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782.2.一言の言葉も知らず倒れ去る、満州野ケ原の秋の夕ぐれ。終戦日に。

1.故国を目指して幾百里

 

昭和20年(1945年)8月9日、日ソ戦争が勃発したという連絡が入り、山形県の満州開拓団に宝清へ避難命令が出た。

開拓団長の直太郎は全部落に緊急連絡を行う。同時に大砲の音が聞こえた。私(昭治)は当時小学生で運動会の最中である。運動会を終えた後、家に帰れば皆銃の手入れを始めた。(昭治は直太朗の息子でcoucouさんの叔父)

私達はこの地を離れなければならなくかった。

やっとの思いで山形から遥か遠い満州の地に根を下ろし、苦労して開拓してきた場所である。11日にはこの地を離れることとなった。

多くの開拓民が雨の中、両手いっぱいの荷物を持ち脱出を計る。

驚いたことに多くの満人達は私達が逃げるのを荷物持ちだけでも手伝おうとした。「直太朗団長さん、私は皆さんと別れるのが辛い、どうかせめて宝清まで送らせてもらいたい・・」。

直太朗団長は満人の人達に迷惑がかかるのを恐れ丁重に断った。すると、彼らは逃げまどう開拓団を待ちかまえている満人警察達がいることを知らせてくれた。

「お願いだ、親友として今日出発するのを止めて欲しい・・」、そう哀願した。

しかし、この場に残っていても同じ、危険区域であることは変わらない。直太朗団長はその満人に感謝したが、やむ得ず出発をした。

2.私はどこまでも生きるのだ

京都府加佐郡大江町宮川河畔に「ここは御国を何百里離れて遠き満州の・・」で知られる「戦友」の歌碑があります。「戦友」は、大江町川河守新町出身の真下飛泉が作詞をしました。

 しかし、満人の友人がいう通り、待ち伏せを喰らってしまった。逃げようとした瞬間に不気味な銃声が響いた。すでに満人には揚栄開拓団の動きはすべて察知していたようだった。

「私はどこまでも生きるのだ」そう心に念じた。

しかし、子供や女性達が次々に銃弾に打たれ、周りは悲鳴だらけだった。私達はただ逃げまどう以外方法はない。荷物も衣服も過ぎ捨てた。父直太郎も母も友達も弟も誰もいない。

私は山の中に入った。わずかなグループで山中を約30名で移動した。

中には私より小さな子供達もいた。

誰も泣いている子供はいない。

皆、明日になれば逢えるだろうと願っていたからだ…。

草原を彷徨っている時、私の弟が満人警察の銃剣で刺され殺されたことを聞いた…。私は驚きとショックの中で救えなかった。その時、私はただ弟の事を考えて、心の中で謝り続けていた…。

人生の中でこれほどの驚きと涙が出ただろうか…。

逃走中に息絶えた友達の姿を見る。「俺は馬鹿だった。どうして弟を見つけ出して、手を引っ張って、逃げなかったのか?」。

悔やんでも、悔やみきれない悲しさである。脳裏に浮かぶのは母の姿と父直太郎である。せめて生きていてほしい…。

誰も温かい手を差し伸べる者などいない、それは皆同じ境遇だったからだ。私は、これからどう生きたらよいのだろう?夜空を眺めながら答えのない問答を繰り返していた。

3.どうせなら殺してほしい

そして、信じられないことだが、数日たち、国道に出た時に別のグループと出会い、そこに父直太郎と母がいたのだ。

「昭治~死~なな~かった~か」、父直太郎の第一声である。

私は揚栄開拓団直太郎団長の長男昭治である。

父と母の奇跡の再会であった。

互いは狂ったように泣いた…。
「弟の満州男は?」、私は弟が死んだ事を伝えた。

「…」。

周りを見れば奇跡的に再会したものたちはすべて抱き合い、涙していた…。しかし、周りの人々は皆重傷者ばかりで私の母も身動きできないほどの重体だった。

私にはどうする術がない、父直太郎も銃弾を数発浴びて刀を杖代わりにしていた。さらに、ほとんどの開拓団の人々は殺されていた。全滅である。それからまた逃走が始まるが、母は苦しさのあまり、

「ひと思いにー殺してくれ~一生のお願いだから~苦しい…」

私は泣きながらもう少し我慢してほしい、といったが、

「どうせ死ぬ事はわかっている…」と答えた。

私のような子供にあとは何が出来るのだろう…。その後やっとの思いで宝清に着いた。しかし、その宝清では機関銃の銃弾が鳴り響いていた。

その銃声は私達皆の希望を奪っていった。そして、ここで振り出しである、勃利に目的地を変更することにした。私の母はそれを知ったのか、その後息を引き取った…。

昨日までの優しい母の面影はなく、泥だらけ、血だらけ、乱れた黒髪、と疲れ果てていた顔、まるで自分の母でないかのように思えた…。

 最後は苦しみながら死んだ…。

 私にはもう絶望しかなかった…。

 私の生涯の全ての涙が出つくすかのように止まらなかった。


昭治著~ある満州開拓孤児の記録「故国ほ目指して幾百里」東北出版企画 昭和54年12月20日

4.ある満州開拓時の記録

 私達は母をそこに置いて、宝清県立病院の朝鮮人だったが、その副院長に助けられ、宝清に戻ることになった。しかし、明日にはロシア軍がこの宝清に来る可能性があるという話が起こり、

「日本人らしく死のう…」そのような人たちの意見が出回っていた。

私はその言葉を聞いて絶望した。

私はこの時、生きようと考えていた。「よし~私は、一人でこの死にたいという仲間から、逃げよう。そしてどうなろうとかまわない、生きていれば、いつかは楽しい日が来る…」、そう信じた。

しかし、圧倒的な大勢の意見の中で私のような子供の意見など通る訳はく、自決組の中にいた…。

皆の同意が固まった後、また奇跡が起こる。

それは、中央政府から来た委員たちの説得であった。最終的にその委員会の人達に身を任せることになった。しかし、その人達の来るのが遅ければ皆自決していただろう。

そして、宝清県に収容されることになった。

父直太郎は負傷しており、病院へ移動した。私はもう一人の言葉も話せぬ幼い弟と二人残された。この収容所では幼い親を失った子供達が多く、みなすすり泣いていた…。

そして、時を待たずして、ソ連軍が宝清に入城してきたのである。わずか一日半で街が一変してしまうのである。

「スターリン万歳」「新中国万歳」という叫び声が街中に響き渡っていた。

5.敗戦日

 

昭和20年8月16日、ビラで日本が戦争に負けたことを知る。

そして2週間後に父直太郎と会える事になった。

残念ながらあまり時間のない面会だった、しかし、互いが生きている事は理解できた。私の最後の兄弟は一緒にいる弟、幼き忠夫だ。やせ衰え、まったく骨と皮状態だった…。

この弟には母も父も兄もいない、いるのは私だけだ。

私にはこの弟をどうする事も出来ない…。

同年9月20日、何も食べれない弟は栄養失調になり、彼の脈は止まり、静かに目を閉じてしまった…。

最後の父母の忘れ形見である。

 

この時、宿の主人が満人と来て、

「死んだのか、死んだのなら、いつまでもここにおいたら、臭くなってしまうから、早く北門外に捨ててしまえ」、そう言われた時、私は幼きながらも相手を睨みつけていた…。

しかし、その一時間後に忠夫は北門外になすすべもなく連れ去られてしまった…。最後の最後に忠夫のために出来た事、それは私の備忘録メモにそのことを記したことだけだった、

6.一言の言葉も知らず倒れ去る、満州野ケ原の秋の夕ぐれ


一言の言葉も知らず倒れ去る、
満州野ケ原の秋の夕ぐれ、

        弟忠夫の霊に捧ぐ 昭治

 

 その後、私の身寄りは誰もそばにいなくなった…。

 私はこの時13歳だった。

 父直太郎は病院から帰ってまもなく、収容所に入れられてしまった。

もう、10月になった。ここに収容されてから2カ月あまり、私はこれからどうなるのだろう…、頭の中にはいつもこの事ばかりがよぎっていた。

 

7.いつのまにか14歳


ここに収容されている者達は子どもであれば満人に働き手として貰われていく、又は売られていく、女子であれば強制的に結婚させられる、男なら簡単に解決された。

これは働き手(商品)として役に立つからだ。帰るところもない者達はこのように悲壮な決断を迫られていた。この収容所に奇跡的に助かった者達は約200名、そのほとんどが満人の所へ行くことになる…。

一番辛いのは母と子が離れ離れになることだ・・。

私は運が良く、一緒に収容所にいて面倒を見てくれた大久保先生とともに父の友人である王さんの家に世話になることができた。

今でも思うが、この王一家の救いがなければ現在の私は生きていなかった、そう思う…。

同年12月21日、その後大久保先生とともに王家を離れることとなる。

 

そして、約半年近く立ち、また長い旅の始まりの始まりとなる。私は世話になった人達を後にして、一人で宝清に戻ることにした。もしかすると嘘かもしれないが、それは内地に帰れるという話しを耳にしたからだ。

いつのまにか春になっていた。

さらに1カ月後、不確かな情報のまま30里の道のり4日間かけて歩きながら東安に移動する。

もちろん無一文だった。

私はいつのまにか14歳になっていた。

 

昭和20年、私たちの戦争はまだ終わっていない…

8月25日、東安市政府から遺送が発表された。

8月28日には東安を出発。この遺送は全満が一斉に行われるという。

8月30日には遺送説明を聞き、これで日本に帰れると思った・・。

しかし、私達を案内していた恨みを思う八路軍の嫌がらせによって最後の300人は帰れずはずが帰れなくなってしまうのだった。

私達300人はただ悲鳴を出すように泣いた・・。

運命の酷さと哀れさに泣いた。

一時的にせよ帰国に感動し喜び勇んだにも関わらず、やっとの思いでたどり着いたにも関わらず、多くの仲間達、家族達と離れ離れになりながらも・・。

 もう泣く事しかなかった。

 

その後浮浪児となった私は一人で衣服縫製に就職することになった。私はいつのまにか満語を話せるようになっていた。

8.父直太朗との再会

 
昭和22年なる。

ここは共産軍の第一師供給部被服縫製である。

ここはミシンを使った工場だ。その後商店の番頭を任され、八路軍の軍服を着て街を歩くようになる。次に飴工場の整理をしたり様々な仕事をした。

そして、私は当たって砕けろの精神でハルピンに向かう事となる。

8月5日、そして、デマかもしれないが、たとえ嘘であっても、その嘘を信じて見ようと思った…。その噂とは、長春で遺送があるという話しを聞き、長春を目指す決心をして八路軍地区から国府軍地区へ逃亡することにした…。

 当たって砕けて良かった…。

 9月29日佐世保港に到着する。

ふと頭に過ったのは父直太郎と生きていれば、今年65歳の祖母初江ばあさんの顔が浮かんだ・・。やがて、3日間の隔離が終わり本土の土を踏んだ…。

もう私には涙が出つくしていたと思っていたが、無限の涙がこぼれ落ちた。翌日父直太郎からの手紙があり生きていて先に日本にいる事がわかった。

父は私と別れてからハバロスクに送られ抑留生活を送りながら、前年11月に日本に帰っていたのだ。

12月27日、父のいる庄内平野の田園風景を目にし、鳥海の峰を眺め、月山を眺めて、余目の駅に着く。私は故郷に帰ったのである、やっと着いたのである。

 

故国を目指して幾百里の長い道のりだった・・。

 

私は、母と弟二人の代表として我が故郷にこうして戻ったのだった。

 

その間、私は15歳なっていた。

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coucouです。みなさん、ごきげんよう!
どうやらcoucouさんのルーツは石川県から山形県にあるようです。

この山形県余目の村から曾祖父母たちは樺太開拓団となりcoucouさんの父は樺太で生まれて樺太で育ちます。昭治さんはcoucouさんの従兄にあたります。

coucouさんの祖父は樺太で亡くなり、祖母は満州で直太朗(叔父)さんに看取られて亡くなりました。戦争のため父は母とは会うことができませんでした。

戦後、日本に戻った父は、祖父母のお骨探しに奮闘しましたが、現地には出向くことができませんでした。

父の弟も満州残留孤児で中国人に祖父は召し出しました。
その理由は、幼い我が子を食べさせることができなかったからです。

やがて戦後30年を過ぎて父は弟と再会し日本に帰化させました。

この内容は、すべて実話で昭治さんから直接許可をいただいて要約したものです。この昭治さんはすでに亡くなりました。

生前戦後17歳の時に出版した、ある満州開拓孤児の記録「故国を目指して幾百里」児東北新社の本を現代の時代に復活させてほしい、といわれたのが最後の遺言となってしまいました。

子どもの頃、あまりにも生々しい真実の記録に思わず目をそむけたくなるような内容でしたが、本を読んで、あれから50年(戦後78年)以上過ぎた今なら直視して書けるかもしれません。この本には私の祖父母、父の話があるからです。

父の友人であった昭治さんのご冥福とともに、この実話の要約文を本にする前にまとめたものです。

戦後、coucouさんの父と直太朗さんは満州で命を失くした人たちのところに行脚し、父は戦争で失った戦友たちの遺品や写真、手紙などをすべての戦友たちの家族に届ける旅をしました。

その内容は、実在の人物名、国名等を伏せて「あこがれ」というタイトルでnoteに発表しました。
なんと約68,000文字と言う、ありえないnote紙上最悪の迷作大長編となりました。もちろん、創作大賞からは規定の量から外れているために論外~

そしてご存知の通り、ほとんどの人は読んでくれていないという迷作巨編でした~

ただ、この世に残したい一心でまとめたものです。
これはcoucouさんの父の月命日と誕生日に合わせて書き続けていたものを公表した、coucouさんの反戦の誓いのnoteでした。

この激動の昭和20年(1945年)、父は戦地から戻り、直太朗さんと再会し、病気を抱えた兄と、妹とも再開することになりました。

ただ、満州に残した弟の安否だけは日本大使館、中国大使館を通して調べ続け、戦後30年が過ぎてやっと再会を果たしたのです。しかし、満州に遺骨を取りに行くことも、樺太の祖父の遺骨も日本には運ぶことができませんでした…。
戦後、父と直太朗さん、昭治さんの3人はそれぞれの深い傷を老いながら記録を残し続けたのです。それを3人はcoucouさんに託されたのですがあまりにも壮大で悲惨で、いまだにまとめきれません。

coucouさんがこの世を去るまでに残せればと考えています。

今日は「終戦記念日」ではありません。

「終戦の日」なのです。

数多くの英霊の方々と遺族の方々に追悼の意を表します。


令和5年(2023年)8月15日記 coucou

文字数6,355文字


「あこがれ」の要約文

約60,000文字の終戦後の物語「あこがれ」

時を同じくして恵子@愛❤希望❤感謝さんが「母の戦争(78回目の8月15日)」を本日noteで公表していただいています。合わせて読んでいただければ幸いでございます。

78回目の終戦記念日「戦争の惨禍、繰り返さない」戦没者追悼式

琴音−防人の詩


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coucouさんのアーカイブス(過去作品)だよ、みてね~

coucouさんのお気に入りnoteの素敵なクリエイターさんたち~

coucouさんのホームページだよ~みんな、みてね~

Production / copyright©NPО japan copyright coucou associationphotograph©NPО japan copyright association Hiroaki
Character design©NPО japan copyright association Hikaru


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