彼女は森の暗がり(3/4)

(承前)

<三>

 夏乃は僕の知っているタイプの人間ではなかった。
 これまで女の子と付き合うということも何度かあったが、夏乃はその誰とも違っていた。女の子たちは自分の話をすることを好んだし、自分に関心を持たれることを何より欲していた。付き合うということすら、そこにいない誰かの関心を惹くことの一手段であったのではないだろうか。だから、一緒にいて僕が安らぐということはなかった。僕はいつだって、彼女らの望むように返答してやらねばならなかったのだ。自分たちが特別な存在であるという儚い幻想を壊さないように、丁寧に扱わねばならなかった。しかし、そうやって丁重に扱えば扱うほど、彼女たちのどうしようもない凡庸さがかえって際だってきて何かぎくしゃくしてくるのだった。そして結局、どうしようもない凡庸さのために彼女たちは特別であることに耐えきれず、関係はいつも破綻するのだった。
 夏乃はといえば、あんなに特別な存在でいるくせにてんで自分自身というものに関心があまりないようだった。そのことがかえって異様だった。自分というものを考慮していないがゆえにどこかいびつなところがあった。
 彼女自身、まったく肉のにおいというか、人間くさい香りがまったくしなかった。血なまぐささや、何かどろどろとした感情や欲求といったものは完全に漂白あるいは濾過されていて、ほとんど彼女自身の表面に出ることがなかった。まるで、そういうものとはまったく無縁の存在であるかのようだった。もしかしたら、そういった異質さのせいで彼女は人々の意識に登らないよう遠ざけられていたのかもしれない。
 実際、彼女が何を求めているのかは僕にはわかりかねた。
 夏乃が僕に何を希望し、期待しているのかなんて、わかりようがなかった。好意のようなものがあるのかすらわからない。諸々のことは、最終的にはただのなりゆきでそうなったとしかいいようがなかった。
 彼女自身は、なぜこの現象――死んだはずの父親が帰ってくる――が起こるかという理由に対する関心がまるっきり欠落しているかのようだった。
 一度、言ったことがある。
 お父さんが帰ってきても、そのまま放っておいたらもう新しいお父さんは来ないんじゃないかな。
 夏乃は、いつも通り、にこりともしない顔で言う。
 それで、どうなるの。
 どうなるって?
 結局お父さんがひとり手元には残るわけでしょう。新しいお父さんが来なくても、いるだけで問題なのよ。放っておくわけにいかないじゃない。
 それに――
 それに?
 もしそれに加えて新しいお父さんが来たりでもしたら、とてもやってられないわ。
 そんなことはさすがにないと思いたいけど、と自分で言って彼女は首を振った。
 あるときなど、あまりに僕がしつこいので夏乃は言った。
 浅田君は、理由が知りたいのね。
 知って、明らかにして、それからどうするの?
 僕が言い返そうとしたのを遮る。
 理由がわかってもどうにもならないことって、あるのよ。
 もし理由がわかってもお父さんがやって来続けるのだとしたら、どうでしょうね。浅田君だったら、少しは楽になれると思う?
 僕は、答えられなかった。

 夏乃は、一見強情な方ではなかったが、こと父親に関わることとなると御意見無用となるのだった。
 この山は夏乃の家の敷地なのだから、死体を埋めずに、適当な場所に放っておけばいいじゃないか――あるとき僕はそう主張した。きっと誰も見つけられはしないだろう、と。
 何もわかってないのね、というふうで夏乃は首を振る。
 野良の生き物が食べ散らかすのよ。
 野良の生き物って、何。
 鴉とか狐とか、犬だっているわ。蟲(むし)だって湧くし、においもひどいのよ。
 それに、森に勝手に入ってくるひとがいるのよ、と彼女はいった。
 山菜を採るんですって。こんなところに生えてるものを食べるなんてね。
 信じられない、とでもいいたげな口調だ。
 だからやっぱり土の中に埋めるしかないのよ。誰にも見つからないように、深く。

 ひとつはっきりしているのは、父親を殺して埋めることが紛れもなくある種の定期的な業務として彼女の日常の中に組み込まれていることだった。
 日常。
 彼女にとって、父親を殺して埋めることは、朝日が昇り、夕日が沈むことと同じようなものなのだった。それはある種のシステム――いうなれば秩序だった。
 父親を殺すのも、父親を埋めるのも、それは単に死んだはずの父親が来るからであってそれ以上のことではない。あるいは、決してそれ以上のものであってはならないのだ。時計を巻くのと同じように、食事を作るのと同じように、終わりなく、とめどなく、無数にやってくる日々の雑事。その一環に過ぎないのだ。
 ひたすらに目の前のものを処理すること。ただひたすら継続すること。それが彼女が続けてきたゲームの唯一のルールなのだ。そこでは、なぜという問いは意味をなさない。ゲームのルールに意味などないのだから。
 僕と彼女との間に横たわる深い溝に、僕は今さら気付いた。

 彼女はこの生活をずっと続けていくつもりなのだ

 満月の晩にやってくる父親を殺しては埋め、殺しては埋める生活。それ以上先の世界など彼女には存在していないのだ。文字通り無いのだった。
 地理の教科書に載っていた、コロンブス以前の時代に作られた世界地図を僕は思い出した。あの、大地は平坦で、世界の端までいったらそこでおしまい。その先に広がるのは完全な無、という空想の地図のことを。
 どうして彼女はこんな生活を続けられるのだろう。
 広いプールに放られたネズミは、最初は岸を探して必死に泳ぐけれども、いつまでも岸が見つけられないとそのうちに諦めて泳ぐのをやめてしまうという。それ以降は、どんなに岸が近くに見える状態で放されても二度と泳ぐことはせず、そのまま沈んでいくという。
 救いがあるわけでもない。まともな終わりが来るわけでもない。ただひたすら同じことを繰り返すだけ。どんなに頑張ったところで閉鎖的な結末しか待っていないように思えるこんな生活を、どうすれば正気を失わずに続けられるのだろうか。
 ――きっと、彼女は人生に対して何ひとつ希望を抱いていないのだ。
 彼女の生活は、報われることを何ひとつ期待しないからこそ成立する類のものだった。
 僕には想像できなかった。
 彼女は、ただ生きるためだけに生きている。そのために父親を始末しては、実に巧妙に平凡な日常生活を偽装している。だからといって、そこに特に理由があるわけではない。その先にはどこにも出口などないのだから。どれだけその不毛な生活を続けたところで、得るものなど何もないのだから。
 でもそんなことは、夏乃は百も承知だ。彼女にとってはなんでもない問題なのだ。
 問題は、僕だ。
 僕自身が、いつのまにか彼女の日常に深く入り込んでしまっていることだ。
 彼女の日常が、僕の人生に影を投げかけているのだ。
 水が染み込むようにひたひたと、いつのまにか、僕は彼女の日常に巻き込まれてしまっている。侵蝕されている。いや、取り込まれてしまっているというべきか。
 僕は、果たして引き返せるところにいるのだろうか。
 もう嫌になった、とでも言えばいいのだろうか。もううんざりだ、とでも言えばいいのだろうか。あるいは、もう手伝いたくない、とでも? そう言えば僕は元通りの生活に戻れるだろうか。土のにおいも死臭もしない生活に。
 駄目だ。
 どうしようと、夏乃は簡単に僕のいうことを拒否できる。
 僕は関わり過ぎたのだ。
 仮に、僕が逃げたとしよう。
 彼女は適当な死体をひとつ掘り出して警察に告げるだけでいい。僕が父親を殺したのだと。
 大の男ひとりを埋めるといったら大仕事だ。夏乃自身が殺して埋めた、というよりよっぽど信憑性があるはずだ。僕が父親を殺した――あるいは殺しはしないものの、埋めるのを手伝ったとみるのが妥当な線だろう。
 そうすれば、どうなる?
 考えたくもなかった。
 本当のことを説明してみようか――夏乃の父親は満月のたびに家に帰って来るんです。仕方がないので、僕たちは殺して埋めていたんです――誰が信じるだろうか。
 明白だった。
 僕の運命は、完全に彼女に握られている
 今や僕も、夏乃の側の人間なのだ。
 夏乃が父親の影に追われるように、どこへ逃げても呪いのように彼女の影がついて回るのだ。
 とはいえ、このままの日常が続いていったらどうなるだろう。
 時間は絶えず押し寄せる。
 明日は来る。明後日も来るだろう。その次も、その次も――。
 そうしていつやむともしれない日々の中で、彼女の父親を埋め続けるのだろうか。
 高校を出て、それから? 彼女の父親を殺しては埋めることを繰り返すのだろうか。いったいいつまで――いつまでも?
 そんなことはないかもしれない。いつかは解放されるかもしれない。いつしか終わりが来て森から父親がやってこなくなるかもしれない。だが、そんな保証はどこにもないのだ。
 こんな場所に縛り付けられて一生を終えなければならないのだろうか? 彼女の父親の墓守として?
 そんなのは、厭だ。

 夕食が終わり、茅井家の居間で僕はくつろいでいた。板の間にごろんと寝そべって、天井を眺めていた。天井板をわたす木の格子が、牢獄を思わせた。
 夏乃は洗い物を済ませ、本を読んでいた。そばに座って柱に背を預け、革張りのブックカバーがかけられた本を静かに読みふけっている。
 蠅が一匹、居間に入り込んでいた。
 死臭がするのかもしれない。
 気に食わない羽音だった。鳴ってはやみ、やんでは鳴る。切れかけの小さなモーターが唸っているようだった。
 音は近付いては遠ざかり、遠ざかっては近付いた。
 ひどく気に障ったが、夏乃は気にならないふうだった。
 身体を起こしながら、声をかける。
 ねえ、ちょっと。
 どうしたの? と彼女は読書の手を休め、傍らに本を置く。
 姿勢を正して。僕は言った。
 君のお父さんのことなんだけど。
 その話。
 何千回もその話は聞いた、とでもいうような言い方だった。
 やめましょう。だって、意味のないことだもの。
 意味、ないかな。
 あると思う?
 でも、と僕が言い返そうとするのを遮る。
 でも、何?
 至近距離で、夏乃が僕の目をのぞき込む。彼女の深い瞳に、僕は吸い込まれる。
 彼女の瞳の奥に何があるのか、僕にはわからない。ひたすらに深いということしかわからない。その暗闇を、僕はひたすらに落ちていく。いつまでもいつまでも、際限なく。その果てに何が待っているのか、僕は知らない。果てがあるのかどうかすらわからない。僕にできるのは、ただ落ちていくことだけなのだから。
 口に出されることのない無数の台詞の羅列が頭を駆けめぐる。
 蠅が飛び回る。頭の中で金属音がわんわんとこだまする。小さな、しかし重さを持った羽音が、減衰することなく無限に反響する。

 バチッとはじけるような音がした。

 気付けば、僕は平手で夏乃の頬を撲っていた。
 一瞬触れた柔らかい皮膚の感触。次いで訪れた灼けるようなヒリヒリとした痛みの感覚が、右の手のひらに残っていた。
 奇妙だった。一見矛盾するふたつの感覚が、そこには同居していた。僕には自分の手が自分のものではないように感じられた。まるで、何か得体の知れない異物がそこにあるようだった。
 自分の手のひらと夏乃とを交互に見返す。
 どうしたらよいかわからなかった。
 静寂。静かだった。
 それは間違いなく僕自身がもたらしたものだった。
 蠅は、どこかへ消え失せていた。
 夏乃は撲たれた頬に細い指の先でゆっくりと触れた。押さえるためでなく、痛みの存在を確認するように。
 長い時間が経った。長い長い時間だった。
 夏乃の薄いピンク色の唇の端が、うっすらと赤く滲んできた。切れたのだ。僕の意識は、そこに釘付けになる。赤い色が、少しずつ濃くなっていく。滴となった血を、舌が舐めとる。
 ――私、浅田君には感謝してるのよ。とても。
 いつもと変わらぬ口調だった。
 ぞくりとした。
 同時に、遠いどこか見知らぬところで、何かが音を立ててはじけるのが聞こえた。

 僕は、夏乃に手を上げるようになった。
 ふと理由もなくふつふつとした言いしれぬ感情がどこからともなく湧いてくるようになった。そういったどうしようもない感情にとらわれ、僕は夏乃を殴った。
 顔は殴らない。あとが残るからだ。腕など、痣が目立つような場所もよくない。そうすると、腹になる。
 肉の柔らかい、手応えのない重い感触はしかし、釈然としないもやもやした感覚をいつも僕に抱かせた。
 顔を殴れば、気分としてはすっきりするのだろう。一過性の感情の捌け口としては問題ない。だが、彼女が学校に行くときに、目を腫らしていたらどうなるだろう、頬に痣が残っていたら。誰かが気付いてしまったら。
 一度、はずみで顔の痣になったことがある。いやに目につく痣だった。
 彼女は僕を責めはしなかった。その一方で痣を隠しもしないのだった。
 僕への当てつけにやっているのではなかった。純粋に、彼女は気にならないようだった。ただ単に自分自身の肉体というものに関心がないというだけのことに過ぎなかった。
 硝子の器に疵がついたみたいだった。
 痣は見るに痛々しかったし、頬骨に当たった拳の鈍い感覚を思い出させた。夏乃が気にしようとしまいと、痣は紛れもなく僕の罪のしるし――告発に相違なかった。
 僕は子供の頃を思い出した。その場の感情にまかせておもちゃを壊しておいて、後になってそのことを悔やむのだ――壊れたおもちゃを見るたびに。
 頭でわかってはいた。それでも何か気に食わないことがあると、夏乃に当たった。意味が無いと知っていても、当たらざるを得なかった。
 殴ったところで何かが解決されるわけでもないし、ましてや何かを解決するために殴っているわけでもなかった。そんなことは誰が考えてもわかる簡単なことだ。
 僕は、殴りたくて殴っているわけではなかった。ただ僕にはそれ以外には何もできないというだけの話だった。
 そんな僕に、彼女は決まってこう言うのだった。
 暴れたければ、好きにするとといいわ。だって私、浅田君には感謝してるもの。
 彼女の言葉を聞くと、僕は余計にむしゃくしゃするのだった。
 しかしながら――まさにそのことが僕をいらだたせるのだが――主導権は常に夏乃の方にあった。
 彼女に暴力は効かなかった。支配しようとすればするほど、僕は彼女の虜になった。なんのことはない、痛みにかけては彼女に一日の長があった。父親には散々殴られた、そう言っていたではないか。痛めつけようにも、僕には彼女を痛めつけられないのだった。
 どうあがいても彼女の手のひらの中から出ることはできない。その事実に僕はますますいらだったし、いらだてばいらだつほど、ますますがんじがらめにされていくのだった。そうしてますます出口が見えなくなってくるのだった。
 暴力を使い慣れているのはむしろ夏乃の方だった。
 確かに彼女は暴力の使いどころを心得ている。いや、使われどころを。
 僕の暴力が彼女への怯えから来ていることを見透かされているようだった。
 力に訴えれば訴えるほど、僕は自分の無力さを知るのだった。たとえ彼女を百万遍殴ろうとも僕がこの出口のない迷宮から抜け出せる気は到底しなかった。
 彼女を殺してここを出て行く――
 頭をよぎらないことがないでもなかった。だが、彼女は親父のようにはいかないのだ。彼女が消えれば誰かが気付くだろう。そうすれば、あの森の中を捜索するかもしれない。そうして、埋められた大量の人骨を発見するかもしれない。そうなると、困ったことになる。
 困ったことになるのは、もちろん僕だ。
 彼女を殺してしまっては僕の負けなのだ。
 無論、夏乃はそのことを知っている。そのことを知った上で何もかもやっている。罠を張り、蜘蛛のように、蟻地獄のように、陥れていく。もがけばもがくほど糸が絡まるように、あがけばあがくほど抜け出せなくなるように。だがそれでいて、そんな残酷な巧妙さがあることなど露ほどにも感じさせない。
 僕を脅して殴るのをやめさせることなど簡単だ。その気になれば、百回でも千回でも夏乃は僕を打ちのめすことができるだろう。
 しかし、彼女はそうしない。
 なぜなら、彼女は何も欲求しないから。彼女は何も欲望しないから。
 彼女はただ日常を遂行するだけなのだ。僕にわかるのは、彼女はそのささやかな秩序を維持するためにどんなことだってするに違いないということ、自分自身を犠牲にすることすらいとわないということだけだった。逆に、その秩序が守られている限りは彼女には何の不満もないのだ。
 一旦日常を脅かす存在となれば、夏乃は僕だろうと誰だろうと森に埋めてしまうだろう。そのために躊躇することはないだろう。
 ただ、今ではこうやって憎みさえしているというのに、奇妙なことに、そんな彼女のことを美しいと思う気持ちだけは損なわれないのだった。
 彼女は穢(きたな)い。だが美しい。
 ……というのは、たぶん間違っている。
 彼女は穢いからこそ美しいのだ。
 そうなのだ。そのことは僕も認めざるを得なかった。

 打つ手もないまま過ぎていく日々の中、ただただ閉塞感だけが増していった。
 夏乃に会いたいような会いたくないような、そんな中途半端な気持ちだった。彼女のことを避けたいと頭ではそう思っているのだが、そのためかえって彼女のことで頭がいっぱいになってしまい、しまいには会いに行くということを繰り返した。
 ちょうど、灯火に飛び込む虫というものはこんなものなのかもしれない。待っているのは破滅と知りつつどうしても、火の方へ進まざるを得ない。知らぬ間に底無しの流砂に埋もれていくような、そんな厭な感じがぬぐい去れないのだった。
 その日も、どうにも中途半端な気分のまま、図書室でぶらぶらと時間を潰していた。
 いつのまにか、誰かが向かいの席に座っていた。
 女子の制服だった。だが夏乃ではなかった。僕はあえて本から目を上げることはしなかった。無視していれば、そのうちにどこかへ行くだろうと思っていたからだ。だが一向に人影は去る気配がなく、だんだん空気が重くなってきて、まるで、顔を上げることを禁じられてでもいるかのような気がしてきた。不快だった。
 画集の最後のページをめくると、僕は一瞬逡巡した。だが、わざわざ最初から読み返すなんて、馬鹿らしい。僕は本を戻しにいくことにした。
 髪型はショートカット。一瞬、目が合う。見覚えのない顔だった。気にせず僕は本棚に向かおうとする。
 ねえ。無視しないでよ。
 図書室に声が響く。図書室の住人たちはちらりとこちらに注意を向けたが、また自分たちの世界に戻る。僕は声のトーンを抑えて答える。
 きみ、誰。
 声が大きかったことに気付いたのか、目の前の女子も音量を下げて答える。
 広野(ひろの)。D組の広野ゆみ。二年のときクラス一緒だったでしょ。
 まったく記憶になかった。
 ごめん、覚えてないなあ。
 一瞬むっとしたようだったが、すぐに平静を装った様子で彼女は言い返した。
 そう、残念。
 どう言われようと、覚えていないのだから仕方なかった。
 そして僕をあからさまにじろじろと眺めながら、言う。
 ねえ、浅田君って最近変わったよね。
 そうかな。
 答える声に若干いらつきが混じる。他人の領域に図々しく踏み込んできた目の前の人物に対して、僕は不快感を隠さずに言った。
 ねえ、それって今ここでしないといけない話題かな?
 僕の棘を込めた口調はどうやら通じなかったようで、広野ゆみと名乗った女の子は首をかしげて言った。
 それもそうね。それじゃどこか外に出ましょうか。
 まるで僕の方が場違いなことを言ったかのようだった。僕が呆れていると、広野ゆみは立て続けに僕をせかして言う。
 何をぼさっとしてるの、早く行きましょう?
 悔しいが、この場の主導権は彼女にあった。本を元の棚に戻すと、僕は荷物を持って広野ゆみについていった。
 広野ゆみはよく喋った。飽きもせずに、とめどなく色々な話題について語るのだった。ただ、僕がいようがいまいがきっと意に介していないのだろうという点においては、夏乃と似ているような気がした。その意味においてはやはり僕はいわれない罪で連行されているような気になった。
 それでも夏乃とは違って、広野ゆみは時折僕の方を振り返った。紺の靴下にスニーカーを履いた引き締まった足が、踊るように軽やかにくるりとステップを踏む。優雅というよりは奔放さ、洗練というよりは自由さが彼女にはあるようだった。
 その仕草は華麗とすら僕には思えたけれども、大人ぶっている彼女の言葉や態度とはどこか一貫しなかった。
 そんなちぐはぐな雰囲気が、この自称元クラスメイトからは漂っていた。
 歩きながら、僕が昔付き合っていたどうしようもなく凡庸な女の子たちのことを僕は思い出す。
 彼女たちは、いつでも自分ではない誰かになりたがっていた。特別な何かになるために最大限に努力していた。だけれど結果的に行き着く先は皆同じで、自分らしさというものの喪われた、誰でもない、何ものでもない何かでしかなかった。
 地味というわけではないが、広野ゆみにはどこか垢抜けないところがあった。それなりに気を遣っているのだろうが、それでいてどこか抜けているのだ。そこが一種の彼女らしさとでもいうべきものにつながっていた。
 夏乃は、と思い返すと、服装や仕草ひとつとってもどこもそつがなかった。洗練されていたといってもいい。だけれど、彼女自身の意図や意思というものは完全に隠蔽されていて、何ひとつそこから見出すことはできなかった。だからこそ夏乃は異質なのだった。
 彼女――広野ゆみが僕を連れて行ったのは、町のうらさびたところにある喫茶店だった。人気の少ない、いかにも田舎染みた店だった。彼女と関係があるとかないとかいう誰それの関連の店だということだったが、詳しいことは結局よくわからない。
 とりあえず注文を頼むと、僕は口を開いた。
 それで、何の用。
 そんなに邪険にしないでよ。声をかけただけじゃない。
 いかにも心外、とでもいうように返す。もう一度、僕をまじまじと見つめながら広野ゆみは言った。
 浅田君、そんな人だったっけ。
 あなた、もっとつまらなそうに生きてたでしょう。そうねえ、同じどぶ川の中にいる何もかもをつまらなそうに眺めて、まるで自分だけは違う、程度のいい生き物なんだっていうふうに生きてた。そういう人じゃなかった?
 藪から棒に、変なことを言うな。きみは。
 だって変だもの。人間ってそう簡単に変わる?
 変わるともさ。僕は心の中で答えた。ああ、変わってしまえるとも。
 うーん、自分じゃよくわからないな。
 僕は穏当な返事をする。
 店員が注文の品を運んできた。僕はブレンドのコーヒー、広野ゆみはオレンジジュースだった。
 コーヒーをすする――どうせ味なんかわかりはしないのだが。それでも、お世辞にも美味しいとは思わなかった。
 オレンジジュースに浮いた氷を、ストローでかき混ぜながら、広野ゆみは言う。
 何か、腑に落ちないのよね。
 腑に落ちない、って。
 わからない。でもただ、浅田君ってそうじゃなかったよな、って違和感がするのよ。
 どうしてそんなことが気になるのさ。
 訊かれることをまったく予期していなかったのか、広野ゆみは返答に窮した。
 それは、えっと――
 当然の疑問だと思うのだが、ひょっとすると彼女は責められる側に回ったことのない人間なのかもしれなかった。純粋に問いを他人にぶつけることしかせず、問いをぶつけられたことがないからこそここまで不用心な振る舞いができるのかもしれない。
 ええとね、浅田君って、ここの生まれじゃないでしょ。
 そうだね。
 でも、私はそうじゃない。わかる、この違い?
 さあ。
 え、わからないかなぁ?
 まるでわからないのは僕の責任だとでも言わんばかりだ。
 こう言えばいいのかな。浅田君は土地に縛られてないじゃない。
 それ、どういうこと?
 はじめて広野ゆみが僕の興味を惹くことを言った気がした。
 だってね、その気になればいつだってここを出て行けるわけでしょ。
 まあね。
 僕は同意する。そう、特別な事情さえなければね
 でも、それって、誰だってそうじゃないのかな。
 違うわ。
 それまでの声にはない力がこもっていた。
 全然、違う。
 言ったっきり、黙ってしまう。僕も何を喋ったらいいのかわからない。
 出て行きたくても、出て行けないのよ。
 なぜ?
 一瞬、睨まれたような気がした。それも恨みのこもった目で。
 それは、そういうことになっているのよ。
 どういうことだよ、と思った。
 色々……そう、色々あるのよ。うんざりすることが山ほどね。
 これでこの話題は終了、とでもいうふうに広野ゆみは不自然なほど声のトーンを明るくした。
 ねえ。浅田君は、部活には入ってないの。
 うん。面倒でね。
 意外。スポーツとか、してそうなのに。
 そういえばむかし――水泳をやってたな、小学校の頃。やめちゃったけど。
 どうして?
 身体の痣が目立つから、とは僕は言わなかった。
 なんでかな……きっと飽きちゃったんだろうね。
 広野さんは、何かやってなかったの。
 陸上をやってたわ。才能、なかったけどね。
 へえ、何の競技。
 ええっと、フィールド――高跳びよ。
 すごいね。
 全然。まともな記録もないし、高校の部活だって途中でやめちゃったから。
 僕は何も言わない。気にせずに広野ゆみは続ける。
 きっと、協調性がないのよね。
 高跳びは好きよ。たいした記録じゃなくても、自分のできなかったことができるようになるって嬉しいから。それに――
 それに?
 跳んで、宙にいる瞬間って、自由なのよね。なんだろう、地面――というか、重力から解放されてる気分なの。
 一瞬。ほんの一瞬。きっと一秒にも満たないくらい。でもその瞬間だけ、跳んでバーを越えて宙にいる時間だけは、わずらわしいことや厭なことが全部どうでもいいや、って思えるの。魔法みたいでしょ。
 私はカモメ、って言葉、あるじゃない。宇宙に行った人の。
 その言葉が好きなのよね。比喩でも何でもなしに、空を飛ぶ鳥になって、何もかも面倒なものから解放されたらいいな、って思うもの。
 だけど、と彼女は言った。
 そううまくはいかないのよね。
 陸上も、本当は個人競技のはずなんだけど、残念ながら部活っていうのはそうじゃないわけだし。
 私は、高跳びがしたかっただけなのにね。
 グラスに残った氷を、ストローでかき混ぜる。氷とグラスのぶつかりあう、からんからんという涼しげな音が店内に響く。
 部活の話もこれで終わりのようだった。
 浅田君、将来、どうするの。進学?
 将来。なんて厭な響きのする言葉だろう。今一番聞きたくない言葉だった。
 進学しようと考えてはいるけどね、一応。
 広野ゆみは、確認するように何度もうなずいた。
 そう、そうよね。出て行くのよね、やっぱり。
 広野さんは?
 ――うんざり。ああうんざりだわ。
 独り言のように、話し相手なんかいないかのように、広野ゆみは喋る。
 私だって、ずっと出て行きたくてしょうがないのよ、こんな場所。息が詰まって死んでしまいそうだもの。いつまでも同じ顔ぶれで、何もかも変わらない。楽しみといったらテレビがどうたらとか誰それがどうしたっていう話ばかり。生きながら腐っていくみたいよ、実際。こんな場所を離れて、どこか遠くに行きたいの。
 大きなため息をつく。
 でも無理。私、頭がいいわけでもないし、これといって取り柄もないもの。きっとここで死ぬしかないんだわ。こんなところに生まれてしまったんだもの。将来なんて、ないんだわ。
 それから、また黙り込んでしまう。
 意外なことに、僕は目の前の女子に最初思ったより好感を抱いていることに気が付いた。
 将来などない。そうなのかもしれない。目の前の現実に縛られてどこにも行くことができない。形こそ違えど、彼女も僕も似たようなものではないか? 
 結局、そのまま延々と広野ゆみの話を聞くだけで終わった。
 店を出ると、広野ゆみが言った。
 今日はありがとう、浅田君。
 特に何もしてないよ。僕は。
 実際、一方的に相手が喋っていただけだった。
 広野ゆみは去り際に一言、振り返って言った。
 でもあなた、やっぱり変わったわ。
 彼女が視界から消えてから、そういえば何が用件だったのか最後まで聞かずじまいだったことに気付いた。

 二、三日して広野ゆみと校内でたまたま会った。
 この前はごめんね、私の話ばかりしちゃって。
 同じ口が、うんざりする、と目の前で吐き捨てるように言ったとはとても思えなかった。
 別に、構わないよ。
 それより、と僕は言った。
 何か聞きたいことがあったんじゃないの。
 一瞬、あ、と何か思い当たったかのような顔をしたが、慌ててごまかすように言った。
 それね、あー、いや、なんでもないの。気にしないで。
 なんだか腑に落ちない感じがしたが、僕が何か言うより早く広野ゆみは言った。
 浅田君。今日の放課後なんだけど、暇?
 特に用事はなかった。
 よかったら、ちょっと付き合ってもらえる?
 付き合うといっても、お茶を飲んで害のない話をするだけだった。
 それから、僕は広野ゆみと話をするようになった。話すといっても、たいていの場合は彼女が一方的に喋っているだけだったが。
 ゆみは中身のないとりとめのない話をするのが好きだった。話は話題から話題へと飛び、まるで目まぐるしく色の移り変わる電飾のようだった。
 ゆみとの会話には、ある種の気やすさがあり、夏乃との関係につきまとう重苦しい閉塞感を紛らわすのにはよかった。何も難しいことは考えなくてもよいのだ。
 ゆみには、何か本質的なものを察知する洞察力のようなものがありながら、その一方で、肝心なところで敏感でない、不用心なところがあった。容易に傷つくナイーブなところがありながら、自分の言動が他者に与える影響については今ひとつ想像力に欠けるのだった。それが自身を何度も窮地に追いやる原因となっているのだが、どうにも自覚がないようだった。
 ――こないだね、映画を観たの。
 うん。
 ある男がね、無実の罪で刑務所に入れられちゃうの。それで何年も、何十年も塀の中で過ごすの。その中で、自分は無実だって事実をよりどころに生きていくわけ。それで最後にようやく釈放されて、晴れて自由の身になるのよ。
 でもね、最後のシーンがひどいの。刑務所の門を出て主人公がずっと歩いていくでしょ。刑務所の外には明るい綺麗な世界が広がっているの。塀の中のモノクロの世界と違って、それはもうまばゆいばかり。男は目を細めて新しい色づいた世界の風景を眺めてるってわけ。
 だけど、何を思ったか男は急に振り向いて歩いてきた道を駆け戻るのね。一心不乱に、走って、走って、そうして最後に車に轢かれて死ぬのよ。
 ――それで、おしまい?
 そう。それで終わりなのよ、その映画。
 ひどいでしょ? とんだ嘘っぱちだわ。せっかく手に入れた自由を満喫できないまま死んじゃうのよ。
 ゆみは、少し考えてから、言った。
 浅田君は、ここから出て行ったらどうするの。
 わからないな。想像もつかない。
 それは僕の本音だった。そもそも出られるかどうかすら定かではないのだから。
 大学に行くんでしょ。いいなあ。独り暮らしするの? 楽しそうだよね。
 世の中って、本当はそれこそ信じられないくらいに広いじゃない? 誰にも何にも束縛されずに、どこへでも自分の好きなところに行けるんだとしたら、それってきっとすごく素敵なことだと思う。
 世界中の色んな場所に行けたらいいのにね。例えば、サハラ砂漠とか、モンゴルの大平原とか。想像もつかないくらい広くって、限りなく広い空に、どこまでも地平線が続いてるのよね。まあ、昨日テレビで見たっていうだけなんだけど……ふふ、笑っちゃうでしょ。
 こんな具合に、話題は唐突に始まり、また唐突に切り替わる。
 いったいゆみにとって話すということはどういう意味を持っているのだろう。
 きっと、ゆみが僕に話しているのは、彼女のいうところのどぶ川の中の住人には決して通じない類の話なのだろう。それが僕にはわかると思っているわけだ。だから、息継ぎをするように、一息に話してしまうのだろう。それを話さねば窒息してしまうとでもいうように。
 確かに似ているところもある。だけれど、やはり僕の問題とゆみの問題は根本的に質の異なるものなのだった。所詮は、人は人、自分は自分ということに過ぎない。
 ――よく想像するの。
 思い切ってここを飛び出すのね。
 バスや電車を乗り継いで――ヒッチハイクでもいいな――なんとか、都会に出るの。出たあとは、どうしよう。バイトをするのかな。仕事をしながら、まあ食いつないでいくんでしょうね。
 都会での暮らしだってそんなに甘いものじゃないんだろうし、色々苦労もあるんだろうけど、自分で選んだことだったらどうにか我慢できる気がするじゃない。
 そうやって、ひとしきり喋ったあと、ため息をつく。
 あー、でも、やっぱり無理かな。
 きっと私、この呪われた窮屈なイナカから出られずに一生を終えるのよ。
 実際のところ、ゆみも僕に何か期待をしているわけではないだろう。
 僕に話したところでどうとなるわけでもない。別に解決を求めているわけではないのだ。かといって、何かしらの共感を求めているわけでもない。王様の耳は驢馬の耳だと叫ぶための穴のようなもので、僕を必要としているというわけではないのだ。いないならいないで、特に差し障りなく生きていくことができる。
 夏乃はどうなのだろう。
 彼女は僕に何か期待をしているのだろうか。彼女に僕は必要なのだろうか。
 状況にどうしようもなく巻き込まれてしまっている今、僕は彼女にとってどういう存在なのだろうか。
 そんなことを考えていると、会話も上の空になる。
 いつのまにか、ゆみの話が耳に入っていなかった。
 浅田君は――、と広野ゆみは何か言いかけた。
 え? と僕が聞き返すと、ゆみは首を振った。
 ううん、なんでもない。

 そしてまた次の満月の夜が近付いてくる。
 月齢とともに、月が大きくなる。
 また、夏乃の父親を埋めに行くのかと思うと憂鬱だった。
 待てよ。
 ふと、ひとつの疑問が浮かんだ。
 次の満月の晩、僕が行かなかったら、どうなるだろう。
 今までだって、別に手伝うことを強制されていたわけではないのだ。行く約束をしているというわけでもない。
 とはいっても、少なくとも僕のことをあてにはしているだろう。
 困るだろうか。困るに違いない。
 なんだか無性に夏乃を困らせてやりたいような気がした。
 そこまで彼女を困らせる理由も意味もない、と思っている一方で、だからこそやらねばならないと思っている自分がいる。はは、ちょっとしたいたずらごころじゃないか。
 同じ教室の、しかし違う位相にいる夏乃。
 つい目で追ってしまう。
 超然として、どこか涼しげな彼女。
 ずっと背景にとけこまない彼女。
 僕のことなんて、なんでもない石ころぐらいにしか思っていないのかもしれない。
 それならそれで構いはしない。
 決して実行されることのない反逆を夢見ながら、僕は彼女を盗み見ていた。みじめな優越感だった。
 自己嫌悪と自虐と露悪がないまぜになって、一日を過ごした。
 感情の迷路は八方塞がりで、どこにも出口を見つけられなかった。
 深い重たい泥の中にはまりこんだようだった。
 夏乃の姿は、変わりなかった。ごく普通に、何の変哲もない日常を過ごしていた。必要があれば他人とも会話し、そつなく振る舞っていた。ひとりになると、またいつもの夏乃に戻るのだが、人といれば人といたで――当然のことだが――それなりに問題なく振る舞うのだった。
 夏乃を見ていると、まるで僕の方が世界から切り離されているようだった。
 もう、考えるのも億劫だった。僕は早退した。

 そうしてまた、夏乃の家へ行く日がきた。
 その日も、広野ゆみがお茶に誘ってきた。
 ごめん、今日、用事なんだ。
 断ると、思いのほかゆみはあっさりと退いた。
 そっか。残念。
 用事なんて、珍しいね。
 まあね。
 それじゃあまた今度、といってゆみと別れる。

 ――お待たせ。待った?
 いいえ。
 何度このやりとりを繰り返しただろう。
 言葉の意味は失われて久しく、行われるのは中身のない記号の交換に過ぎない。
 記号化された行為を僕らは繰り返す。
 ルーティン。手順化された作業。
 僕らはいつものように支度を済ませると、森へ向かった。
 やけに月が明るかったように思う。
 会話もなかった。
 砂利を踏みしめる音と、リアカーを曳く音とが、ただ響いた。
 僕はもう、何も感じなくなっていたのかもしれない。
 何もかもどうでもいいと思いはじめていたのかもしれない。
 無数にある歯車のひとつとして、無限に繰り返される日常を維持することを続けるのも悪くはないのかもしれない。繰り返しのそのまた繰り返し。来る日も来る日も、飽きることなく永遠に、同じ場所で同じ事を繰り返す。
 そのうちに、僕は風化するだろう。僕の心は擦り切れ、摩耗するだろう。ちぎれた僕のかけらは、粉となってどこか彼方へ飛んでいってしまうだろう。
 そうして、僕は僕ではないものに変わってしまう。単なる形骸となってしまった僕は、それでもまだ僕だと言えるのだろうか。
 それが僕なのだとすれば、擦り切れてなくなってしまったものにはそもそも何の価値もなかったということになるかもしれない。僕でないのだとすれば、そこにいるのはいったい何者なのかということになる。
 ひたすらに穴を掘る。何も考えずにすむように。
 穴を掘って埋めるだけ。差し引きゼロ。単純な作業だ。
 ずるずると夏乃の父親を引きずり、穴の中に放り込む。
 さあ埋めようというときだった。
 ひっ、と小さな叫び声が聞こえた。紛れもなく人の声だった。
 それから、何かが砂利道を駆けていく音がした。
 ――見られた!
 逃げたわ、と夏乃がつぶやく声を聞くか聞かないかのうちに、僕は逃げた人影を追って走り出していた。
 どっちだ。
 人影は森の入り口とは逆の方角に駆けていった。
 色々なことが頭を駆け巡っていた。
 森の奥は、社があるだけ――行き止まりだ。
 人影が、振り向こうとして、転んだ。
 悲鳴を誰かに聞かれる。直感的にそう思った。
 その次の瞬間には握りしめたスコップを振り下ろしていた。
 当たる寸前、相手の目を確かに見た気がする。だが、もう遅かった。
 ごん、と間抜けな音がした。人影から力が抜けた。どさりと、身体が倒れた。
 それから夏乃が来るまで、僕は動かなくなった人影をずっと見下ろしていた。
 頭蓋骨の、柔らかいような、固いような感触が手について離れなかった。

 人影は、広野ゆみだった。
 気絶してるだけね。まだ生きてるわ。
 打撲のショックで一時的に気を失うっていうことがあるのよ。
 広野さん、ね。口が固いほうじゃなさそうね。でも悪い人じゃないわ。浅田君が黙っててくれ、って頼んだら内緒にしておいてくれるかもね。
 なんで。
 広野さんは、浅田君が目当てだったんじゃないのかしら。ひとりでこんな遅くに、こんな森の奥までついてくるなんて、きっと心細かったでしょうに。それでその浅田君に見つかって、追いかけられて、殴られるなんて。いじましいことね。 
 夏乃の棘のある物言いに文句をつける気力はなかった。
 で、どうするの。
 どうして僕に聞くんだよ。
 他に誰がいるの? 私は、別にどちらでもいいのよ。だって私には別に広野さんをどうにかする義理はないもの。全面的に浅田君の意見を尊重するわ。
 でも、と夏乃は続ける。
 広野さんが目を覚ましたら、どうするでしょうね。素直にいうことを聞いてくれるかしら。それなら何の問題もないんだけれど。
 いうまでもなく、答えはひとつしかなかった。
 ……埋めよう。埋めるしかないじゃないか。
 埋めることに関しては僕らはお手のものだった。
 しかし途中でゆみが目を覚ますかもしれない。
 荷台に、ガムテープがあるはずだわ。
 夏乃が言う。
 果たして、リアカーの荷台にそれはあった。
 まず両手、次に両足。動けないようにさらに手と足をまとめてぐるぐる巻きにする。顔も、呼吸ができるように鼻だけ残して。途中、粘着テープが髪の毛に貼り付いてひどいことになった。構うまい。剥がそうとさえしなければ何の問題もない。
 広野ゆみはミイラみたいな姿になった。むかしどこかでこんな写真を見た気がした。どこかの高山で発掘された、何百年も前に凍死した遺体がこんな風貌だったかもしれない。どこか滑稽な姿だった。
 ゆみはそれほどかさばらなかったので、穴は少し堀り広げる程度で済んだ。
 夏乃の父親を放り込んだ穴の残りのスペースに、ゆみを押し込んだ。嘘みたいに軽かった。手荒い真似はもうしたくなかった。後はただすみやかに埋まってくれさえすれば良かった。
 土をかけていく。穴を掘るときの動線が垂直だとすれば、穴を埋めるときの動線は水平だ。水がたまるのが少しずつであるように、穴が埋まっていくのも少しずつだ。
 夏乃の父親が完全に土で覆われた頃、ゆみが気を取り戻した。ガムテープでふさがっている口でむー、むーむー、とうめいていた。
 夏乃は、穴を埋め戻す手を一旦休め、どうするの? というふうに僕の目を見る。
 状況を説明してやれとでもいうのだろうか。きみはこれから土の中に埋められるんだよ、とでも。
 僕は何も言わず、土をかける作業を続けた。夏乃もそれにしたがった。
 僕らは始終無言だった。
 ゆみはますます激しくもがいてうめいた。だが彼女にはそれ以上のことはできなかった。状況もわからず、身動きもできないまま、ただ土をかけられるより他なかった。
 僕らは声をかき消すように、土をかけ続けた。
 いったい、土の中に埋められるというのはどういう気分だろう。
 全身が土に覆われてもなおゆみのうめく声が聞こえた。土の中でゆみがもがくたびに表面がもぞもぞと揺れた。まるで巨大な芋虫がその下にいるようだった。
 さっさと埋めてしまいたかった。土の下から声が聞こえてくるのは不気味だった。埋めた分、声が低く深くなるようで、何か僕の知らない生き物が地の底で呪詛を吐いているようだった。すっかり穴を埋めてしまっても、まだその声が耳にこびりついている気がした。
 作業が終わったあと、僕たちはしばしその場にたたずんでいた。
 帰りましょうか、と夏乃が言った。
 まだやることが残ってるもの。
 僕たちは道は散らばっていた広野ゆみの荷物を広い集め、リアカーに乗せて帰った。

 あら、浅田君へ、ですって。ラブレターかしら、古風ね。読む?
 やめろよ。
 だって、変なものを残されてたら困るでしょう、浅田君も。家に日記とかあったら困るんだけど――まあ、何かあったら知らぬ存ぜぬで対応してもらうしかないわね。
 そう言って彼女は、手紙を紙屑の山に振り分ける。
 持ち帰った荷物の中身をあらためているのだ。
 プラスチックは、埋めても残るのよね。
 焼くと目立つから、出すごみに少しずつ混ぜて棄てるわ。
 こともなげに、夏乃は言う。実際たいしたことのないことなのかもしれなかった。今さら人ひとり死んだところで、何も驚くべきことではないのかもしれない。地球上では毎日何百も、何千も、何万もの人間が死んでいるのだから。
 私は広野さんともともと関係がないからいいんだけど、問題は浅田君ね。
 夏乃は至極あっさりと言った。
 ほとぼりが醒めるまでは、しばらくうちに来ない方がいいかもしれないわね。

 広野ゆみはいないことになった。
 失踪、行方不明、駆け落ち、蒸発。色々な憶測が飛び交った。まったくのでまかせばかりだった。真実を知っているのは僕と夏乃だけだった。
 実際のところ彼女は社の森の奥でひとり寂しく埋まっているのだ。いや、寂しくはないかもしれない。夏乃の父親が一緒だし、きっと他にも誰かが埋まっているのだろう。そういう場所なのだから。
 未成年の失踪などそんなに珍しくないのだろうか。特に詳しい捜査も行われず、広野ゆみという人間の存在は綺麗に消えてなくなった。あたかもそんな人物は最初からいなかったかのようだった。彼女にまつわる噂の類も急速に衰えていった。
 ただ、ひとつ印象深い噂を耳にした。
 車通りもない真夜中に、制服にショートカットという出で立ちの女の子が、ひとりで古びたバス停に立っているという。
 不審に思ったドライバーが車を停めて声をかける。聞くと、バスを待っているのだという。当然ながらそんな時間に来るバスなどない。
 送っていこうかとドライバーが言うと、女の子はこう言ってすっと暗闇に消えてしまうのだという。
 ごめんなさい、私、行けないの――バラバラにされて、埋められたから。

 何度かゆみの夢を見た。学校で、家で、帰り道で、背格好も服装も確かに広野ゆみのような人影が、遠くから僕を見つめている。
 ただ違うのは、目と口はぽっかり穴が空いたような暗闇になっているのだった。そこには表情というものがなかった。だから彼女が何を言わんとしているのか僕にはさっぱりわからないのだった。正直なことをいえば、彼女が僕を非難しているかどうかすら定かではなかった。
 ゆみはただ僕の方を瞳のない眼でじっと見つめているだけだった。僕が彼女の方へと近付こうとすると、彼女は決まって森の方へ歩き出すのだった。ただでさえ遠い道のりが、いつもの倍以上には感じられた。そして、森の奥にたどり着くのだった。ゆみは暗闇にとけて消えてしまって、いつもそこで夢は終わるのだった。

 しばらくして、僕は転校することになった。
 父親のもとに引き取られることになったのだ。
 父親。いざ会ってみると、あっけないものだった。殺せば死んでしまいそうな、ちっぽけな中年男がぽつんと立っているに過ぎなかった。
 化け物みたいな形相しか記憶になかったが、見る影もなかった。僕の小さい頃にはしょっちゅう怒鳴ってばかりいたような気がするが、今はそんな気力もないようだった。
 気付けば、僕の方をおどおどと様子をうかがっている。なんだか胸が悪くなった。
 どうせ卒業前なのだから、転校しないですますこともできた。でも広野ゆみのことがあったし、なるようになれ、と半分投げやりになっていた部分もあったかもしれない。
 そうと決まったら、何もかもが慌ただしく動いた。引っ越しから転入からひたすら手続きの連続で、僕は学校を休まねばならなかった。
 転校が決まってから、夏乃と話す機会はなかった。あえて避けていたところもあるが、最初の図書室での会話以来、学校で話したことなどほとんどなかった。ぱったりと交流が途絶えると、もとからそんなに親しくもなかったような気がする――そもそも何の関わりもなかったのでないかという気さえするのだった。
 この町にいられる最後の日曜日、僕は夏乃の家に向かった。
 別れを告げるためだった。

 こんなに日の高いうちに茅井家を訪れるのははじめてだった。
 夏乃の家は、日光の下ではおどろくほどぼろに見えた。
 玄関の鍵はかかっていなかった。不用心だな、と僕は思った。
 声をかけても返事はなかった。まったく人の気配というものがない。母屋の方には誰もいないようだった。
 僕は納屋の方に回った。そこにも夏乃はいないようだった。
 納屋にはいつものあのリアカーが鎮座していた。昼の明かりの中では、夜中に死体を乗せて運ぶ時のおどろおどろしい雰囲気は微塵も感じなかった。
 はじめて全貌を見せた納屋は思ったより広かった。農具の他に、色々と何に使うのかわからないものが置いてある。そのうちに、一番奥の大きな棚に目が留まった。
 画材が置いてある。書斎に飾ってあった油絵を思い出す。あれは夏乃の父親が自分で描いたものだったのだろうか。
 床を見ると、確かにそのあたりに絵の具の飛び散ったような跡がある。
 きっとここをアトリエに使っていたんだな。
 棚の一番下の段、布がかけられている部分に気がついた。めくってみると、その段に無造作にキャンバスが詰め込まれていた。
 一枚抜き出してみる。
 油絵だった。一糸まとわぬ姿の少女がちょこんと椅子にかけている。キャンバスの裏には、夏乃 八歳 七月、とある。絵は年代順に並んでおり、九歳、十歳、十一歳、十二歳。夏乃がモデルの絵はそこで終わっていた。僕はそのうち一枚を手にとってしげしげと眺めた。
 あばら骨が浮いている、痩身の少女。
 つたない絵ではなかった。
 だけれど、なぜだろう。どれも見ていてひどく恥ずかしくなる絵だった。目の遣り場に困るというか、どこか隠微な香りがして、直視することがためらわれるのだった。ちょうど誰かのまなざしを勝手に覗いているようで、どれもこれもそこはかとなくやましい感じがするのだった。
 これは僕の知っている夏乃ではない。確かに面影こそ似ているものの、描かれているのは血の通った普通の女の子で、とてもではないが僕の知っている夏乃の在りし日の姿だとは思えなかった。
 人間ってそう簡単に変わる?
 広野ゆみは僕にそう尋ねたのだった。今度は僕の方が聞きたかった。
 夏乃がモデルの絵以外は風景画だった。どれも、森を描いていた。書斎に飾ってあった絵と同じ構図だった。
 あるものは精密に、またあるものは歪んで、森の奥へと続く道が描かれていた。どの絵も遠近法の消失点はなめらかな暗黒の奥にあった。その同じ場所の風景画が筆致を変え、季節を変え、あるいは時間帯を変え、何枚も、何十枚もあった。夏だろうと冬だろうと、真昼だろうと夜中だろうと、どの絵も道の先は暗闇に続いていた。
 他の絵は全部処分してしまったのだろうか。あるいは、これしか描かなかったのか。
 キャンバスを裏返すと、同じ筆跡で日付が書かれている。どれも夏乃の絵の後に描かれたものだった。
 なぜこの風景しか描かなかったのだろうか。
 他のものが描けなくなってしまったのかもしれない。
 ある時期から、キャンバスから消えた夏乃。
 その替わりに現れた無数の、森の絵。
 ――静かだった。何も生き物の気配はしなかった。
 そこにあったのは、あらゆるものの不在だった。
 ごう、と風が吹いた。遠くで森の木々がざわめいた。
 何年も、何十年も捨て置かれた廃屋にいるような気がした。
 結局夏乃に別れを告げることのないまま、僕はその場を後にした。

<続>

狩野宗佑「彼女は森の暗がり」第三回  2018/10/26


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