幽霊の街

小説を投稿してみるテスト。


「高木君。ねえ、高木君でしょう」
 真正面にいた私のことに全く気付かなかったようで、彼は一瞬驚いたようにビクッと身をこわばらせた。しかし声の主が私であると知ると、安堵した声を洩らした。
「なんだ、相楽さんか……」
「なんだとは何よ」
「いや、ちょっと、ぼーっとしてたもんだからさ」
 確かに、私の見知っている彼とは少し雰囲気が違うようにも思える。たかだか数週間互いに会っていないだけなのに、多少、老け込んだような感じがする。
「相楽さんは、変わらず元気そうだね。今日もバイト?」
「そ。でも今日は遅番だからまだ全然時間あるのよね。適当に時間潰そうと思ってたんだけど……高木君はこれから暇?」
「……僕? 今日は特に用事はないよ」
「そう、ならちょうどよかった。ちょっとお茶に付き合ってくれない?」

 こうして私たちは駅前の喫茶店に入ったのだった。薄暗い店内は、柔らかいオレンジ色の電灯でほのかに暖かく照らされている。静かで、落ち着いていて、それでいてどこか優しく受け止めてくれるような雰囲気がある。初めて入る店だけれど、悪くない。こういう「膚の合う」店というのはなかなか見つからないのだ。この街ではゆっくりと時間を過ごせる場所、それこそ息をつけるような場所がない。密度に対して圧倒的に空気が少ないのだ。私の地元があまりにも田舎だからそう思ってしまうのかもしれない。
あるいは、と心の奥底で独りごちる。私がこの街の外から来た人間だからなのかもしれない。他所者には居場所がないのが世の常だから。
 窓際の席に私たちは座った。私はカフェモカを、高木君はココアを注文した。高木君はメニュー表をまだ眺めている。
 窓の外を流れる雑踏を眺めながら、誘い方が多少強引だったかな、と反省する。しかし、携帯電話を持たない高木君と接触するのは至難の業なので、ここはこのちょっとした偶然を体よく利用するのが最善であったということに間違いはない。
 しばしの沈黙。会話の糸口を探す。口火を切ったのは、高木君だった。
「アイリッシュ・コーヒーってウィスキーを入れるんだね。知らなかった」
「そうだよ。飲んだことない? 甘いから高木君も気に入ると思う」
「うーん、でもアルコールに弱いからなあ。いかんせん体質はどうにもならんね」
「やっぱり、この年になっても慣れない?」
「全然。ビール缶半分が関の山だよ。遺伝子レベルの問題だから」
「下戸遺伝子、か。そうね、確かに自分でどうしようもないものもあるよね」
 自分で口に出した「どうしようもないもの」という言葉が意図しない重みを持ってしまったことに気付く。慌てて私は話題を変える。
「それはそうと、久しぶりだよね。こうやってゆっくり話すのも……高木君は元気にやってた?」
 高木君は一瞬、返答に困る。彼のことだから、元気という言葉の定義から考えているのかもしれない。
「まずまず……かな。いや、ちょっと停滞していた気もする」
「……やっぱり、小夜のことが?」
 沈黙。直截に聞きすぎたかもしれない。
「それも、あるだろうね。たぶん」

 桜井小夜と高木君と私は、サークルの中でも比較的仲が良かった。私と高木君との間にいたのが彼女だった。私と高木君は小夜という人間を介して出会ったようなものだ。世の中には不思議な引力を持っている人がいる。彼女もそのひとりだった。小夜がいなければ、私、相楽知美は高木大地という人間と出会うことはなかったろう。
 高木君は現実とも幻想ともつかない淡い文章を書く人だ。理学部数学科に所属している。物静かで、自分から積極的に何かを主張するということはあまりない。人の話を聞くときはほとんど聞き役で、水を差すということがない。それは、話の内容に興味がないからではなく、むしろ内容についてひたすら思考を巡らしているからである。それは彼の文章の中に時折表れる透徹した論理による思惟からもうかがい知れる。
 大学の文芸サークル、とはいっても適当でほとんど名ばかりのサークルに私たちは属していた。もっとも私には詩才やら文才なんてものは欠片もなく、ただ中高生の書くポエムの焼き直しみたいなものを作っては提出しているに過ぎなかった。私の書くそれは、情感というものの感じられないどこか殺伐とした風景画を思わせるようなもので、そういった意味ではいかにも散文的ではあった。当人の立場からいえば、そんな自分の才能のなさに関してはそれほど頓着していなかった。
 そもそもなぜ文芸サークルに入ったのか、という経緯に関してもあまり褒められたものではない。文学に傾倒していたわけでもなかった。ただ高校からの友人の付き添いでついでに入った程度のものだった。その当人の友達は膚に合わずサークルをやめてしまったし、今では完全に疎遠になってしまってほとんど音沙汰もないのだけれど。
 注文した飲み物が届く。コーヒーとココアの香りがひどく懐かしいものに思われる。なぜかしら、ずいぶんと久しぶりに嗅ぐ香りのような気がした。

「トモちゃん、コーヒーはブラックだよ。これは譲れない」
そうだ、いつも彼女はそう言っていた。訳知り顔で、煙草を吹かしながら、どこそこの豆がどうで、挽き方はこうで、と小難しいことをいう。小柄で、どこか背伸びをしているような感じのする彼女。
 私たちの所属していたサークルは、人が集まればそうなるように自然といくつかのグループに分かれていた。ガチガチの純文学を志向する人々、耽美的な詩作に励む人々……それぞれ似通った人々が共通の固まり(クラスタ)を作っていた。私はといえば特にどのグループの人々と相通ずるところもなかったので、いずれに所属するわけでもなく、宙に浮いた立場でいた。それでもサークルで出している季刊の同人誌には何かしらの作品風のものをこしらえては出してはいた。別に強制的な義務というほどのものではなかったのだけれど。

「『ね、相楽さんって、空っぽな部屋みたいな詩を書くよね』」
「……?」
「初めて、小夜に声をかけられたときの台詞。おっかしいでしょ。高木君は彼女になんて言われたの。覚えてる?」
「ああ、なるほど。そうか、そうだね……」
しばし考え込んで、
「そうだ、思い出した。『高木君の小説はいつも鏡の向こう側を眺めてるよね』だ」
「なにそれ」
「僕だってわからないよ」
 二人して苦笑する。

 初めて会話したのは、いつだったろうか。突然声をかけられたのだ。
「相楽さんって、空っぽな部屋みたいな詩を書くよね」
 唐突にそう言われて面食らった。褒められているのか貶されているのかよくわからず、返答に迷っていると、
「ボロボロの廃屋っていうわけじゃなくて、綺麗でよく手入れされているんだけど、なんか人の気配がしないんだな。だけど、そこが好きなんだよね」
 と恥ずかしげもなく言った。変わった子だな、と思った。それが桜井小夜という人間を初めて認識した瞬間だった。

 くだらない、当たり障りのない話をしばし続けた後、本当に聞きたかった話題を切り出した。
「……高木君は、お葬式行った?」
 高木君はゆっくり首を横に振る。
「……いいや」
「そうだよね。私も行ってない」
 テーブルの上のカップに視線を落とす。
「私たち、言ってもそこまで親しかったわけじゃないものね」
 親しかったらせめて一言くらい——という言葉を口に出しかけたが、呑み込んだ。
「何か詳しいこと聞いてる?」
 高木君は再び首を横に振る。
「聞いてないよ……人伝えに、ただ、自殺としか」

 小夜は死んだ。三ヶ月ほど前の話だ。自宅で首を吊っていたのだという。
 理由はわかっていない。遺書も残っていないらしい。
 ぴょこぴょことエネルギーに満ちていた彼女と、暗く静謐な死という言葉がどうしても頭の中で結びつかなかった。
 けれども、桜井小夜という人間が占めていた空間の分だけ、この世にぽっかりと穴が開いてしまった。そんな感じがする。この地球というスケールで見ればたいしたことがないけれど、ちっぽけな私のような人間にとっては、影響を受けるには十分な大きさの穴だ。
 死ぬ二週間ほど前に、大学の構内で他愛のないおしゃべりをしたのが彼女との最後の会話だった。やはりブラックのコーヒーを飲みながら、彼女はよく喋り、笑っていた。いつも通りの彼女の姿とその後訪れた彼女の死という事実がどうしても噛み合わず、自分のしっぽを追い回す子犬のように頭の中でぐるぐるぐるぐるとずっと空回りしているのだった。

「小夜、どうして死んじゃったのかな」
「…………」
 沈黙で、彼は答える。私はその沈黙を、問いとして再度投げ返す。
「……色々と、考えてはみたんだよね、僕も」
 おずおずと、高木君は口を開く。あまり期待されても困るんだけど、といいながら、ひとつひとつ言葉を選びながら彼は話し出す。
「結局のところ、それは『わからない』ということに尽きると思う。やるせないけどね。
 確かに、自殺する人のほとんどが、死ぬ前に何らかのメッセージを発しているというし、あるいは自殺をする人の多くが心の病を抱えている、っていう一般的な事実から、桜井さんの自殺の兆候を見出すべきだったのかもしれない。でもそれらは全部後知恵で僕らが考えてみたことで、事前に何ができたのかといえば、やっぱり何もできなかったんじゃないかな。少なくともそう思う方が健全であるとは思う。
 桜井さんは、僕みたいな人間と違って社交的だったからね。色々な人と交流があったんだと思う。きっと悩みを打ち明ける相手の候補は沢山いたんだろう。実際に相談したのかもしれないし、しなかったのかもしれない。あるいは、彼女という人間にしかわからない類の悩みだったのかもしれない。太陽がまぶしかったからという理由だったのかもしれない。それとも、彼女はずっとメッセージを発信してはいたのだけれど、本人にしかわからない形で提出されたのかもしれない。
 でも、いくらそうやって考えても憶測の迷宮から抜け出せないよね。
 彼女が僕らに何もヒントを遺していかなかった以上、それは僕や相楽さんが取り組むべき問題じゃないんだ。彼女が死んだ理由については『わからない』という解で僕たちは妥協しなくちゃいけないんじゃないかな」
 それだけいうと、高木君は口をつぐんだ。
 高木君の答えは、確かにそれはそれでもっともだった。だけれど、少なくとも私の求めていた類の答えではなかった。私がおそらく期待していたのは、自分の漠然と抱えているどこかもやもやした感覚にどう対処すべきかというものだったのだろう。わからないものとして受け止める、という高木君の答えは、確かにまっとうだ。だけど釈然としない部分が残る。高木君自身が黙ってしまったのも、そうはいっても彼自身どこか割り切れない部分があるからではなかったろうか。
 窓の外を眺めていた高木君が、あ、と声を出した。
「雨、降ってきた」
「ほんとだ」
 窓ガラスに雨滴がぽつぽつと当たり始めている。そのうちに雨足は強くなり、窓にぶつかった雨滴が流れるように表面を伝う。透明な壁の向こう側を歩いて行く人々の中にも、傘をさしたり、小走りに駆けて行く人が混じり始める。一方で、何事もないかのように歩いている人もいる。
「予報は晴れだったのにね、通り雨かな。やむといいんだけど。今日僕、傘を持ってきてないんだ」
「私も。このまま降るようだったらコンビニに寄って傘買っていかないと」
 高木君が店の掛け時計に目をやる。
「相楽さん、時間大丈夫? バイトなんでしょ」
 一瞬、腕の時計を睨んでから私は答える。
「全然大丈夫。こうなったら、雨がやむまでここで粘るから。高木君こそ、何か予定があったりしないの?」
「僕は、自分の用は済ませたから。付き合うよ、雨宿りするなら」
「珍しいね、高木君がそんなこと言うなんて。それならお言葉に甘えようかな」
 私と高木君は、それからしばらく窓の外を眺めていた。流れていく雑踏の中に混じる傘の数が増えていく。雨はすぐにはやみそうにない。
 ふと思い出したように高木君が口を開いた。
「そうだ、相楽さんに会ったら聞こうと思ってたんだ」
 変なことを言うかもしれないんだけど、と前置きして、
「幽霊について、桜井さんから何か聞いたことある?」
「幽霊?」
 突拍子のない単語に、私はつい大きな声で聞き返す。
「幽霊って、あれよね、ゴーストの方の」
高木君は、苦笑する。
「それ以外に何かある?」
きっと私は、そのときいかにも怪訝そうな顔をしたのだと思う。
「それはつまり、心霊的な何か、について小夜から聞いたことがあるかってこと?」
「いや、そういうわけじゃないんだ」
高木君はかぶりを振った。
「ほら、桜井さんてさ、言葉の遣い方がちょっと特殊だったじゃない。彼女にとって『幽霊』という言葉がどういう意味を持ってたのかを知りたいんだよね」
 幽霊。普段使い慣れないその言葉に、どこか引っかかる気がする。だが、わからない。どこかで聞いた覚えがある気はするのだが。
「幽霊ね……すぐには出てきそうにないけど、でもなんか引っかかる。ちょっと待ってね、思い出すから」
「焦らなくていいよ。きっとそんなに重要なことじゃないから」
 何か手がかりになりそうな記憶の欠片が頭の中に浮かんでは消えていく。それは、触れようと手を伸ばせば逆に遠ざかるようで、思い出そうとするほどに思い出せず歯痒い。
「ごめんね。すぐには出てきそうにない。絶対何かあった気がするんだけど」
「いや、いいよ。ちょっと気になっただけだから。そんなに真剣にならなくても」
 ふと胸に思い浮かんだ疑問を口にした。
「高木君がそんなにこだわるなんて、何があったの?」
 一瞬、高木君は考え込んだように見えた。これはちょっとまずったかな、と私は心の中でつぶやいた。
「あ、ごめん。何かデリケートな話だったら別にいいんだけど……」
 高木君は半分困ったような顔をした。いや、そういうわけじゃないんだ。
「それがね、夢の話なんだ」
 何か頭にひっかかるものを感じつつも、私は先を促した。
「一時、よく見てた夢があるんだ……あまり人には話したことがないんだけど」
 灰色の街なんだ、と言った。
「灰色の……街?」
 その意味を確認するように私は一語ずつ繰り返す。高木君はうなずく。
「灰色って……モノクロ、っていうこと」
「いや、違うんだ。色の話じゃないんだよ。いうなれば、質感がってことになるのかな」
 一瞬遠い目をする。
「姿形も色もまったく、今僕らが暮らしてる街とまったくそっくりなんだよね。僕や、住んでいる人たちもみんな生き写し」
「そっくりってことは何かが違うわけ」
 相楽さんは鋭いね、といって微笑する。それから、またゆっくりと一語一語確認するように話し出す。
「そうなんだ。そっくりなのは外見だけで、中身はまったく違うんだよ。言ってみれば、全部うわべだけの偽物なんだ。
 なんなんだろうね。こればっかりはうまく説明できるかわからない。夢の中のその街は、絶えず違和感に満ちていて、なにもかもが——そうだな、他人事だってことがわかるんだ。つまり、僕自身とはまったく関係がないっていうこと。
 違う言い方をすると、ものが記憶を失っているんだ。そのものが持っている来歴というものが失われて、ただモノとして再現されたものがそこにあるだけなんだ。だから僕はそれらを見て当然生じるべき感情を見出せない。まがいものだから。果物を見てもその甘さを思い出すことができない。どうしようもなくうつろで、全てが灰色のように感じられるんだ。だから、灰色の街。そこに僕は紛れ込んでしまうんだ。
 その夢の中で、僕はひたすら街の中をさまよっている。人もものもすべてがまがいものの街で、僕のよく知っているはずの人にも出会う。でも、僕は当惑してしまう。その人は、その人じゃないから。本来その人に抱くべき感情や、話すべき事柄というものを、僕は見出せないんだ。だって、本物じゃないんだから。
 夢の中で、僕は絶えず怯えている。偽物の知り合いや家族に声をかけられるのがもの凄く怖いんだ。どう対応していいかまったくわからないんだ。そして安らげもしない。どこもかしこもまがい物で、形だけコピーされたできそこないの合成写真みたいな場所ばかりだから。
 さまよっているうちに僕は駆け出す。怖くて怖くてどうしようもなくなるんだ。一刻も早くこの灰色の街から逃げ出そうと思って走る。だけれど、いつまでたっても僕は灰色の街から抜け出せない。ようやく夢の終わりに、いくら逃げてもこの街からはどうしたって逃げ出せないって悟る。そうして目が醒める」
「…………」
「何の機会だったかな、随分昔に桜井さんと夢について話したことがあったんだ。そのときに、ふとこの夢のことを話したんだ」
「……なんて言ってた、彼女?」
「『それは、幽霊の街だね』って」
「どうして」
「わからないんだ。桜井さんは笑って教えてくれなかったし、それ以後に聞くチャンスもなかったから。それに、僕にとってはもの凄く印象深かったけど、彼女としてはたいした意味をこめたわけでもなかったのかもしれない」
「それで幽霊について何か言ってなかったか、という話になるわけだ」
 高木君は黙ってうなずいた。
「幽霊、ね」
 誰にいうでもなく、つぶやく。
「いるのにいない、いないのにいる——」
 そのうち私は、とりとめのない連想に浸ってしまう。しばしして、高木君がじっと私の言葉を待っているのに気付いて、我に返る。
「ごめん。ちょっと飛んでた」
 高木君は気にかけない風で、いつもの相楽さんだね、と言ってくれる。
「で。何か思い当たった」
 私はかぶりをふる。
「うーん、全然。考えてみれば彼女、自分のこと、全然話さなかったじゃない?」
 それはあるね、と高木君は続ける。
「不思議だね。桜井さん、秘密主義というわけでもなかったのに」
「ね。絶えず人と一緒にいてわいわいしているイメージしかないのにね」
 ふと、私の脳裏にある光景が蘇る。
「そういえばね、こんなことがあったんだけど——」

 ある日の午後、彼女が言う。
「実は私ね、宇宙人なんだよ。トモちゃん」
「——へえ、それは知らなかったな」
 小夜は時折、いたずらっぽい目をして突飛なことを言い出す。それは彼女の遊びなのだ。
「銀河を巡る流浪の民なんだ」
「その宇宙人さんが」
 いつもみたいに、私は彼女に調子を合わせる。
「いったいどうしてこんなところで私とのんびりお茶してるわけ?」
 それにはね、といよいよ彼女は興に乗って来たように続ける。
「深い理由があるんだよ。そもそも流浪の民は宇宙の星から星へと移動するべき定めにあったんだ。これは魂の宿命とも呼ぶべきものでね、ひとところにじっとしていられないんだな。煙草とコーヒーとをこよなく愛し——」
「宇宙にも煙草とコーヒーがあるんだ?」
 そりゃあるとも、と私のつまらない茶々を一蹴する。
「——そして漂泊を常とする。そんな生き方を何千年、何万年も続けてきたんだよ。
 ところがだ。とある星系——まあ、太陽系のことなんだけど——を放浪しているときに宇宙船が故障してしまったんだね。それで地球という辺境の惑星に漂着することになる。これが大きな問題だったんだな」
「どうして?」
「定住する、ということを始めなくちゃいけなくなったからさ。
悲しむべきことに、地球に不時着した宇宙船はどうしようもないくらいに壊れてしまったんだよ。この星の技術では宇宙船は作り直せない。移動はどうしても制限される。そのうちに、この惑星でまともに暮らすには、放浪をやめて定住しなくちゃいけない、っていうことがどうしても呑み込めてくるんだな」
「なぜそれが問題になるの?」
 わかってないなあ、という瞳で首を振る。小夜はこういう大仰な身振りをよくする。
「流浪の民が星から星へと巡り歩くのは、絶えず自らの魂に共鳴するものを探しているからなんだ。常に自分の心に響くものを探しているんだね。だけれど、その欲求は満たされることがない。完全に共鳴することなんてあり得ないから。まあ、当然のことだけどね。だから一カ所に留まらずに違う星へとまた旅立つ必要があったんだ。
 それが、地球という一つの惑星に足止めをくらってしまったってわけ。これは実に困ったことだよ。いくら辟易したからって他の場所に行けるわけでもないからね」
「それだったら何か新しい楽しみを見つければいいんじゃないかな」
 とんでもない、とでもいうように大仰に肩をすくめる。
「それができれば、苦労はないんだけどね。残念ながらそううまくはいかないんだ。
 なぜって、地球人のやることといったら、まるきり様子が違っているからね。地球人の楽しみといったものは膚が合わないのさ。それこそかろうじてコーヒーと煙草ぐらいなものでね。そもそも言葉も通じない。何を考えているかも理解できない。相手のことを考えたり、他人に合わせたりするみたいな生活様式なんて、長い長い放浪の間のずっと昔に放棄しちゃったからね」
くすっと笑ったのを小夜は見咎める。
「なにか可笑しい?」
「そんな宇宙人さんが、今私と普通に話をしてるわけだけど?」
「日頃の努力のたまものだって。ここまでになるのに相当苦労したんだよ」
 などと大まじめな顔をしていう。
「大変な苦労だよ、トモちゃん。とてもじゃないけど言い尽くせないね、言葉では」
「『語り得ぬものについては、沈黙しなければならない』?」
「そうさね、その流儀にならって、細部は省略させてもらうことにしようかな」
 で、えーと、どこまで話したっけ? と彼女は言う。私は笑って、
「地球に足止めをくらって困ってしまった、ってところ」
「そうそう。そうなんだよ。それでね——」

 記憶はここで途切れている。
「宇宙人か。桜井さんらしいや」
「まったくね。よりにもよって宇宙人だなんて」
 ふふ、と顔を見合わせて笑う。
 ふいに高木君が神妙な顔をする。
「もしかしたら、僕も相楽さんも、彼女のコレクションだったのかもしれないな」
 もちろん悪い意味じゃないよ、と慌てずに言い添える。
「子供が珍しい石を拾って嬉しがるみたいにさ。彼女なりの価値基準があってさ、そういうものをずっと探してたんだろうね。それで波長があったものの中にたまたま僕らの作ったものが——いや、僕らがいたんじゃないかな。だって、あんなに面白そうに僕の書いたものを読んでくれたひと、他にいないもの」
 宇宙の暗黒に向けて当てもなく送り続けるメッセージ。ほんの偶然で波長があった誰かが受信する。奇跡のような確率。奇跡のような出会い。暗闇の中で私たちを見つけてくれるひと。私たちの中に埋もれたささやかな輝きを見つけてくれるひと。小夜はもしかしたら、そういう人間だったのかもしれない。
「そうね。うん、そうかもね」
 それはもう、自分自身に対する確認だったのかもしれない。
 ——そうだね。きっと嬉しかったんだね、私たちは。
 それから私たちは、また当たり障りのない会話に戻る。
 何の気なしに店内を眺めていると、あるメニューが私の目に留まった。
「そうだ高木君、カフェ・ロワイヤルって知ってる?」
 彼は首を振る。
「私も、実物は見たことないんだ。ちょっと頼んでみようよ」
 カフェ・ロワイヤルをひとつ、と年配のマスターに注文する。
「ねえ最近、書いてる?」
「いや……」
「……私も。なんだかんだで忙しいしね」
 ため息をつく。
「これから、もっと忙しくなるよ」
「高木君はどうするの、進路」
「僕は進学。院は違う大学に行くかもしれない。その辺は考え中。相楽さんは?」
「私は就職かな。文系だし」
 空になったカップを見つめながら高木君は、ぽつりと言う。
「小説か……たぶん、もう書かないんだろうな。僕は」
「……うん、私も」
 不思議だね、とつぶやく。
「そうだね、まったく不思議だ」
 しばらくすると、マスターがうやうやしくコーヒーを運んできた。カップの縁に渡したスプーンに、ブランデーを浸した角砂糖が載っている。
 角砂糖に火を点けると、音もなく蒼い炎が揺らめく。
「綺麗だね」
「でしょう」
 角砂糖が崩れ、炎の勢いも弱まったところでコーヒーの中に入れ、かき混ぜる。聞こえるか聞こえないかぐらいの、じゅっと炎の消える音。それから甘いブランデーの香りと、ほのかなカラメルの香り。
 その後に続いた沈黙は必ずしも居心地の悪いものではなかった。

 会計を済ませると、私たちは店を出た。いつのまにか、雨はやんでいた。
 お互いの行き先を確認し合って、ここでお別れだね、と私たちはいう。
「じゃあ、高木君。元気で」
「うん。相楽さんも」
 高木君と別れ、私は歩き出す。夜の街で人々は絶えずせわしくどこかに向かって歩いている。立ち止まることはなく、ひたすらにここではない場所へ向けて移動している。暗い宇宙に散らばる無数の光点はすれ違い、交わることはない。
 先ほどの会話を反芻する。
「幽霊の街、か」
 その言葉から、私は空想をする。彼とも彼女とも違う空想を。それは、もはや人影の絶えた古代の都市。美しく白く輝く大理石でできた、綺麗な廃墟。ただ風が吹き抜けるだけの場所。もはや訪れる者もないその土地は、私の奥底にある。
 そこはこれから、ゆっくりと水底に沈んでいくのだ。白い大理石の石柱が、回廊が、神殿が、冷たく透明な水に、音もなく埋まっていく。やがて、全ては水に浸され、澄んだ深い青の中に完全に沈む。やがて人々の記憶は風化し、かつてそんな都市があっただなんてことは、忘却の彼方にうずもれてしまう。それが幽霊の街。その街はずっとそこにあるのに、もうそこには存在しないことになる。
 旅人が去り、道が途絶え、都市が風化する。
 私たちが彼女を喪ったというのは、きっと、そういうことなのだ。

〈了〉

初出:GARIO+カノウソウスケ『短篇小説集 「擬」』 2015.9.20

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