窓の向こう側(前編)

 きっと、惚れた異性に初めて告白するときにはこんな気分になるに違いない。
 絵のモデルになってくれないか、ただその一言を絞り出すのに随分勇気が要った。
「モデルって……」
「いや、ヌードとかじゃなくて、普通に座っているだけでいいから」
 慌てて早口で付け足した言葉は空回りした気がした。俺はさぞ滑稽な顔をしていたのだろう。そんな俺の様子が可笑しかったのかもしれない。斉藤ははにかみ半分、微笑んで言った。
「ええ、構いませんよ。少し恥ずかしいけど」

 斉藤マコトは一学年下の後輩だ。一人称は「ボク」。高校生にしてはどこかあどけなさが残る雰囲気を漂わせている。美術部のメンバーではないが、一年生の頃から放課後の美術室によく出入りしている顔なじみである。斉藤自身はどの部活にも所属していない。もともとは斉藤のクラスメイトが美術部員で、その縁で美術部に顔を出していたのだが、当のそいつはいつしか籍だけおいた幽霊と化してしまい、めっきり来なくなってしまった。斉藤の方は美術室を気に入ったようで、好き勝手に居着いている。
 そんな斉藤と俺が関わりを持つようになったのは、去年の文化祭のときのことだ。前日、出展会場の準備をしているときに、斉藤がわざわざ俺を呼び止めて声をかけてきたのだった。それまで互いに存在を認識してはいたものの、ちゃんと言葉を交わしたことは一度もなかった。
 この絵、センパイが描いたんですか、と絵を指しながら尋ねる。その細い指がさす先は確かに俺の絵だった。
「冷たい絵ですね。でも綺麗だ」
 濁りのない、透き通った声。そんなに澄んだ声を俺はそれまで聞いたことがなかった。
 本人としては何の気のない一言だったのかもしれない。だけれど、その口からこぼれた言葉がひどく印象に残った。
 水族館の絵だった。蒼い、薄暗い回廊を歩くまばらな人影と、水槽のガラスの向こう側を泳ぐ魚たち。前に田舎の水族館を訪れた折にふと目にした場面を記憶を頼りに描いたものだった。
 自分がそのときなんと応答したかは覚えていない。あまりに唐突だったので、まともな反応ができたとも思えない。ただ、恥ずかしさにも似た感情を覚えた。
 文化祭の件がきっかけで、会えば二言三言くらいは世間話を交わすようになった。交流がないというわけでもないが、別段特に親しいというわけでもない。それぐらいの距離。
 そもそも斉藤は不思議な距離感で人に接する人間だった。人当たりが良さそうでいて、その実つかみ所がない。近付いたようで、遠ざかる。誰とも仲が良いようで、特別に親しい相手はいない。親しげに近付いておきながら、本質的な領域には決して立ち入らない。そんな感じがする。また、友好的に見せておきながら、ある一定の間合い以上は近寄らせない。そんな態度が普段のふとした行動から垣間見える。それはまるで、容易に形を変え、とらえようとしても手からすり抜けてこぼれ落ちてしまう水のようでもあった。
 
 
 その日斉藤は、いつも以上に透明な存在感を醸し出しているように見えた。
「この辺り、ですか?」
「ああ、その辺」
 椅子を置いて、座らせる。「窓の方を向いて。そうそう」。
「今日はスケッチを何枚か描いて、構図考えるから」
 斉藤は緊張しているのか、心持ち少しこわばった顔をしている。
「無理のない姿勢でいいよ。楽に。自然な感じで。喋ってもオーケー。適宜休憩も入れるし、動いて欲しくないときは、言うから」
「わかりました」
 木曜の放課後。俺はいつもこの時間を選んで絵を描いていた。毎週木曜日は部活が休みで他の部員はいない。誰にも邪魔されずに絵が描けるこの時間が好きだった。
「時間、いつまで大丈夫?」
 斉藤は腕時計を見ながら答える。
「七時までなら。足りますか」
 部屋の時計を見る。五時二十分。
「オーケー、今日はそんなとこだろう。じゃ始めようか」
 スケッチブックを構える。鉛筆が紙の上を走る乾いた音が美術室に響き始める。
「――人物、よく描かれるんですか」
 しばらくして、斉藤が尋ねる。「いや」。手を止めずに俺は答える。
「美術部の会で何度か。自分で進んで描いたことはないな」
「それじゃあ、どうして」
「描いてみたくなったんだ、なんとなく」
「なんとなく、ですか」
 その口調には「モデルを選んだのも、なんとなく?」という質問が暗に含まれているようだった。直截そう尋ねられたのなら、当然違うと答えただろう。だが、なぜと問われたところで、理由をうまく説明できそうもなかった。
「いつもこの時間に絵を描いてたんですね」
「ああ」
「ひとりで」
「ああ」
「どうりで。センパイが、いつ出展の作品を描いてるのか不思議だったんですよ。部活のときはまるで違うもの描いてるから」
「ひとりだと、落ち着くんだ」
「そういうものですか」
「ああ」
 そんな会話を続けていくうちに、次第に俺は描くことに没頭していく。会話に比して鉛筆を動かす量が増えていく。そうすると、斉藤の方でもそれを察してか言葉少なになる。遠くに聞こえていた運動部のかけ声、吹奏楽部の鳴らす管楽器の音といった喧噪は徐々に遠くの彼方に消え去り、やがて美術室の中の静寂だけしか存在しなくなる。こうして余計な要素がひとつずつ消えていくのだとすれば、やがて描いている自分というものすら、そのうちに存在しなくなるに違いない。
 気付けば日は落ちて、夜が訪れる前の蒼い宵闇が外を覆っていた。
「……そろそろ時間?」
「ですね」
 時計は、六時半を指している。
「今日はこれぐらいにしようか。……どうだった? じっとしてて疲れたろ」
「いえ、休憩もありましたし。それに、なかなか面白かったです」
「することもなくて退屈じゃないか?」
「そうでもないですよ」
 帰る支度と片付けをして美術室の鍵を閉める。ほとんどの部活が終わったのだろう、廊下は静けさが漂っている。他の生徒の影も見当たらない。
「じゃあ、正式にモデルお願いしていいかな。だいたいこんな感じになると思うんだけど」
「はい」
「時間は、この時間で?」
「ええ、木曜の夕方五時から七時で」
 渡り廊下の窓の外を眺めながら、斉藤が言う。
「外、暗いですね」
 宵闇はもうかなり深くなっていた。灰から青へ、青から黒へ、どんどん濃くなっていく。
「夏が終われば、後はどんどん暗くなるばかりだな」
「そうですね。また、寒い季節が来る」
 夏から秋、秋から冬へと、季節は静かに移ろいゆく。そして春になればもう俺はここにはいないのだ。
「寂しくなりますね」
「え?」
 ぎくり、とした。心の中を読まれたようで。
「秋になると、寂しくなりませんか。日が短くなり、草木は枯れて、夜が深くなる。秋の暗闇に吸い込まれそうになる。さまよう気鬱に囚われそうになる」
 わからないでもない。だが――
「でも、秋は実りの季節じゃないか。収穫と喜びの季節」
「だからこそ、ですよ。それが終われば長い眠りの季節しかない」
「……冬は嫌い?」
「いいえ。でも長いですからね。冬は」
 一面の景色を覆い尽くす雪。一年の三分の一ほどの間、大地は雪にうずもれる。冬の夜は長い。だが、白く透明な結晶に月明かりが反射して、思うほどに暗くはない。それゆえに、一年の中でもっとも暗いのは雪の積もる冬の直前、秋の終わりということになる。吸い込まれそうな暗闇が日増しに深くなっていく、ちょうど、これからにかけての季節。
「あ。俺、職員室に鍵返してくるわ」
 わかりました、と斉藤は言って、
「ボクは用事があるので、これで」
 こうして俺たちは別れ、最初の木曜日は終わった。

 三年の後期ともなれば、勉強に勤しむのが受験生の本分なのだろう。推薦なり就職なりが決まった一部の人間を除けば、ほとんど身の回りのすべての人間が自分の進路を定めようと、受験勉強に打ち込んでいた。その大きな流れに身を任せつつも、俺には今ひとつ現実味というものが感じられていなかった。手を動かして計算をし、単語を頭に焼き付ける。呪文のような公式を唱え、文を読解する。その作業を続けながら、一見不毛なこの繰り返しの果てに何が待っているのかを俺は把握していなかった。漫然と、終わりがあるかどうかわからない作業をただただこなしている。そんな気がしてならなかった。
 昔から、なんとはなしに、自分は十八で死ぬのだろうと思っていた。誰に告げることもなかったが、そう確信していた。それは、形あるものは必ず壊れるということにも似た当然の真理であるように思われた。
 十八という数字に特に深い意味があるわけではなかった。実際のところ別に二十三でも三十五でも良かったのだろう。
 この一年以内に死ぬのであれば、とひとたび考えると何をするのも無意味に思えた。自分を取り巻く何もかもが、薄っぺらい紙切れのように感じられた。踏みしめる地面も、そこに立つ自分も、過ぎてゆく日常も、何ら根拠のないおぼろげなまやかしであるように思われた。
 
 
 次の木曜日も雑談から始まった。
「センパイは、どうして絵を描くんですか」
 少し、考えてから答えた。
「決まってる。それしか能がないからさ」
「だったら、美大に進むんですか。それとも専門学校?」
「……生憎と、そういう予定はないな」
「何か、もったいないですね」
「そんなことないさ。別に、美大に行かないと絵が描けないというわけでもないだろ」
 それはまあそうですけど、と不満げな顔をして口を閉ざす。
 俺はスケッチを続ける。
「それでも、絵を描くのはやめないんですね」
「描くのは、いい息抜きになる」
「好きなんですね、絵を描くのが」
「……そうかもな」
 確かに、そういってもいいのかもしれない。絵を描くことだけは何か特別なことであるような気がする。
「描いてるときって何を考えてるんですか」
「構図とか、光とか、対象の質感とか、色々。こうしたらどうなるとか、ああしたらこうなるとか」
「いつも、そんな難しいことばっかり考えて描いてるんですか」
 描き続けながら、俺は言う。
「いや、そうでもないな……」
「……?」
「ああ、そうだな、最初は確かに色々考えながら描いてるんだけど、なんだろう、途中からそういう細かいごちゃごちゃしたことは頭の中から抜けていくんだよな。余計な、雑音みたいなものが頭の中から少しずつ消えて、静かになっていく」
「…………」
「だんだん、静かになっていって、何もなくなる。そのうちに、俺自身もどこかへ行ってしまって、描く対象だけがそこにあるようになる。対象をとらえたイメージだけが、そこに残っている」
「…………」
「そのイメージが見えているうちに、いや、そのイメージが残っているうちに、固定しなくちゃいけない。そのままに、あるがままに、キャンバスの上に写し取らなくちゃいけない。そうやって、イメージを絵に固定しなくちゃいけないんだ」
「……固定、ですか」
「そう。イメージが逃げてしまわないように。喪われてしまわないように、固定するんだ」
 そこまで言ってから、気付いた。意図せず、鉛筆を動かす手が止まっていた。話に熱が入りすぎた。動かすべきは、口よりも、手だ。
「めずらしいですね。普段は全然喋らないのに」
 俺は答えずに、スケッチを続ける。こころなしか頬が少し熱い気がした。
「センパイが饒舌になったところ、見たことないです」
「苦手なんだ、喋るのが」
 ため息が洩れる。
「言いたいことを、うまく伝えられない。頭の中で考えていることを言葉にしようとすると、どうしてもずれてしまう。小さな歪みが少しずつ少しずつ積み重なって、最終的にはとても大きな歪みになってしまう。だから、言葉で何か伝えようとしても、結局それはもとの伝えたかった事柄と似て非なる偽物になる気がする。それがいやなんだ」
「言いたいことがそのまま相手に伝わるだなんてこと、本当にあるんでしょうかね」
「…………」
「人が相手のことを理解しえるだなんてこと、ありえるんでしょうか。結局のところ、互いに都合良く誤解しながら生きていくだけのことじゃないんでしょうか」
「それは、そうかもしれないな」
 しばし静寂が続いたように思う。
「……そっか。だから絵なんですね」
「?」
「見えたものを見たままに、頭の中にあるものをそのままに、表現すること。センパイが絵を描くのはそういう理由なんじゃないですか」
 いったい自分の行為の本当の理由というものを、人はわかるものなのだろうか。
「わからないな。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。俺にはわからないよ」
 覚えてますか、と斉藤は言う。
「去年の、水族館の絵」
 忘れるわけはない。
「センパイの眼には、世の中がああいう風に映っているんですか。それとも、そういう風に描かざるをえない理由がセンパイにはあるんですか」
 なんだか、何を言っても嘘になる気がした。
「……あれは、あの絵は、あれ以上のものではないよ。描かれている以上のことは、たぶん何もない」
 そうですか、と斉藤は言った。こころなしか残念そうな言い方だった。
「すみません、喋りすぎかな。邪魔になりますよね」
「いや」
 その後に続くべき言葉は、俺には見つけられなかった。おそらく斉藤もそうだったのだろう。スケッチのかすかな音だけが美術室に響いた。

「センパイ、そろそろ……」
 申し訳なげに斉藤がいう。時計は六時五十分を指している。
「もうこんな時間か。そうだな、このあたりで」
 スケッチブックを片付けながら斉藤に言う。
「おかげで、だいたい固まったよ。来週は下書きにしよう」
「わかりました」
 続けて、斉藤が少し落ち着かない感じで言う。
「ちょっと急ぐので先に失礼してもいいですか」
「遅くなってすまないな。来週も頼む」
「来週、また同じ時間で?」
「ああ、よろしく」
 帰ろうとする斉藤の手にあるものを見咎める。
「あ、傘」
 今朝は晴天だったので、俺は傘を持ってきていなかった。
「今日雨降るの」
 聞くと、斉藤は首を横に振って、
「いえ、昨日忘れたのを持って帰るんですよ」
 斉藤は曖昧に笑って、それじゃ、と言って早足で帰って行った。
 俺は美術室にひとりになる。死んだように部屋は静かだ。棚の上の石膏像たちは瞳のない眼で虚空を見つめている。棚には、紙粘土でできたまがい物の果物、おもちゃのような楽器、クロアゲハの入った標本箱などが並んでいる。飾ってある絵はいずれも静物画ばかりだ。この部屋には時間は流れない。
 絵は時間を切り取る。時間を、空間を固定する。写真が瞬間を切り取るように、絵画は時間を切り取る。それは複数の時間の流れを包含している。一瞬の輝きをとらえようとする画家もいれば、悠久にたゆたう時間の流れを写し取る画家もいる。そこにあるのは固有の膚感覚とでもいうべきもので、永遠の静止に関心を抱く者もあれば、時間の流転に関心を抱く者もある。共通するのは、ある時間あるいは時空間というべきものへの関心なのだと思う。それは、画家が世界をどう見ているのか、どう見えるのか、あるいはどう見えるべきと思っているかに深く関わっているのかもしれない。
 ――別に、そんな小難しいことを始終考えながら絵を描いているわけではない。絵を描いている間は、ただ目の前のキャンバスには何が足りないか、何が必要かだけが頭にある。それに応じて、足りない線を、色を足していく。そうしていくうちに、ある瞬間に、不足がなくなるときがくる。それはつまり絵が完成したということであり、言い換えれば俺が絵を、あるいは絵が俺を必要としなくなった瞬間であるともいえる。
 いつか来る完成する瞬間まで、俺は一心に筆を動かす。だからある意味で、絵を描くことは待つことに似ているのではないかと思う。
 そんなとりとめのないことを心の中で独りごちながら帰る準備をしていると、美術室の戸が音を立てて開いた。見慣れたひげ面の顔がのぞいた。美術部の顧問の松田だ。
「おう。お前まだ残ってたのか」
「なんだ、松田先生か。おどかさないでください」
「なんだとはなんだ、教師に向かって」
「今、ちょうど片付けが終わって帰るとこですよ」
「そうか。こっちはこれから探し物だ。鍵持ってるよな? ちょっくら付き合え」
 特に断る理由もなかったので、ついていった。いつものことだが、美術準備室は雑然としていた。手前側は授業に使う道具類があるので比較的整頓されているが、奥半分は美術部の物置と化していて、より混沌としている。
「去年卒業した代に、木村ってのがいただろう」
「ああ、あれですか。あの、空の絵ばっか描いてた人」
「そうそう、それだ。そいつの絵を掘り出すんだ。二、三点は残ってるはずだから、引き取りたいんだと」
 引き取る? それって……
 俺の雰囲気を見て取ったのか、松田は聞いてもいないのに言う。
「おいおい、縁起の悪いことを考えてるんじゃないだろうな。違うぞ。あいつ、本州の大学に行っただろう。なんでも、今度実家の親御さんたちも本州に引っ越すそうで、もうこっちには戻ってこないそうだ。それで思い出に、だと」
「へえ」
「年度ごとでまとめてあるから、すぐに見つかるとは思うんだが」
 十数分の捜索の後、果たして、絵は見つかった。いずれも夏の空の絵だった。緑の山の稜線に、青い空、白い入道雲。強い陽射しが感じられる絵だった。それはこの北の大地の短い夏が見せる一瞬の輝きを切り取っているように思えた。
「絵の方は進んでるか?」
「ぼちぼちですね」
「受験勉強の方はどうだ」
「…………」
 返答しない俺にこころなしかニヤニヤしながら、松田は言う。
「おやおや、芸術にうつつを抜かしてていいのかな、受験生?」
「絵は息抜きですから」
「とすると、やっぱり、美大は考えてないのか」
 それまでの芝居がかった口調とは打って変わって、真面目な口調だった。
「……もし仮に――仮にですよ――受けたとしたら、どうですかね」
 ふむ、と一言いうと一瞬黙り込んだ。
「どこを受けるかによるが、これからやって五分五分ってところかな」
「……相当厳しいですね」
「馬鹿いえ。五分五分っていうのはかなり良い勝負だ。俺だって二浪して入ったんだ。それに比べりゃ十分見込みはある。十分すぎるほどな」
「先生は、なんで美大に進んだんですか」
「そうさな、絵が好きだったから、っていうのは無論あるが――もっと描けるようになりたかったからかな。もっと色んな技術を学んで、たくさん修行を積めば、俺の描きたいものが描けるんじゃないかと思った」
「で、どうでした?」
「どうって、何がだ?」
「それは……」
 返答を期待していなかったのだろう、松田は構わずに続ける。
「描きたいものが描けるようになったかという部分については、半分イエスで半分ノーだ。確かに以前より描けるようになったが、それにつれて描きたいものの方も変わってきたからな。どうにも、自分が描けるかどうかわからないものを描きたがるのが俺の性分らしい。因業だよな。進んで良かったかどうかなんてのは人それぞれで、俺の場合はまあ運が良かったといえば良かった、という部類に入るというぐらいの話だ」
 潰れた奴もいたしな、とぽつりと付け加えた。
「完璧な正解の選択肢、なんてものはないんだよ。自分で納得して先に進むしかない。うまくいく保障も何もない。そういうもんだ。俺も別にお前を説得したいわけじゃない。人の人生にまで責任持てないからな」
「…………」
「……だがもし、本気で受験しようと思ったなら――そのときは言ってくれや。満更、力になれないわけでもない」
 俺は黙っていた。しばしして、松田はうなずいて言った。
「まあ、描こうとさえすれば、絵はどこででも描けるからな」
 なぜか、それは自分に言い聞かせているようにも聞こえた。
 さぁて、帰るか、と松田は言った。垣間見せた熱意を振り払うかのような、どことなくわざとらしい感じがした。準備室と美術室の鍵を閉める。緑の非常灯と、消火栓の赤いランプが照らすほかは、廊下は真っ暗だ。他の生徒はとうに帰ったのだろう。手探りで廊下の明かりのスイッチを点ける。新校舎とは違い、旧校舎では自動で照明が点かない。通常教科用の教室と職員室が新校舎にあるのに対して、美術室や音楽室、理科室といった専門科目の教室は旧校舎にあった。
 新校舎と旧校舎の間は玄関ホールを挟んで渡り廊下でつながれている。
 廊下の窓越しに、職員室だけ明かりが点いているのがわかる。
「もう正面玄関は閉まってる。靴持って職員玄関から帰れよ」
 じゃあ気をつけてな、といって松田は職員室の方へ歩いて行った。
 
 
 学校を出ると町並みは寒々とした夜に浸かっていた。街灯がところどころ思い出したように道を照らすほかは、液体のような濃い深い暗闇が辺りを包んでいる。遠い星空の光は地上まで届かない。自転車の電灯だけが道行く先を照らしている。それ以外に頼りになるものはない。時折、ヘッドライトを点けた自動車が脇を通り過ぎていく。その後はもとの静寂に戻る。虫の声もない。半分枯れた草木の間をさらさらと音を立てて冷たい風が通り抜けていく。ハンドルを握る手は冷え切って、痛いほどだ。そろそろ手袋なしでは厳しい。自転車が使える季節もあと少しで終わりなのだ。
 絵の道に進むこと。
 斉藤も、松田も、別に悪気があって言っているのではないのだ。俺が十八で自分の人生が終わると思っているだなんて、誰も知るはずがないことなのだから。だけれど、無邪気に「この先」が続いていくだなんてことは、俺にはどうしても信じられないことだった。明日は、来るだろう。その明日もまた、来るのだろう。そうして続いていく無限の明日。その絶え間ない連続の延長線上にある自分の未来というものが、俺には信じられないのだった。ちょうど、何もない虚空を指さして話をされているようで、自分にだけはそれが見えず、困惑するのだった。なぜ、ああやって疑うこともなしに、さも当然に次があるかのように話を進めることができるのだろう。俺にはそれすらも自明でないというのに。
 それに、別に何かしたいことがあるわけではないのだ。松田は描きたいものがあったと言っていた。もっともな理由があったわけだ。だが俺にそれはない。別に何かを表現したくて絵を描いているわけではないのだ。
 だとしたら、と俺は独りごちる。どうして俺は絵を描くのだろう。
 ただの逃避? そうかもしれない。この途方もない閉塞から、このどうしようもない息苦しさからは、ただ描くことによってしか逃れられない。少なくともこの俺には。
 この自分のなすことほとんど全てが無意味であるとしても、ただ絵を描くことだけは意味があるように思えた。現在の自分にできることを一つ一つ列挙してみても、ただひとつ、絵を描くことだけが意味のあることのように思えるのだ。
 ――絵が完成したら、何かわかるかもしれない。
 そんな気がした。
 
 
 そうして、次の木曜日が来た。下書きの日だ。
 その日は早くから準備を始めた。イーゼルを立て、キャンバスを置く。窓から入る光の具合、モデルをどこにどの向きで座らせるかを頭の中でシミュレーションしながら、椅子を配置する。そうだ、これがきっとベストの配置だろう。
 こころなしに楽しみにしていたのだろうか、約束の時間よりもだいぶ早く準備が終わってしまった。ふいにできた空白の時間を俺は持て余していた。あと二十分ほどある。
 なんだか、落ち着かない。こんなのは自分でも珍しい。
 心安まらぬまま考えを巡らしているうちに、教室に忘れ物をしていたことに気付いた。受験数学の参考書。特にすぐに入り用になるというわけでは全くなかったが、このままそわそわ待ち続けるよりはましだった。
 二階の渡り廊下を通って新校舎へと向かう。正面玄関のある玄関ホールもこの時間帯はまだ人が多い。
 教室でも五、六人のクラスメイトがだべっていた。受験勉強の合間の息抜きなのだろう。特に親しい連中でもなかったので、声もかけない。向こうも向こうで、こちらを気にするでもない。ちょうど、お互いの存在など目に見えていないかのように振る舞う。 
 参考書はすぐに見つかった。あっけなさすぎるほどに早く。教室はなんとなく居心地が悪い。このまま戻っても時間を持て余すかもしれないが、持て余したなら持て余したで仕方がないと思うしかないだろう。
 教室を出て、再び旧校舎へと向かう。渡り廊下を歩いていると、ちょうど玄関ホールにさしかかったところで見慣れた人影に目が留まる。正面玄関にいたそいつには確かに見覚えがあった。
 帰っていく、あの後ろ姿は――
 見違えるわけがない。斉藤だ。
 斉藤とおぼしき人物は、ゆっくりと正面玄関から出て行った。そこには何のためらいも焦りもなく、どこかへ行って戻ってくるという雰囲気ではなかった。あたかも、誰にも見つからないようにそのまま遠くへ行ってしまって二度と帰ってこない、という様子だった。声をかけることはできなかった。できたのは、ただそいつが小さな点となって視界から消え去るまで眺めていることだけだった。
 俺は美術室に戻った。キャンバスの前に座る。
 ――どういうことだろう。
 決まってる。つまりは、約束を反故にされたわけだ。
 斉藤は帰ったのだ。このまま待ち続けてもあいつは戻ってきはしないのだ。
 いや、そうとは限らない。例えば、何か急な用事ができたのかもしれない。一瞬だけ外に出た後に、すぐ戻ってくるのかもしれない。あるいは今日の約束を一時的に忘れているだけで、思い出して引き返してくるかもしれない。かもしれない、かもしれない、かもしれない――。
 しかしどう考え直してもそういう気配ではなかった。斉藤はもう二度と戻ってこないのだ。少なくとも今日という日において斉藤は二度と現れないに違いなかった。どことなく確信めいた思いが、頭から離れなかった。
 運動部の遠い喧噪が聞こえる。美術室の中は水槽の中のような時間に浸されている。まとわりつくような、冷たい時間。熱が奪われる。
 怒りとはほど遠い感覚を、俺は抱いていた。何かぽっかりと穴が空いたような、どうしようもない漠然とした寂しさのようなものを俺は感じていた。無地のキャンバスの前でじっと虚空を見つめるうちに、自分の身体が重力を失い、そのまま底のない暗渠に沈んでいく。そんな錯覚にいつしか囚われていた。
 随分時間が経った気がする。だがその実、それほど長い時間ではなかったのかもしれない。澱んでいた意識を揺さぶるように、美術室の扉が開いた。俺は、いるはずのない人物の顔をそこに認めた。
「こんにちは、センパイ。――どうしたんです、そんな顔して」
 きっと、狐につままれたような顔をしていたのだと思う。俺はしばらく、自分が何を見ているのかを理解できなかった。確かにあいつが帰っていく姿を見たではないか。
「……いや、ちょっと考え事」
 できるだけ平静を装いながら、かろうじて言葉を絞り出した。斉藤は俺の様子を不思議そうに眺めながら、
「時間、合ってますよね?」
 と尋ねる。見れば、教室の時計は五時ちょうどを指していた。ああ、と内心うろたえながらも俺は答える。
「大丈夫ですか? センパイ今日おかしいですよ。体調、良くないんですか」
 いや、何でもない、と答える。それは斉藤に向けてというよりも自分に言い聞かせているようだった。
 何の問題もない。そう、何の問題もないのだ。何の問題も。約束通り斉藤は現れたのだから。俺は口を開く。
「始めようか」
 その言葉は、しかし他人の口から出たようだった。
 窓際に配置した椅子に、斉藤を座らせる。細かいポージングの指示を与えながら、俺は思考の片隅で先ほど玄関ホールで見かけた人物のことを考えていた。
 あれは、確かに斉藤だった。間違いない。だがなぜだろう、あの斉藤が戻ってきて今自分の目の前にいるという気が露ほどにもしないのだった。あれはあれで別の斉藤だったという気がする。奇妙な話だが、同じ人物が違う人間だということがありえるのだとしたら、それが一番もっともらしい説明であるように思えた。無論そんなことはありえないのだが。
 木炭を構える。深呼吸をする。余計なことを頭から振り払う。目の前の対象だけに意識を集中する。木炭の先がキャンバスに触れる。
 日没後、辺りが完全に夜に浸されるまでの時間。薄い青い光が窓から入る。白から青へ、青から黒へ。静かに水の中に沈んでいくような、微細な光の変化。時と共に移り変わる光には境目というものがない。ある特定の瞬間を切り取れば、他の瞬間を取りこぼしてしまう。移ろいゆく光の様相をとらえるには、一瞬を切り取るのではなく、動的な時間の流れそのものを掬って、生きたまま取り出してやらなければならない。変化の度合いを、深さを、絵というひとつの空間に閉じ込める。それはまるでおもちゃのスノードーム、あの雪の舞い散る小さな球体のようで、静的なものと動的なものが混在しているのだった。
 モデルは、窓の外を眺めている。水槽の中で、溺れるでもなく、泳ぐでもなく、ただゆっくりと呼吸する。静けさに満ちたその姿は、そのうちにいつしか背景そのものになり、このまま蒼い闇に溶けこんでいきそうだ。ただ、その瞳だけは別で、一際暗い陰翳を醸し出していた。ちょうどその点だけが唯一人間らしい要素であったといっても過言ではなかった。斉藤が窓の外に何を見出しているのかは、俺にはわからない。どこか感情というものに乏しい視線。なぜかそれが、斉藤という人間の本質を規定しているのではないかと俺には感じられた。
 そうだ。このひと月というもの、いつも俺が描いてきたのは確かにこの斉藤だった。そして俺がこれから絵に塗り込めようとしているのも。
 交わす言葉はなかった。ただ黙々と俺は描き続け、斉藤はじっとしていた。振り返って見れば、互いに集中していたのだと思う。互いの役割にのめり込んでいたというべきか。描く者と描かれるもの。主体と客体。それ以上近付くことも、遠ざかることもなく、永遠に一定の距離のまま。
 気付けば、部屋はほとんど暗闇に包まれていた。
 キャンバスには下書きができあがっていた。終わったのだ。
 大きく息を吐く。俺の緊張が緩むのを見て、斉藤が言う。
「終わりましたか」
「ああ」
 目を凝らしても、その表情の細部まではわからない。かすかな光がかえって陰翳を浮かび上がらせる。ここにいるのは影だけなのではないか――そんな錯覚を抱かせる。
「電気、付けよう。もうだいぶ暗いし」
 立ち上がって電灯のスイッチに近付いて行こうとしたとき、ふいに斉藤が口を開いた。俺は斉藤の方を振り返る。
「センパイは――」
 薄暗い蒼い光が逆光になって斉藤の顔は見えない。顔のない影法師が問いかけているようだった。
「なぜ、絵を描くんです」
「前にも、同じことを聞かなかったか」
 そうですね、と影は答える。
「じゃあ聞き方を変えましょうか。センパイは何のために絵を描くんですか」
「なんでそんなことを聞くんだ?」
「いったいああいう絵を描く人が何を考えてるか知りたいんです」
「ああいう絵、って」
「あの水族館の絵――ひたすらに暗い、冷たい絵。でも、つい引き込まれてしまう。作者がいったいどういう動機でそういうものを描いたのか――それが知りたいんです。それともやっぱり、センパイにはああいう風に物事が見えていて、単にそれを写しているに過ぎないんですか」
 明瞭な答えなどあるのだろうか。ただ、描いていなければ息苦しい、そういうものではないのか。何かを描くこと、例えば空を描くことに何か理由がいるのだろうか。魚が水がなければ生きていけないように、絵を描いていなければ息苦しいのだ。絵を描き、キャンバスに向かっている間だけは俺はこの世界とつながっていられる。ただ描くということだけが俺が世界と関わっていられる方法だった。ここにいるということを確認できる唯一の方法なのだ。それがなければ、俺はただ時間の流れるままに、奈落の底に落ちてゆく他ないのだから。
 思考はまとまらぬまま、時間は過ぎていく。沈黙を破ったのは俺ではなかった。
「……ああ、もうこんな時間。帰らなきゃ」
 残念そうに、斉藤はつぶやく。影法師の姿のまま。
「見ていかないのか」
「そうですね、時間もないですし――それに、完成するまで見ない方が楽しみが増すと思うんです」
 言葉にも、口調にも、何もはっきりとおかしいところはない。だが、どこか生気に欠けているような気がして、本当に影と会話しているように錯覚する。
「それじゃあ、また。今度、聞かせてくださいね」
 そうして俺は、ひとり暗い教室に取り残される。

 <続>

初出『窓の向こう側・暗青色の夜』2015/11/21

後編はこちら↓

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