窓の向こう側(後編)

<承前>

 それからの一週間はすぐに過ぎた。ただでさえ速く過ぎていく時間がさらに速度を増したかのようだった。それゆえ、過ぎていく日常はぼやけた遠景のようで、読み流す英文の一節一節が、あるいは数学や国語の問題の一問一問が、確かに頭の中を通り過ぎ処理されていくというのに、何もかもが他人事のようで、自分自身ではない誰かが機械的にこなしているみたいだった。理科や社会の問題を解けば、記憶装置が要求された知識を吐き出した。しかしそれは内容を本当の意味で理解しているのではなく、ただ単に引出にしまわれた語彙を自動的に取り出して並べているに過ぎなかった。それらは単にルーティンワークに過ぎず、情報の処理にかかる反応時間と正確さを計測する作業に過ぎなかった。それは苦痛ですらなかった。試行回数が増えれば増えるほど精度は上がり、成績が上がる。言ってしまえば精度を上げるための調整を際限なく続けているのだった。
 部活にも顔を出さなかった。思えば、もうかなりの期間、顔を出していない。引退してしまっているので別に顔を出す義理もないのだが、木曜を除いて美術室に出入りすることはほとんどなかった。
 過ぎていく日々はまるで、漠然と砂時計を眺めているようなものだった。俺は砂が音もなく落ちるのに任せ、最後の一粒が落ちるその瞬間をただ待っているのだった。
 日常の全てが、砂時計のように内部で完結していた。何もかもが透明なガラスの壁の中に鎖されていた。時間と重力の支配するままに、次々と新しい毎日が現れては消滅していった。俺はその見えない力に逆らうすべもなく、毎日を過ごすのだった。
 不思議なことに、周囲の人間がそんな考えに取り憑かれている様子は微塵もなかった。過ぎていく日々にさしたる疑問を抱いている様子もなく、それどころかそもそも疑問を差し挟む余地のないものであるかのように人々は動いているのだった。
 だから俺は、そんなことを考えているとは周囲に露ほども悟られないよう、細心の注意を払って振る舞わねばならなかった。だが、ひょっとすれば、実は誰もが同じように考えていて、単に誰も口に出せないだけなのではないか。そう思うこともあったが、問いをぶつける相手が俺にはいなかった。
 
 
「おはようございます、奇遇ですね」
「おはよう」
 次の木曜の朝、学校の手前で斉藤と一緒になった。登校の途中で出会うことなど滅多にない。それをいうなら、ここ何ヶ月かは木曜以外に会うこと自体がほとんどまれだった。
 朝のうららかな陽光のもとでは、斉藤の姿や表情もまた違って見える。少なくとも、日の傾く頃のそれとは明らかに異なっていた。その違い方に、俺は若干の違和感を覚える。何がその雰囲気の違いの源泉だろうかと考えていると、右の手首に包帯を巻いているのが見えた。
「おい、それ。どうしたんだ?」
 え、と一瞬虚を突かれた顔をしたが、俺の指す方向を見て、
「ああ、これですか。センパイ、めざといなあ」
 猫ですよ、と屈託のない顔で笑う。
「近所の猫に引っ掻かれたんです」
 遊ぼうとしたら機嫌損ねちゃったみたいで、と無邪気に笑う。
「心配しなくても、そんなにひどい傷じゃないですよ」
 自然なやりとり。何の含みもてらいもない。ごく自然な――だがそれゆえに、何か奇妙な齟齬がそこにあるように感じられた。何の翳もない微笑み、それは俺が斉藤に見出したものとは全く逆の類のそれで、今目の前にいる斉藤が、まるで見も知らぬ他人のような気がした。ましてや、あの薄暗闇の中で俺に問いかけてきたのと同じ人間であるとは到底思えなかった。
 あるいは、人はこうまで見事に自分の性質を隠しきれるものなのだろうか。ここまで自然に演技できるものなのだろうか。ひとりの人間の中にある、あまりに解離した二面性を垣間見たような気がして、ふいに背筋が寒くなった。
「なんですか?」
 急に押し黙った俺を訝しんで、斉藤は首をかしげる。
 すると、予鈴が鳴る。
「いけない。ホームルーム始まりますね、それじゃ放課後に」
 そう言って駆けていく背中を、俺はそっと見送った。
 
 
 結局、その日の授業は輪をかけて身が入らなかった。斉藤のことが気がかりで、ほとんど集中というものができなかった。いくら考えても奇妙な感覚はぬぐえず、明瞭な答えに到達することはなかった。思考はもやもやとしたまま一向に形にならず、ただひたすらあてどもなくさまよい続け、何度も何度もぐるぐると同じところを回り続けることを繰り返すのだった。
 放課後が近付く頃には、ようやく思考の迷宮から抜け出して絵のことを考えることができるようになっていた。そうだ、絵を描かなければ。余計なことを気にしている場合ではない。考えないことにしよう。そう言い聞かせる。とはいえ、思考の奥底ではその疑問が暗流のように絶えずうごめいているのだった。
 授業が終わり、放課後になる。俺はすぐに美術室へと向かい、早々に支度を済ませた。当然、時間が余る。そうすると、考えないことにしたはずの事柄がつい意識の表層に登ってきそうになる。そんな雑念を振り払って、描きかけのキャンバスへと向かう。
 下書きをしたキャンパス。これに色を重ねていくのだ。夕方から夜へと移り変わる、微妙な光の加減。その変化を掬い取れるかが問題だった。さて、どうしたものか。
 一旦絵のことを考え始めると、俺は次第にそのことに没頭していった。
 そうして小一時間も経ったろうか。
「こんにちは」
 声と共に、いつものように美術室の扉が開く。空いている机の上に荷物を置く。用意された椅子にかける。慣れたもので、さっそく準備は万端だ。ジグソーパズルのピースがはまるように、何もかもが収まるべきところに収まる。そんな印象を受ける。
 スベカラク、ベシ――そうであるように、せよ。漢文のそんなフレーズが思い浮かんだ。今朝感じた奇妙な違和感などどこにも見当たらない。
 何もおかしなところはない。
 何も。
 当然のようにそのことを受け入れている自分と、当惑している自分とがいた。俺は言葉に迷う。視線が、宙をさまよう。自然と俺の視線は斉藤の手首に吸い寄せられる。制服の袖から出た膚は透き通るように、白い。俺の目はそこに釘付けになる。斉藤は俺の視線に気付く。
「どうしました?」
 思わず俺は口に出していた。
「ない」
「?」
「傷が――ない」
 斉藤は事態を呑み込めていないようだった。
「傷だよ。今朝俺に見せただろう。手首、猫に引っ掻かれたって」
 興奮した俺の言葉は途切れ途切れになる。
 不思議そうに自分の手と俺の方を交互に見やる。
「へえ――ボク、そんなことを言ったんですか、本当に?」
 ぐらっ、と地面が揺らいだような気がした。
 そう言われると、なんだか自分の方がおかしなことを言っているのではないかという気になった――まるで、俺の記憶が間違っていたかのように。だが現に目の前の斉藤の手には傷がないのだ。それに、斉藤の訝しげな素振りにも演技臭さは微塵もない。
 急に自信がなくなってきた。
 朝のやりとりはいったいなんだったのか。あれは自分の記憶違いだったのか。そもそもそんなやりとりはなかったのか。いや、あれは確かに……
 すると斉藤は、急にいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「センパイ、SFって読みます?」
 俺は反応できない。
「? 藪から棒になんだ?」
「タイムリープ、って知ってますか」
「……?」
 息をひとつ吸って、斉藤は言った。
「ここにいるのは昨日のボクなんですよ」

 タイムリープ。時間跳躍。聞き慣れない言葉。
 あるいはタイムスリップ。タイムトラベル。いわゆる時間の移動。
 今、俺の目の前にいる斉藤は「昨日」の斉藤なのだという。毎週毎週、水曜の夜、三時間ほど、「時間跳躍」をするのだという。ちょうど木曜の、この時間帯に。そうしてまた、もと来た水曜日に戻るのだ。
「はじき飛ばされては、また押し戻されるような感じですね」
 斉藤は説明する。その言葉を借りれば、あるときから時間の糸が「ほつれ」てしまったのだという。そういう奇妙に絡んだ時間の中を生きてきたのだと。
「子供の頃、雷に打たれたことがあるんですよね。よくわからないけど、そのせいかも」
 水曜の夜から木曜の夕方へ、そしてもと来た時間に戻り、何事もなかったかのように次の日がやってくる――予定された木曜日が。何年も何年も、その奇妙な一週間のサイクルを繰り返してきたのだという。
 きっと誰もが抱くであろう当然の疑問を、俺は口にした。
「それって、便利じゃないのか。その――たとえ翌日のことしかわからないにしても、あらかじめ先のことがわかるなら、うまく思い通りに未来を変えられるんじゃないか。例えば――まあ、テストの問題がわかるとか」
 斉藤は曖昧な表情を浮かべた。
「それが、そうでもないんですよ。なかなかそんなにうまくは」
 そうやって、言葉を濁して、俺から視線をそらした。
 おそらく、嘘を言っているつもりではないのだろう。故意につく嘘にしてはあまりにも大仰だ。騙すつもりのないホラの類だと言ってもいいかもしれない。
 確かに、それで整合的な説明ができるように思えなくもない。仮に本当だとして、朝出会った斉藤と目の前の斉藤が何らかの意味で違う、という俺の直感に反するものではない。だが、時間跳躍とはあまりに荒唐無稽ではないか。
 では仮に、本当でないとしたら――
 自分で、そうだと信じ込んでいるのだろう。
 ひょっとすれば、それは何か心の中の相容れない異質な側面を取り繕うために、斉藤自身が全くの架空から造りだした説明ではないのか。そして、自分で造りだした虚構をあたかも事実であるかのように錯覚しているのではないか。
 だとすれば、あまりにもたやすく脆く崩れてしまう危うさを孕んでいるのではないだろうか。それは決して迂闊に触れてはならない領域であるに違いない。砂上の楼閣のように、ふとした拍子に全てが崩れてしまうのではないか。すんでのところで成り立っている危うい均衡を崩してしまうのではないか。そんなおそれが俺の脳裏に走った。
 俺は、それ以上斉藤の話に深入りするのをやめた。
 二言三言当たり障りのない会話を交わし、いつものように「始めようか」と俺が言うと、斉藤は静かに微笑んだ。どこか諦めたような寂しげな微笑だった。
 
 
 それから数週間、俺と斉藤が時間跳躍のことを話題にすることはなかった。
 
 
 数週が経ち、絵の完成は順調に近付いていた。ほとんどもう最後の仕上げにかかる頃だった。残るのはもう、ほとんど微細な仕事であり、わずかなバランスを調整するだけだ。しかし微妙な筆致のせいで全てが台無しになってしまう危険性もあり、気の抜ける作業ではなかった。
 その日は朝から雨が降っていた。冬の、冷たい雨だ。予報では前線の影響で一日中雨が続くとのことだった。
 冬は静かに、しかし確実に訪れていた。雪こそないものの、日は短くなり、夕闇は深まった。いつ初雪が降ってもおかしくない。
 家を出た時静かに降っていた雨は、学校に着く頃には強さを増していた。
 その頃にはもう自転車は物置に押し込められ、バスで通学するようになっていた。車窓に当たる雨滴が次第に勢いを増し、確かな固い音でガラスを叩くようになると、どんよりとしたうろんな気分に俺は襲われた。乗客が詰め込まれ、しめった熱気がこもったバスの車内には、重たい滅入るような気体で充ち満ちているかのように感じられた。
 ――灰色の景色だ。
 眺める風景からは色が失われていた。空は暗い灰と黒のまだらの雲で埋め尽くされていた。草木は枯れていた。道路の脇は色あせた落ち葉で埋まっていた。側溝から泥水があふれ、小川は濁流と化していた。町並みからは、生気が失われていた。まるで誰も彼もが消えてしまったかのようだった。そして、雨、冷たい雨、ひたすらに冷たい雨が視界に入るもの全てを無慈悲に打ちすえていた。
 これまで、これほどまでに陰惨な風景を目にしたことがあったろうか。
 車内のいやな暑苦しさの中で、いつしかひどい寒気を覚えていた。学校の前の停留所に着く頃には、俺はもう立っているのもやっとだったように思う。
 強い雨風の中では傘も役に立たず、ほとんど濡れ鼠寸前の状態になりながら校舎の中に駆け込んだ。こんな雨に打たれ続けたら、身体の芯から凍えてしまいそうだった。教室のストーブの温風が、まるで暖かい恩恵であるかのように思えた。
 その後、風雨の勢いは衰えるどころかさらに強まり、授業の間ずっと外で風がごうごうと叫ぶ音が薄暗い廊下に響いていた。
 そんな天候のせいか午前中の授業が終わる頃には、疲労と眠気がどっと押し寄せてきた。身体が重く、昼休みになっても、すぐに何かしようという気になれなかった。
 そのうちに、戸口の辺りに見慣れない人影があるのを認めた。松田だ。廊下から教室の中をせわしなく見回している。誰かを探しているらしい。俺の視線を認めると、松田は俺を招き寄せる。俺か。しかし何か身振りが落ち着かない。
 何の用だろう。
 そばへ行くと、誰が聞いているわけでもないのに、松田は声を潜めて言った。
「お前、斉藤のこと、聞いたか?」
「何のことです?」
「そうか、聞いてないか……」
 息を吸う。
 いいか、落ち着いて聞けよ、と松田は言った。
「斉藤が死んだ」
 その言葉を認識するのに、ひどく時間がかかった気がする。ようやく口を開いて出てきたのは「は?」という気の抜けたような言葉だった。
 松田はもう一度、一言一句言い聞かせるように言った。
「斉藤が、死んだんだ」
「――死んだ?」
 松田はゆっくりとうなずく。
「ああ」
「死んだ? なんで」
「交通事故に巻き込まれたそうだ」
 俺はそういう言葉を求めていたわけではなかった。なぜ、斉藤が死ぬのか。いったいどんな必然から斉藤が死なねばならなかったのか。きっと俺が聞きたかったのはそういう類の言葉だった。しかしいくら待っても松田の口からは俺の望む言葉は出て来なかった。代わりに吐き出された言葉は俺の耳までうまく届かなかった。ちょうど単語がところどころぽろぽろとこぼれ落ちてしまって意味の通る文章にならず、結局俺にわかったのはただ松田が何かを喋っているということだけだった。
 何か悪い夢の続きでも見ているようだった。
 夢。思えば、ずっと夢を見ていた気がする。随分遙か昔の、いったいいつからが夢だったのか、あるいはどこまでが夢だったのか判別がつかない――そしていつのまにか松田は去り、俺は自分の席に戻って座っていた。
 気付けば、午後の授業は終わっていた。天気が悪いので気を付けて帰るように、というクラス担任の言葉を最後にホームルームが終わると、まばらにクラスメイトたちが帰り始めた。放課後なのだ。
 俺は美術室へと足を運んでいた。
 職員室で鍵を借りるときに松田が何か言っていたかもしれない。わからない。
 準備室から道具を取り出す。いつものようにキャンバスを準備し、絵を描く用意をする。今日は絵の最後の仕上げをしなくてはならない。
 電気も点けず、支度だけして俺は待っていた。
 もう夜の支配する時間だった。部屋は暗闇に包まれていた。廊下で、緑色の非常灯がかすかに照らしているのがわかる。人の気配は露ほどもない。
 だが今日は木曜日だ。約束があるのだ。
 待っていなければならない。
 そう、もし斉藤が来たときに俺がいなければ、あいつは、斉藤は――
「やめろ」
 知らず、俺はつぶやいていた。
 来るはずはない。来るはずがないのだ。
 あいつはただ大げさな冗談を言って俺をからかっていたに違いないのだ。あんなことは絵空事だ。せいぜいがあいつの途方もない思い込みに過ぎない。
 だが、仮にだ――もし仮に、あいつの言っていたことが本当だったとしたら、俺が今帰ってしまえば、あいつを待つのは誰もいない空っぽの美術室だけということになってしまうではないか。だとすれば、こんな嵐の、こんな寂しい暗闇しかあいつを待ってはいないのだ。あいつは今日の朝には死んでしまうというのに。
 しかし、来たところで――俺に何ができるというのか。お前は今朝死んだのだ、と告げてやればいいのか。そんな馬鹿な。いや、それを伝えれば斉藤は死ななくても良くなるかもしれない。
 わからない。来ないかもしれない。来るかもしれない。
 できれば来ないでくれ、と俺は願っていた。しかし俺は待ち続けた。
 部屋は暗い。ひたすらに暗い。悲痛に叫ぶような雨と風の音だけが聞こえる。
 そこで、がらがらと――こんなに大きな音がしたのかというほどに――音を立てて、美術室の扉が開く。「こんにちは」。
 窓の外で、稲妻が光った。暗い外の景色を雷光が青白く一瞬照らした。
「どうしたんです、こんなに暗くして」
 雷の音が響く。近い。斉藤は、怖いな、とつぶやく。轟いた雷鳴に向けて言ったのか、俺に向けて言ったのか。
「電気が点いてないから、センパイいないと思ったじゃないですか」
 ざあざあと降りしきる雨の音。俺は黙っている。斉藤は電灯のスイッチを入れる。一瞬おいて青白い蛍光灯が点く。寿命が近いせいか、ちらつきがひどい。
 目の前に斉藤が座る。
「雨、ひどいですね」
 俺が口を開かないせいか、斉藤はぽつりとつぶやいた。
「こんな雨の中、帰りたくないな」
「…………」
「冬の雨、っていやですよね。身体の芯まで冷え切って、凍ってしまいそうになる」
「…………」
「どうしたんですか、センパイ。本当に――」
 俺はつとめて斉藤の方を見ないようにした。
 ふと、ひとり得心したような顔を、斉藤はした。
「ああ、そっか。ボクは……」
「言うな」
 考えるより前に、俺は声に出していた。言えば本当のことになるような気がしたのだ。
 本当のこと――本当のことってなんだ?
「わかりますよ。ボクは、もう……」
「それ以上言うな……言わないでくれ」
 斉藤は困ったように微笑んだ。大人がものわかりの悪い子供を前にしたときの笑みだ。
「予感って、当たるものですね。いつかこんな日が来るんじゃないかと思ってたんですよ。
 前に、センパイ、ボクに聞きましたよね。あらかじめ未来のことがわかるなら、都合良く未来を変えられるんじゃないかって。でも、変えられないんですよ。絶対に変えられないんです。このボクが観測してしまった時点で、それはもう未来ではないんです。
 今日、ボクが死ぬという事象は変えようがないんです。それはどうあがいたところでそうなんです。
 もちろん、ちょっとしたディテールを変えるくらいはできるでしょう。でも誤差の範囲です。それ以上は許してくれない。
 速い川に流されていくのと同じなんです。多少じたばたすることができたところで、結局下流に向かって流されていくだけなんです。そのこと自体は変わらない。流れを変えるだなんてことは到底できっこないんです」
「そんなの、やってみないとわからないだろう」
「やってみました」
 あの寂しげな笑みを浮かべ、やってみたんです、と言う。
「これまで、色んなことを――それこそできる限りのことを――試す機会がありました。事前に何が起きるか知っていれば、きっと未来を変えることができると思って。
 でも、駄目なんです。飛行機事故が起こると電話しても、取り合ってもらえない。仮に取り合ってもらっても、現場まで伝わらない。事故は必ず起きるんです。テロだろうと殺人事件だろうと、どんな手を打とうと、結局未来は変わらずに、ボクの見たことと矛盾が起きないような形で過ぎていくだけなんです。ボクは未来に対して何の影響も与えられない。何の作用もできないんです。ただただ確定してしまった『明日』を受け入れるより他ないんです。
 明日のことがわかるって、どういうことなのかな。あらかじめ起こることがわかっているのに変えられないなんて、ガラスの檻の中に閉じ込められてるみたいだ。目に見えない透明な壁に遮られて、どうすることもできない――逃げることすら。タイムリープのせいで、理由もわからないまま、理不尽な檻の中に放り込まれてしまったんです」
 斉藤は俺の方を向いて、言った。
「センパイは、どうしていつもこの時間、ボクが学校にいたのかわかります? 本来の木曜日のボクはさっさと学校から帰ってしまっていたというのに」
「…………」
「ここなら絶対に人に――特に自分に、出くわさずに済むからなんです。
 一度だけ――一度だけ、木曜日のボク、つまり正しい時系列に生きているボクを見に行ったことがあるんです。そのときにわかったんです。ボクは、ニセモノだって。
 ニセモノ、というのとはちょっと違うかな。そうですね、ちょうど何かの間違いで生じた『揺らぎ』みたいなものなんです。世界の仕組みのちょっとした間違いを調整する辻褄合わせのための。
 だから本当の意味では、ボクはボクではないんです。同じ世界にボクが二人いる。片や、昨日から連続して存在している自分で、もう一方は降って湧いたように現れた影のような自分。何の必然性も根拠もなくここにいる、ふいに紛れ込んだ雑音みたいなボク。そう考えると、自分は本来ここにいるべきじゃないんだ、ここにいてはいけないんだ、そういう気持ちでいっぱいになるんです。だってそうでしょう、ボクは今日のボクじゃないんだから。誰かが話しかけてきても、それは、木曜日のボクに対してであって、昨日から来たこのボクに対してではないんです。そうするとまるで、身に覚えのない罪業で責められてるような気になるんです。
 だから、誰にも見つからないように隠れてなくちゃいけなかった。それに、同じ時間に違う場所にいた、だなんてことになったら困りますから――それで、学校にいたんです。
 でもいったい、ここにいるボクはなんなんだろう。今日、木曜日の今この時間、本当のボクはもう死んでいるんですよね。だとしたら、ここでセンパイと話しているボクはいったい何者なんだろう。残響? 残り火? 幽霊みたいなものですよね。今日という日にボクの居場所はもともとないんです。ただ何かの手違いでここに連れてこられただけなんです。後は泡がはじけるみたいに、ただ、消えるだけ――」
「…………」
「センパイの絵は――冷たくて、暗いですよね。でも、なんでかな、センパイの絵を見てると、ボクは安心するんです。ああ、この絵の中にはボクの居場所があるんだ、って。それで、ずっと気になっていたんです。
 あの日センパイから、ボクをモデルに絵を描きたい、と聞いたときの気持ちがわかりますか。あのとき、ボク、本当に嬉しかったんです。だって、ニセモノとしてでなく、他でもない、このボクを――描きたいと、言ってくれたから。この世界にどこにも居場所のないボクを、認めてもらったような気がしたんです」
 ああ、できたらもっと話がしたかったな、と斉藤はつぶやく。それから斉藤は何かを言いかけ、やめた。代わりに微笑んで、言った。
「ですから、ね、センパイ。完成させてください。もう時間もありませんから」
 俺はしばし斉藤を見つめた後、絵筆をとった。
 キャンバス全体をにらむ。そこには、俺がこれまで色を重ねてきた景色が広がっている。だが、まだ足りない。そこに斉藤のまとう陰翳を、空気を、そのまま撫でつけるように、丹念に仕上げなければならない。絵に欠けた部分を埋めていくプロセス。そこに言葉が介在する余地は、もうなかった。思考と感覚が一体となって時間と空間をとらえ、四角いキャンバスの上を走る。俺はその指し示す通りに、色を載せていく。
 ――そしていつしか、最後の一塗りが終わった。
 斉藤の姿が、そこにはあった。昼でも夜でもない領域。その淡い蒼い時間の中で、いずことも知れぬ遠く窓の外を眺めていた。俺にはもうこれ以上手を加える余地がなかった。
 俺は大きく息をつく。
「完成ですか」
 俺はうなずく。
 見てもいいですか、と聞くので俺はもう一度うなずく。斉藤は俺の後ろに回り、肩越しにキャンバスを見る。
「……わあ。これがボク? ボクなんですね?」
 なんだか、恥ずかしいな。そう言いつつも、満更でもなさそうだ。
「絵の具が乾いたら、もう少し馴染んで落ち着いた感じになるだろうな」
「でも、時間が経ったからといって悪くなるわけでもないんでしょう?」
「まあな。経年の劣化でより引き立つ、という場合もある」
 へえ、それは楽しみだな、と斉藤が言う。
「タイトルは?」
「まだ、決めてない」
「じゃあ、お願いだからボクの名前を使うだなんてダサい真似は絶対にやめてくださいね」
 わかった、と答える。ずっと張りつめていた空気がゆっくりと緩んでいく気がした。
「ねえ、センパイ」
「なんだ」
「タイムリープする理由がわからないんだったら、この先をどう想像するのも自由だと思いませんか――例えば、そうだな。ボク自身は今日、死んでしまうんだけど、今ここにいるボクはずっとタイムリープし続けるっていうのはどうですか。
 時間が切れて、いつか今日その瞬間に戻ってこなければならないそのときまで、ずっと時間を跳躍し続けるんです。
 今日から明日、その明日、そのまた明日。ずっと未来を転々と飛び回るんです。残された時間がいくらかはわからないけれど、ずっとずっと遠くまで。そうして、いつか未来のセンパイの前に現れるんです。 
 きっと将来のセンパイは、すごい画家になってるんですよ。そう、ボクはまだ何点かしか見たことがないけれど、センパイはずっと絵を描き続けて、その頃にはたくさん作品があるんです。個展だってやってるかもしれない。この絵だって、その頃には、もっと――。
 それって、素敵じゃありませんか」
 そこで斉藤は、何かに気付いたようにふと、小さな声で言った。
「あ――でも、会いに行った未来のセンパイが絵を描いてなかったら、寂しいな」
 描く、と俺は言う。
「描くよ。描き続ける」
 後ろで斉藤が、ふっと笑った気がした。
「約束ですよ、センパイ」
 その言葉が最後だった。振り返ると、斉藤はもうそこにはいなかった。
 俺は廊下に飛びだした。
 しかし暗い廊下に人の姿はなく、ただ雨と風の吹きすさぶ音が満ちていただけだった。

 それから、のことは蛇足になるかもしれない。
 自分自身の確信とは裏腹に、俺は十八を過ぎても生き続け、まだ絵を描き続けている。
 俺は進路を変更し、美大の油彩科を受験することにした。遅すぎる進路変更ではあったが、顧問の松田の強い援助もあり、僥倖ながら現役で合格することができた。
 大学生活が充実したものになったのは、俺にとっては意外なことだった。絵を描くことに打ち込めたのもあるが、軌を同じくする知己を得たこともあったかもしれない。
 美大を卒業しても、絵で食っていくようなことにはならなかった。結局、紆余曲折あって、母校の美術教員として採用されることになった。美術の松田には教育実習でも世話になったが、俺が教員になるのとちょうど入れ違いに退職し、結果的には俺が美術室の鍵を譲り受けたという形になる。
 窓際で煙草を吹かしながら、あの頃とさして変わりのない雑然とした美術準備室の奥を見やる。そこには、一枚の絵が立てかけられている。
 描かれた人物の外見の幼さとは反対に、物理的存在としての画布そのものは、歳月の経過と共に少しずつ徐々に傷み朽ちていくことを続けている。処置をせず、時の流れるままに任せているのだから当然だ。河が流れゆくように、時間は不可逆的に流れる。俺が年を取ったように、この絵もまた年を取る。つまりは自然の摂理――それだけの話に過ぎない。とはいえ、古びていくと共に、これまでなかった新たな味わいのようなものが生まれてくるのもまた事実である。
 今日、俺はキャンバスに向かう。来週も、再来週も俺はここで絵を描いている。そしてその次も、そのまた次も。
 絵を描くことはやはり、待つことに似ている。
 時間は、よどみなく流れる。その流れはおよそ逆行することがない。
 しかし、あるいはいつか、と思わないでもない。
 いつか、遠く過ぎ去った懐かしい昨日が、ふいに俺の肩を叩くのではないか。いつか、「センパイ」と呼ぶあの透明な声と共に美術室の扉が開くのではないか。いつか、有限の時間の軛を飛び越えて、あいつが目の前に現れるのではないか。
 もちろん、それは他愛のない空想に過ぎない。
 だがその決して訪れぬ未来の瞬間を、きっと俺は、ひそかに待ち続けている。

<了>

初出『窓の向こう側・暗青色の夜』2015/11/21

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