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掌編 月魚の夢/うさぎ餅 高北謙一郎


こんばんは。週に一度の掌編投稿です。先日の満月が、平成最後の満月だったそうですね。偶然、明け方ちかくの空で眺めた月はとてもキレイでした。

そんなわけで、今回は月にまつわる物語。しかも2本立て。ここに投稿している作品は以前の朗読イベントのために書かれた作品ですが、その時は能と狂言のような関係性を持つ2作品を並べてみよう、というコンセプトで書いたものです。【月魚の夢】はいま読み返しても「なんという難解な作品を」と思ってしまいましたが、ある意味では最も自分らしい作品ともいえます。そして、【うさぎ餅】という最も自分らしくない作品と組み合わせたことで、おもしろいバランス感覚を発揮できたな、とも。

いつものように投げ銭設定です。お楽しみいただければ幸いです。



【月魚の夢(つきうおのゆめ)】       高北謙一郎


ある月のうつくしい夜、一匹の魚が、湖の底で夢を見ていた。

夢の中で、その魚は上空に浮かぶ月を見ていた。

それは、まるでそこに繋がれているかのように、動くことはなかった。

欠けることもなく沈むこともなく、ただ満ち足りたひかりがあたりを白く染めていた。

魚は夢の中で、月の引力に導かれるように、ゆっくりと浮上していく。

年老いた漁師がひとり、湖に浮かべた小舟の上で、静かに釣り糸を垂らしていた。それは天頂に浮かぶ月と湖面に反射する月の狭間で、虚実の境界を擦り抜けるようにして、まっすぐに垂れ下がっていた。

湖には、ほかに誰の姿もなかった。きらめくような薄片が揺れるそこは、誰ひとり近づく者さえいない。実際のところ、ここは夜にしては明るすぎた。闇の中に暮らすようになって久しいこの国のひとびとにとっては、白銀のひかりに包まれたこの湖は、真昼の太陽に晒されるに等しかった。彼らは、慎み深い月をこそ愛した。

それでもこの老いた漁師は、身じろぎひとつせず、釣り糸を垂れている。たしかに曇りなく周囲を照らす月は、すべてを見透かしているようで落ち着かない気持ちにはさせたが、それでも数日前まで彼が過ごしてきた場所の空に鎮座する太陽に比べれば、遥かにしおらしく穏やかなものであった。そう、彼は太陽とともにこの国を追放された者だ。追放されながらも、密やかにこの地に舞い戻ってきた者だ。いわば、彼は密漁者だった。

この国が夜に支配されるようになって、もうずいぶんと経つ。かつてその権勢を二分していた昼は敗れ、いまや地平線の裏側に追いやられた。ひめやかな闇に息づく月の世界とは違い、そこは灼熱の地獄だった。月が留まる以上、太陽もまたそこを動くことはなかった。真昼の陽射しは影を焼き尽くし、水を奪った。食糧もまた、瞬く間に消え失せた。辛うじて地下や堅牢な建物の中に逃げ込んだひとびとも、結局はその場で死を待つよりなかった。それは、太陽に与した者たちに科せられた報いでもあった。太陽は今、月を照らし出すためだけに生かされている。月は単独ではなにも生み出さない。太陽を奴隷としてこそ、月の支配は成り立つのだ。ひとびとは言った。太陽の熱は、ほどほどだから役に立つのだ、と。逆にいえば、太陽とともに追いやられた者は、過剰な熱に苦しんでいる。

「まっぴらだ」と、老いた漁師は思う。別に夜が嫌いだったわけじゃない。取り立てて昼が好きだったわけでもない。ただ、今みたいに夜釣りに出かけた帰り、船の上から眺める朝陽は、とてつもなくうつくしいものと思ったのだ。だから、彼は月のひかりよりも太陽を選んだ。それだけだ。たったそれだけのことだ。にもかかわらず、この国が夜によって支配されると同時に、彼は家を失い、財産を失い、太陽とともに追放された。それは彼にとって、とても納得できるものではなかった。彼だけではない。誰もがそう思っていた。

月魚の噂を耳にしたのは、そんな時だった。

その魚は夢を見ているのだと、ひとびとは言った。強烈な陽射しに喘ぎながら、太陽とともに国を追放されたひとびとは言った。彼らはその魚を月魚と呼んだ。月が支配する国の大きな湖の底で、その魚は眠っている。そこで月魚が見ている夢こそが、この世界の秩序を形成している。もとはといえばここは月魚が見ている夢の世界だ。そう、この世界は現実の世界ではない。本当の世界ではいまも太陽は巡り、月もまた満ち欠けを繰り返している。月魚の眠りを断ち切れば、世界は本来の姿を取り戻すだろう。我々は解放されるだろう……それは彼らの見ている夢なのかもしれない。しかし老いた漁師を動かすには充分だった。こうして彼は月の支配する国に忍び込んだ。そして月魚が棲む湖に小舟を浮かべ、釣り糸を垂らした。水底で眠る月魚を、捕らえんがために。

そんな漁師の姿を、夢の中の月魚は覗いていた。自分はいま夢を見ていて、その夢の中の自分は船から数メートルと離れていない水面から漁師の姿を覗いているのだと、そんな回りくどい変換を、漠然とした意識の中で感じている。そしてまた、夢の中の月魚はそんな漁師の姿を眺めながら、漁師が地平線の裏側に残してきた娘の姿を想い描くこともできた。夢の中だからこそ可能な、想像の飛躍。場面が切り替わる。

漁師には、ひとりの娘がいた。まだ二十歳そこそこ、遅くなって恵まれた子どもだ。その娘がひとり、灼熱の砂漠を歩いている。日に焼けて真っ黒になった素足から伸びる影は、どちらが実体を伴うものかすら判らないほどだ。娘は頭に乗せた水瓶を両手で支えながら、ゆっくりと砂を踏みしめるように歩いていた。

水瓶の中には、一匹の魚が揺らめいている。さほど大きな魚ではない。闇の中では岩肌に似た褐色の鱗に包まれているが、ひかりを浴びるとうつくしい白銀にきらめく。いまもまた、強い陽射しを受け、その体は白いひかりを纏っている。それはまさに、湖の底に眠る月魚そのものといってよかった。
しかし、と月魚は夢の中で思う。何故、自分は月の支配する国ではなく、太陽のもとにいるのだろうか、と。

小舟が軋む音に、月魚は我に返った。いつの間にか、老いた漁師がこちらを見つめている。その鋭くも凪いだ視線に捕らえられ、月魚は身動きすることもできない。

大丈夫だ、釣り糸に絡め取られたわけではない。自らに言い聞かす。姿を見られたところで、小舟の上の漁師にはどうすることもできない。現に、漁師はそれ以上の動きを見せることはなかった。大丈夫だ、逃げられる。

張り詰めた空気の中で、先に動いたのは漁師の方だった。静かに、ゆっくりと両手で櫂を掴むと、月魚から視線を逸らすことなく遠ざかっていく。月魚は初め、漁師がなにをしようとしているのか判らなかった。彼が逃げ出したのだと気づいたのは、その姿がずいぶんと小さくなってからだ。そして、その時になって判った。夢の中の自らの身体が、巨大で獰猛な姿に変わっていることに。

身体の内側から、ぞくぞくするような歓喜と活力が漲ってくる。月魚は、湖面を蹴って夜の空に舞った。月のひかりを受けて小山と見まごうシルエットが浮かびあがる。派手な水しぶきが飛び散り、あたりが激しく波打った。湖面に着水すると同時に、漁師の舟を追う。いまや立場は逆転しているのだ。自分は捕らえられる側ではない。捕らえる側だ。漁師との距離は、見る見るうちに縮まっていった。

どうやって捕まえようか? 捕食者の本能に衝き動かされるように、月魚は考えた。このまま突進して薙ぎ払ってやるのもいい。けれどこの巨漢を見せつけ、漁師を震えあがらせてやりたかった。すでに射程圏内だ。月魚は跳んだ。再び夜の空に舞いあがった。

その時だった。漁師の舟の中に、小さな水瓶を見つけたのは。

水瓶の中には、一匹の魚が揺らめいていた。さほど大きな魚ではない。岩肌に似た褐色の鱗が、月のひかりを浴びてうつくしい白銀にきらめいている。いつの間に? それが本来の自分であることは明らかだった。漁師はもう、月魚を捕らえていたのだ。

月魚は、眠りに就いたままに水瓶の中を揺らぐ自らの姿を捉えながら、いま、まさに下降に入る。このまま小舟を押し潰してしまうべきか、それとも、見逃すべきか。

繋がれた月が、すべてを見透かすように、夜の空に浮かんでいた。

                                     

                             《了》

 

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   【うさぎ餅】                 高北謙一郎


うさぎを飼ってみた。搗きたての餅が食べたかったからだ。どうにも歳をとってからというもの、自分で餅を搗くのはしんどかった。だからうさぎを一羽、手に入れた。杵と臼ともち米とうさぎ、これで一式だと思っていたら、うさぎが空を見あげて言った。

「月が出てないね。月のない夜は餅を搗くことはできないんだ」

そういうものかと思い、その夜は諦めた。空にはあつい雲が立ち込め、月が顔をのぞかせる気配はなかったからだ。杵と臼ともち米とうさぎを小屋に戻すと、酒を呑んで早々に床に入った。うさぎがもち米を食べてしまうとは、考えてもみなかった。

翌朝、うさぎを叱った。「もち米がなければ餅が作れないじゃないか」

けれどうさぎは悪びれた様子もない。「もち米があっても昨夜は餅が食べられなかったんだから、どちらにしても同じことさ」

なるほどと思い、怒りを鎮めた。

今夜こそはうさぎに餅を搗いてもらおうと思い、昼の間に新しいもち米を買ってきた。

夜、杵と臼ともち米とうさぎを外に出し、餅を搗くよう言った。空にはちゃんと月も出ていた。しかしうさぎは、あたりをきょろきょろと見渡しながら訊いた。「たしかに餅を搗くことはできるかもしれないけど、それを捏ねる相手がいないね」

すっかり失念していた。言われてみればそうだ。杵でもち米を搗いたとしても、それを捏ねる者がいなければ餅は完成しない。どうしたものか? 不器用なわたしには、そんな芸当はできるはずもない。連れ合いのばあさまに頼もうかとも思ったのだが、ばあさまもわたしと同様、もち米を捏ねるのはしんどいようだった。杵と臼ともち米とウサギを小屋に戻すと、ばあさまとめしを食った。明日はもち米を捏ねる新たなうさぎを手に入れよう、そんなことを考えていたら、うさぎともち米を別々にすることを忘れてしまった。

翌朝、うさぎを叱った。「もち米がなければ餅が作れないじゃないか」

けれどうさぎは悪びれた様子もない。「もち米があっても昨夜は餅が食べられなかったんだから、どちらにしても同じことさ」

なるほどと思い、怒りを鎮めた。

今夜こそはうさぎに餅を搗いてもらおうと思い、昼の間に新しいうさぎを手に入れた。二羽のうさぎはたちまち意気投合したようで、狭い庭を飛び跳ねて遊んでいた。

夜、杵と臼ともち米を外に出した。そこで、二羽のうさぎが眠ってしまっていることに気がついた。その姿はまるで遊び疲れた子どもみたいだった。いや、まさにうさぎたちは遊び疲れて眠りこけていたのだった。

無理に起こすことはためらわれた。杵と臼ともち米を小屋に戻すと、またもなにひとつ成果を挙げることもなく床に入った。夜中に二羽のうさぎが目を覚まし、もち米を食べてしまうとは、考えてもみなかった。

                               《了》

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