悪の行方は知れず、正義は存在しない

時代がそう要請するからというありきたりの回答しか用意できそうにないのだが、どういうわけか、この春この国では、単純な二項対立ではとらえきれぬ曖昧な色合いを帯びた、しかしはっきりおもしろいといってしまいたくなる2本の映画が公開されている。『正義の行方』(木寺一孝、2024)と『悪は存在しない』(濱口竜介、2024)がそれらにほかならない。

『正義の行方』は、1992年に福岡県飯塚市で起きた女児二名殺害事件を三者の視点から辿ったドキュメンタリー映画である(元はNHKスペシャルだったという)。「飯塚事件」と呼ばれるこの事件では、ごく早い捜査段階において犯人と思わしき男が逮捕されたものの、状況証拠ばかりが積み上がり、直接証拠がないまま、即ち疑惑の色が拭えぬまま2006年に死刑が確定、のちに執行されてしまう。個人の思惑を超えた国家の影が暗さを滲ませるこの一件は、冤罪と死刑というテーマからいまなお振り返られ、連続TVドラマ『エルピス―希望、あるいは災い―』(関西テレビ放送、2022)にも材を与えている。しかし、複数の主題を抱えつつも基本的には犯人が誰であったかを追うフーダニットの体裁を取っていた『エルピス』とは対照的に、『正義の行方』は、むしろ結果的には直接証拠もないまま死刑まで持ち込んでしまう司法制度の恐るべき在りようを浮き彫りにしてゆく。先述の三者とは、刑事、ジャーナリスト、弁護士を指すのだが、ときに力強く、ときに後悔の色が濃い彼らのポリフォニックな語りが――実は裁判官ら司法に携わる面々の出演はいっさいないにもかかわらず――かえって事件の底知れなさを露呈させるのである。
特筆すべきは、実に158分という破格の上映時間を持つこのドキュメンタリー映画で、人々の〈顔〉が極めて魅力的に記録されていることだろう。なにせ約30年前の事件だから、当時の関係者はみな一様に壮年かそれ以上の年齢を迎えている。こういってよければ、彼ら彼女らの顔つきには、そこいらの職業俳優には出せぬほどの時間が刻まれているのだ。終盤、悔悟の弁を漏らすある人物の、あの物憂げな表情はどうか。言葉を詰まらせるさまは、『SHOAH ショア』(クロード・ランズマン、1985)でも特に名高い理髪師の沈黙にも比すべき瞬間だといえよう。
後年になって事件を再調査したジャーナリストの一人は、犯人と目された男性が取り調べで黙秘を貫いたのは事実だと冷静に指摘しながら、事後的な観点からこうもいう。真実なんてものは立場によってどうとでも見え方が変わる、と。要するに、正義は玉虫色に過ぎないのであって、見る人がどこに重きを置くか次第なのだ。劇中何度も挿入される森の俯瞰ショットは奥行きが詰まり、不気味なほど細密な木々の枝葉がロールシャッハテストのように不定形な、しかしそうであるがゆえにいかようにも解釈可能な大伽藍を象嵌する。

この森を真下から見上げるのが、『悪は存在しない』である。結末で発生する唐突なアクションから振り返ってしまえば、呑み込めるようで呑み込めない、とはいえこの当惑こそがやはり象徴的なのではないかと思わせるタイトルだが、ファースト・ショットとラスト・ショットが森の仰角ショットで対応していることから、善悪の彼岸に存在しているような自然の超越性が核にあることはまず間違いないだろう。傍証として、同一素材から異なる編集プロセスを経て生まれた『GIFT』(2023)が、動物の骸のショットに始まり巧(大美賀均)が森に消えてゆくロング・ショットで閉じる対応関係――死と死――を挙げれば、『悪は存在しない』がいかに自然の主題に重心を寄せているかはいっそう明らかだろう。
物語上も、その重心が鍵を握る。巧が説明会で口にする「大事なのはバランスだ」がまさにそれである。『GIFT』で同様のセリフがあったかどうか定かではないのだが、音声を得た本作では大美賀の朴訥とした零度の声も相まって印象深い。
正義/悪、真実/虚偽の二項対立が自明のものでなくなり、かつ両者が互いに喰い合うようにすべてが相対化されてしまった現代は、途方もなく昏い時代だろう。善も悪も過去も未来もない堕落しきった現代に絶望しきっているノーランの映画がこうも世界中で見られているのはやはり間違っているとの思いを強くせざるを得ないのだが、一つだけいえるのは、この曖昧さに甘受することなく、ただ事実と伝説を見極める眼力を養わなければ残りの21世紀を生きることは難しくなるだろうという昏い予感である。

蛇足。
『悪は存在しない』のラストをどう評するかは意見の分かれるところであろう。急激な転調は、濱口の過去の作品(『永遠に君を愛す』、『PASSION』、『寝ても覚めても』)にもしばしば現れていた事態であるから、そのことに特別驚く必要はないように思う。
問題は見終えたあとに〈私〉が抱く感覚なのである。つまり、どういえばいいのだろうか、なんとなく見る前よりいい人間になった気がするのだ。説明会のシークェンスで芸能事務所の連中に見ているこちらも腸が煮えくり返ったかと思いきや、直後、村へ向かう社員二人の心の裡や私的な事情を聞いてしまえばその怒りがぼんやりと同情へ変容してしまい、最終的にはそのような心理的因果関係を超えた強烈なアクションが一発見舞われることでこうなったらあとは私が考えるしかないのだと勝手に使命感を覚えてしまう。作家は聡明にもボカしているが、おまけにこれは環境問題を扱う映画でもある。
ただ見ただけの観客をいい気分にさせる。なんと是枝映画であることか。

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