! JAPAN [ 中国、NHK「映像の世紀」の天安門事件場面が真っ暗に…番組が断続的に中断 ] ( https://blogs.yahoo.co.jp/teripokin/13961214.html ) 

毛沢東は資本主義化による封建的政治腐敗を正し、人民による社会主義文化を創り上げるという大義名分は、当時の多くの若者や労働者たちの心を掴みました


当時の紅衛兵の証言により「かつての父たちが成し遂げた革命に我々の世代は参加できなかったが目の前に「革命」が現れたんだ」

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出典: Yahoo! JAPAN (中国、NHK「映像の世紀」の天安門事件場面が真っ暗に…番組が断続的に中断 ) [ https://blogs.yahoo.co.jp/teripokin/13961214.html ] 


中央政府からの『資本主義は悪だ、社会主義こそ正義なのだ』などの呼びかけに答えて、学生たちは大学側に反旗を翻し、農民は地方政府への反乱を起こしました。全国の学生や若者たちがこの動きに同調して、紅衛兵と呼ばれる民兵組織を作りあげ、文化的遺産を壊してこの国の歴史的文化遺産を全て破壊し尽くそうしました。

彼らは仏像を破壊し寺に火をつけ、書や陶器を踏みつけた。また、文革に批判的な大人を「反革命分子」と呼んではつるし上げ、首からプラカード、頭に三角帽子を被せては市中を引き回した。


多くの知識人や政治家たち(インテリの人たち)を迫害しました。インテリの人たちは資本主義を支持していました。

紅衛兵はだんだん歯止めが効かなくなり、最終的には紅衛兵同士で派閥争いしてしまうようになり、中国は内戦に近い状態になりました。

文化大革命の10年で迫害、自殺などによって失われた命は数百万とも数千万とも言われます。



中国共産党第九大会(1969年)

中国共産党第九大会は1969年4月1日に北京で盛大にひらかれた。中国共産党第九回全国代表大会は、毛主席のみずからおこし指導しているプロレタリア文化大革命が偉大な勝利をおさめたときにひらかれた。この偉大な革命は、政治、思想、組織の面から今回の代表大会のために十分な条件をととのえた。
出典: 北京週報日本語部                                                                    午後五時、毛主席とその親密な戦友林彪同志が主席台にあがった。満場にあらしのような拍手がとどろき、しばし鳴りやまなかった。代表たちはきわめて熱烈に、「毛主席万歳!」「毛主席のご長寿をいのります!」「中国共産党万歳!」「プロレタリア文化大革命の勝利万歳!」「無敵の毛沢東思想万歳!」と歓呼した。 


.... 毛沢東が完全に実験を回復した出来事です。

・劉少奇は除名され、そのあと精神的に毛沢東と林彪に度々追い詰められた劉少奇は肉体的・精神的に3年間耐え、1969年11月12日劉少奇は死亡しました。

・毛沢東はもう年も年だったので次の後継者として、毛沢東のイエスマンの林彪を指名しました。


劉少奇が毛沢東と林彪に追い詰められる様子が細かく書かれています。⬇︎



6-6. 九・一三事件(1971年)


林彪事件

.... 1971年7月、毛沢東のイエスマンだった林彪は毛沢東暗殺のクーデター計画に失敗した林彪がソ連への逃亡を図り、モンゴルに墜落死したとされる事件だ。ケネディ暗殺に匹敵するほど謎の多いい事件だったと言われています。


四人組

.... 四人組(江青・王洪文・張春橋・姚文元)が毛沢東の権威を使って実験を把握しました。




文化大革命の最中に起きた九・一三事件の四人組に裁判が言い渡された記事です。江青は元女優であり、なんと毛沢東のお嫁さんです。

1981年1月25日、文化大革命を推進した「四人組」らが政府転覆などの罪に問われた裁判の判決が中国最高人民法院(最高裁)であり、毛沢東氏の元妻で元党中央政治局員の江青氏、元副首相の張春橋氏に執行猶予付きの死刑判決が言い渡された。出典: 日本経済新聞 [1月25日 中国で「四人組」裁判、江青氏らに死刑判決] 2019/1/24付 夕刊     


6-7.毛沢東体制の終焉


周恩来の死亡(1976年1月)

建国の母と呼ばれ、中国人民からまた日本人からも敬愛された周恩来はガンで死亡しました(1976年1月)

.... 周恩来は中華人民共和国が建国されたから首相(NO3)のポジションにいた人です。


毛沢東の死亡(1976年9月9日)

四人組の追放(1976年10月)

.... 華国鋒首相が実行しました。(おそらく毒殺であると言われています)



6-8.鄧小平が復活( ここから経済解放時代 )


1977年、鄧小平が復活、以後影の実力者として中国共産党を掌握します。 (中国の市民は生きていないんじゃないかと思われていましたが建国の母周恩来が守っていたそうです。)

.... 鄧小平は『白い猫でも黒い猫でもネズミをとればいい!』と言いました。この言葉の意味は(効果があれば資本主義でも社会主義でもなんでもいいという意味です。

.... "四つの現代化" を提唱し、改革開放政策を主張した。

   → "四つの現代化" (農業・工業・国防・科学技術の近代化)

   → 経済特区 ( 外国資本を導入して合弁企業を作るために指定された経済的に特別待遇の地区のこと。広東・福建の4都市と海南島 )


改革開放政策の開始(1981年) ( ここから中国経済は発展していきます ) 

  .... 党主席(NO1)に胡耀邦が抜擢されました。(党主席の名称は1982年以降は党総書記と改称されます。)

  .... 1985年、人民公社の解体(事実上の農地の私有化)


鄧小平が始めた「改革開放政策」は市場原理や外資導入を目指していくもので毛沢東が築いてきた社会主義路線とは一線を画すものでした。


改革開放政策の背景に何があった?

この大胆な路線変更の背景には、鄧小平に、毛時代の停滞への焦りがあったのと、国連に中国代表団長としてニューヨークを訪れたときの驚き、さらには、日中平和友好条約で来日した際の日本の発展ぶりへの驚きなどがあったそうです。

鄧小平は自由主義要素を導入しつつ、天安門事件(1989年)では学生達が共産党一党独裁を批判した時に弾圧した、これらは矛盾に見えるが

経済がボロボロの今、政府は自分達が管理するから経済の安定が定着するまで待ってほしい、とのメッセージがあったのかもしれないと思いました。


6-7.一月政変(1987年1月)


.... 突如胡耀邦が失脚。(その背景には改革解放政策をどの程度まで進めるかで鄧小平と対立しました。)


鄧小平は、政治は一党独裁 経済は解放政策

胡耀邦は、政治は解放政策 経済も解放政策

だったので対立したのだと思います。

→ 党総書記に趙紫陽が抜擢されました。


6-8.天安門事件(血の日曜日事件)  1989年6月4日


天安門事件の概要


一月政変によって政治経済改革を主張して、失脚した胡耀邦氏が、4月に急死してしまいそれがきっかけとなりました。

1989年の北京の春に中国各地では都市では民主化要求デモが起こりはじめました。(民主化要求デモ、現在の香港デモと同じですね。)

たちまち、大規模なデモになり、北京では最大100万人が天安門広場に流れ込み、たくさんの旗をひらめかせ、公共の場を支配しました。

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出典: BBC JAPAN [【解説】 天安門事件30周年、中国の一大「忘却」事業 ] ( https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-48494268 ) 

胡耀邦の死に群衆・学生が北京にある天安門広場に集まりました。

このデモをみた、中国の党主席である趙紫陽は、鄧小平と対立しました。

趙紫陽は学生に向かった「主君の気持ちはわかる」と言いかけましたが鄧小平による弾圧で趙紫陽は失脚し、1983年6月3日の深夜から早朝にかけて本格的な武力攻撃が広場で展開されました。戦車と兵士の隊列が進軍し、抗議集会に実弾を浴びせ続けました。


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 出典: [ 香港語が読めなかったのでリンクだけ載せます[ https://www.hk01.com/%E7%A4%BE%E6%9C%83%E6%96%B0%E8%81%9E/140801/%E5%85%AD%E5%9B%9B%E5%AF%86%E6%AA%94-%E8%8B%B1%E5%BC%95%E4%B8%AD%E5%9C%8B%E5%9C%8B%E5%8B%99%E9%99%A2%E6%88%90%E5%93%A1-27%E8%BB%8D%E6%8E%83%E5%B0%84-%E5%AD%B8%E7%94%9F-%E5%A3%AB%E5%85%B5%E7%9A%86%E4%B8%AD%E6%A7%8D ] 


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出典: courrier (1989年6月4日未明の長安街 Photo: Peter Charlesworth / LightRocket via Getty Images) ( https://courrier.jp/columns/163131/

あの夜に何人もの人達が命を奪われたかはわかりません。死者の公式人数は一度も公表されてません。

当時の書かれた外交文書では少なくとも1万人という高い数字を挙げています。

国を守るための軍隊が、自国の首都において侵略軍となった瞬間は決定的な転機だった。そして、あの瞬間に訪れた変化は今も、言葉にならない無数の形で、現代の中国に残り続けています。


6-9. 天安門事件は闇に隠された


香港の友達に聞いたところ、天安門事件については検索サイトにも出てこないそうです。(ちなみに香港人の友達は天安門事件のことを64と読んでいました。)

出典: YouTube [ 天安門事件から30年 中国が忘れた映像 ] (  https://www.youtube.com/watch?v=wltmIRW57Z8 ) 

1984年6月4日におきた天安門事件からちょうど、30年後に現在香港ではアジア史上最大のデモが起こっていますね。これは偶然ではなく、必然なんではないでしょうか?天安門事件の全貌について書いていきます。


中国では天安門事件を忘れさせようとしている取り組みがたくさんあります。この動画を見てもわかるように中国人の方に天安門事件のビデオを見せても「知らない」と言います。知っていると言ってしまった場合、拘束され、最悪刑務所に入れられる可能性があるかもしれないからです。


世界最大の検閲システムは、自動アルゴリズムと数万人の検閲官がインターネットを徹底的に調べてまわり、天安門事件に関するありとあらゆる言及を削除しまくりました。どれほど間接的にぼかした表現でも容赦はしません。


天安門事件から30年が経った2019年6月15日、香港では明日の16日,17日に大規模なデモが起きると予想されます。

第二の天安門事件になってはならないと思います。

中国の上の世代は記憶を無くすことを強いられ、若い世代はネットで検索しても出てこないので知ることも許されない中国の現状を少しでも分かっていただけたでしょうか?


香港の人達は、僕達の画面越しで戦っています、訴えてます。

僕達は画面越しにその状況を見て、傍観するだけではいけないと思います。

どうか心の片隅にでもこのような出来事があったことを心に留めておいてください。そのために僕は文章を書きました。




6-10. 日本と中国の関係 part2 


1つには、1990年代に入って江沢民は「天安門事件」の闇を国民から消してしまうため、極端に「反日教育」を利用するようになりました。その影響は凄まじく、親日的だった中国国民は、一気に反日に変わってしまったのです。また、日本国内の反日左翼の人々による「30万人の南京大虐殺」などの歴史捏造が、江沢民の反日教育に大いに利用されたことも確かです。

2000年代に胡錦濤は、周恩来、鄧小平に習って、日本との関係修復しようとしましたが果たせず、2010年代に入ると日中関係は尖閣諸島問題によってますますこじれました。(2012年に日本が国有化)

習近平はライバルである胡錦濤を表舞台から蹴落とすために、あの手この手で国民の反日感情に焚きつけて、各地でデモや暴動を誘導しました。そして、権力を握っても貧富の格差への不満を逸らすために反日意識へと怒りを誘導させました。

周恩来、鄧小平、胡錦濤は、多くの日本人の尊敬を受けましたが、江沢民・習近平は、多くの日本人の忌避するところとなっており、一部では憎悪の対象となっています。

2012年の反日デモなどはこれらの歴史的背景の原因から、なぜ?『中国は反日だ!』と言われるようになったかは理解できるかと思います。


2018年度に発表された中国での人気旅行先は1位は日本であり、多くの中国人は日本をリピートしているということも分かってますので、中国の人達も日本を反日と言っている政府について理解があるのではないかと思っています。



6-10. 江沢民体制の成立


..... 第13回中国共産党全国代表大会で江沢民が党総書記に選出され(1989年)、さらに国家首席に就任しました。(1993年)

   → 影で中国共産党を指揮していた最高権力者の鄧小平が死亡しました。(1997年)

   → 首相に朱鎔基を抜擢し改革解放政策をますます推進しました。(1998年)


6-11. 胡錦濤体制の成立 ( 北京オリンピックやノーベル平和賞問題など)


..... 第16回中国共産党全国代表大会で胡錦濤が党総書記に選出され(2002年)、さらには翌年には国家主席に就任しました(2003年)

   → 改革解放政策の継続によって高度経済成長に成功しました。 BRICs(ブラジル・ロシア・インド・中国)といわれ、オバマ政権との対話を通じてG2体制の成立も視野に入ってきました。

   → 北京オリンピックを開催(2008年)上海万博(2010年)を開催しました。

   しかし一方でチベット問題の再燃(2008年、亡命中のダライ=ラマ14世との対立)や沖縄県の尖閣諸島問題(中国名は釣魚島。2012年に日本が国有化)などの外交上の問題に加え、国内の貧富の格差の拡大に対する不満の増大が著しく政権は不安定でした


6-12. チベット問題の背景とは? ( 今回の香港デモでも同じことになるかもしれません ) 


以下の文章を参考に書かせていただきました。

チベット問題の記事を参考してたところわかりやすく心が打たれた記事でした。

出典: 【5分でわかる】チベット問題とは? ( http://sekayume.com/?p=2912 )  Twiiter @inu_gao


チベットとは中国の南西部にある地域です。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%99%E3%83%83%E3%83%88 ) 

かつては一つの国として認められていましたが今では国として認められていません。現在は中国の一部の自治区となっています。


日本がいきなり中国の一部になったり、アメリカの一部になることは考えられますか?またチベット問題は今回の香港デモと同じような事態になってしまうかもしれません。


チベットではこのようなことが起こりました。


2008年に大規模な暴動が起こりました。

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チベットの様々な問題は「チベット問題」と表現されます。

チベット問題は大きく「独立問題」と「人権問題」に分けられます。

その二つを書いていきます。


6-13. チベットの「独立問題」


チベットの歴史の全体像から説明していきます。

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中国がチベットにこだわる理由とは?


→ 立地的にインドと戦う上でちょうどいいから                                → レアメタルをはじめ多くの鉱山資源がとれるから                              → 現在は中国の核廃棄物処理場や核ミサイル実験場になっているから


チベットは土地の標高が高く、インドと戦うのに立地で好条件なのとスマートフォンなどに使われるレアメタルが取れることなどから理由が挙げられます。

チベットはインドと隣接していて標高が高いところにあります。またインドに流れるインダス川やガンジス川の上流があります。もしこの川をせき止めたらインドはどうなるでしょうか?



チベットの主張

独立を求める、チベットの最高指導者であるダライ・ラマ14世は1987年に「チベットに関する五項目和平案」を次のように提案しました。

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この和平案には5つの項目があります。


1. チベット全土を平和地帯とすること

2. 民族としてのチベット人の存在を危うくする中国人の大量移住政策の放棄

3. チベット人の基本的人権と民主主義自由の尊重

4. チベットの環境の回復と保護。中国がチベットを核兵器製造及び核廃棄物処分の場所として使用することの禁止

5. 将来のチベットの地位、並びにチベット人と中国人の関係についての真摯な交渉の開始

出典: ダライ・ラマ法王日本代表部事務所 [ http://www.tibethouse.jp/cta/policy/peace/ ] 


多くのチベット人は自由を求め、他の国々に亡命しました。

なぜ、チベット人は亡命する必要があったのか?

次に人権問題について書いていきます。


6-14. チベットの「独立問題」


ダライ・ラマ法王日本代表部事務所のHPをにはこんな文章が載せてありました。


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これは今回香港で問題となっている、一国二制度の適用がなくなってしまったら、香港もこのように中国に支配されることを過去の歴史から読み取れることがわかります。


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中国から妊娠することで罰金が取られる法律が作られていました。


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なんの証拠もなく、強制的に税金を払わされて、お寺の周りを歩くまで税金が課せられているのが現状です。


これらが人権問題です。


今回の香港のデモは、一度は改正案修正がストップされましたが、雨傘事件や中華人民共和国の歴史から読み取れるように、中国が香港を諦めるわけないと思います

今回僕が書いた記事の内容を読んだくれた方は、頭の片隅でもいいのでこのような歴史的背景があることを残しれもらえれば嬉しいです。



6-15. 習近平体制の成立


..... 第18回中国共産党全国代表大会で習近平が党総書記に選出され(2012年)、さらには翌年には国家主席に就任しました。(2013~2019年現在 )


7.外交史


ここから中国の外交史について書いていきます。

こんなことが中国あったんだなと頭の片隅に入れてもらえたら嬉しいです。


7-1.中ソ友好時代


1950年 中ソ友好同盟相互援助条約の締結

1950年~1953年 朝鮮戦争

.... 中華人民共和国の義勇軍を派遣してアメリカ軍に対抗。


7-2.第三世界の形成


1954年 ネール・周恩来会談

   .... "平和五原則"を宣言しました。


1955年  第1回アジア・アフリカ会議(バンドン会議)に参加

インドネシアのバンドンで開かれました。

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こちらの画像はサイトからスクリーンショットしたものです。引用サイト: マナペディア(アジア=アフリカ会議(バンドン会議)が開かれた背景とその後の影響) [ http://manapedia.jp/text/1914 ] 

バンドン会議の参加国です↑


この会議には、インドのネルー、中国の周恩来、エジプトのナセルインドネシアのスカルノなど、新興国の重要な指導者が参加しており、新たに平和十原則がつくられました。 

こうして、冷戦構造の中に、米ソ両陣営のどちらにも属さない第三勢力が誕生し、その後の「雪解け」という冷戦の解消に重要な影響を与えました。


7-3.中ソ険悪化時代


1956年  中ソ対立の開始

.... フルシチョフによる"スターリン批判"(1956年)に対して、毛沢東は対米決戦を主張して対立した。


中ソ対立の背景にはなにがあった?

1958年にソ連の元首であるフルシチョフが当時激しく対立していたアメリカに対して、軍備を縮小しこれからは平和共存して行く事を訴える演説を行います。また、翌年にはフルシチョフがアメリカを訪問し、アイゼンハワー大統領と会談し、平和共存を誓い合いました。

これに同じ社会主義国としてソ連と共に反アメリカを唱えてきた中国は激しく反発します。理由は、中国共産党の仇敵であり、台湾へ逃れていた国民党を強力に支援していたアメリカへソ連の国家元首が赴き、よりによって手を取り合おうなんていうソ連の姿勢に激しい裏切り感を覚えた為です。

引用サイト: Yahoo! JAPAN [ 冷戦期の中ソ対立は何が原因だったのでしょう] (https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1095242605 ) 上記の文引用させてもらいました。


この頃からアメリカと中国は台湾を巡って争っていたことがわかります。

下記のサイトがとてもよくまとまっています。↓


1959年  中ソ技術協定破棄

..... ソ連が一方的に通告し、ソ連の技術者を引き上げた。(この協定の破棄により中ソ対立が表面化したことがわかります。

..... 極東の小島をめぐる中ソ国境紛争

ウスリー江に浮かぶダマンスキー島(珍宝島)で中ソ両軍が激突した事件(1969年3月2日)が最大のものでした。


7-5.独自路線の開始(核兵器保有の宣言など)


1964年 フランス(ド=ゴール政権)と国交正常化

1964年   核兵器の保有を宣言


7-6.国際社会への復帰


1971年 中国の国連代表権交替

.... 国際連合総会で決議(アルバニア案)

中華民国政府代表を国連から追放し、中華人民共和国が国連の代表権を獲得し、そのまま常任理事国となった。


1972年 ニクソン大統領が突如訪中

.... そのあと米中国交正常化


1979年 中越戦争

..... カンボジアを巡ってベトナムと戦闘状態に入り、ベトナムを支援するソ連と激しく対立した。


7-7 イギリスと香港返還協定を締結 (1984年に締結、1997年に返還を実行)

..... 一国二制度の下に50年間の資本主義体制が保障されました。


8.台湾(中華民国)の歴史


これから台湾の歴史についても書かせていただきます。

台湾の指導者は、国共合作で毛沢東に蒋介石が敗れ、蒋介石の息子の蒋経国総統が台湾を支配することから始まります。


任1978~1988年 蒋経国総統  読み方 しょうけいこく

..... 蒋介石の息子。中国共産党による台湾支配がつづいた。

社会的には蒋介石と共に大陸から移住してきた外省人と、それ以前から台湾に澄んできた本省人との対立があったが、中国国民党はそれを強引に押さえつけ、普通語教育、中間文化の奨励などを通して台湾の中華化を目指しました。


外省人と本省人の違いとは?

歴史的経験で比較するならば

本省人は日本の当統を受けて日本人として太平洋戦争を戦い

外省人は中国大陸で日本と戦ったという決定的な違いがあります。



任1988~2000年  李登輝総統  読み方 りとうき

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引用サイト: WEDGE Infinity (「一滴の血」も流さなかった李登輝の台湾民主化を陰で支えたもの) [ http://wedge.ismedia.jp/articles/-/15435 ] 


..... 蒋経国の死去にともなって服総統から昇格。中国国民党首席。

台湾出身(本省人)の初めての総統。京都大出身の親日家でもある。

中華民国が掲げ続けてきた "反攻大陸" のスローガンを下ろし、北京政府との内戦状態の一方的終結宣言をおこないました。

→ 自国を「台湾中華民国」と呼び、"二つの中国" を主張しながらも中国との関係を良好化しようと尽力しました。

→ また国内政治では治安法を廃止させ、政治の「民主化」を推進させさらに経済発展についても大きな成果を上げました。


蒋経国がなぜ?本省人である李登輝を自分の服総統に選んだのか。蒋経国と李登輝の物語がこの記事によく書かれているので読んで欲しいです。↓


2000年  台湾の政権交代 

..... 総統選挙で野党の民進党が勝利し、半世紀にわたる中国国民党の支配に終止符を打った。


任2000年~2008年 陳水扁  読み方 ちんすいへん

..... 民進党出身の総統。中華民国の独立維持を強く主張し、中国との関係を悪化させた。経済政策も順調でWTO(世界貿易機関)にも加盟した(2002年)


任2008年~ 馬英九  読み方 ばえい きゅう

..... 総統選挙で再び中国国民党が勝利し就任した。


9.参考にした文献
















10. 著者


ここまで読んでもらいありがとうございました。

誤字や脱字、また間違っていることを記載しているかもしれませんので僕のSNSのアカウントを載せときます。

間違っていることがあれば教えてください。


最後に僕の好きな言葉を紹介します。


瞬間の集積が時間であり、時間の集積が人生であるならば、私はやっぱり瞬間を信じたい。SAFEでもSUTABLEでもない人生で、長期展望にどんな意味があるのでしょうか。                        出典: 江國香織 [泳ぐのに、安全でも適切でもありません ] ( p221 ) 


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