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掌編 万華鏡・浄化  高北謙一郎

    

こんにちは。恒例の週に一度の掌編投稿です。今回は二部構成。前半は男性視点。後半は女性視点での語りにて。いつものように投げ銭設定。お楽しみいただければ幸いです。



第一部【万華鏡】             高北謙一郎


眠りの中で、自分が夢を見ていることは判っていた。

なぜなら、なんの前触れもなく空から落下する自分の姿を見ることができたからだ。

ぼくは暗くよどんだ雲を突き抜け、降りしきる雨とともに落ちていく。

いつしか落下する自分を眺めていた視点が、落下する自分自身のものに切り替わる。

その目に映るのは遥か彼方の地上だ。どこかの都市だろうか、大勢のひとびとが通りを行き交っている。広い交差点。色とりどりの傘。それはまるで万華鏡のように集散を繰り返し、やがて青い紫陽花を思わせる一群が、大輪となって群舞する。ぼくはその中に落ちていく。それでも恐怖心はない。落下の速度はスローモーションだ。最後はやわらかなベッドに受け止められるように、ふわりと……


日曜日の朝。あるいはもうすぐ昼になろうかという時刻、ぼくはベッドの上でまどろみながら、部屋の隅に置かれた鉢植えの紫陽花に目を向けた。ブリキのバケツめいたアンティークな風情のポットに、色づき始めたブルーが鮮やかだ。そろそろ水をやらないと。

おはよう。もぞもぞと布団から抜け出すと、あくび混じりに声をかける。誰もいない部屋で鉢植えに声をかけるなんて、最初のころは我ながら奇妙に思えたものだが、今ではすっかり日常的なものになってしまった。

窓の外を見る。うっすらと膜がかかったような雨が、音もなく降り続いていた。これからもっと強く降るのだろうか、さっきまで見ていた夢の断片を思い出したりもしたが、今のこの状態ならばそのまま外に出してやるのもいい。グラスに注いだ水を手にしつつ、紫陽花に目を向ける。「少し肌寒いけど、外に出てみるか?」

まるで散歩に行こうと言われるのを待つ仔犬が、ジッとこちらの様子を窺っているみたいだ。紫陽花を育てるようになってかれこれ一年になる。家具や雑貨を扱う小さな店の片隅に置かれていたものを衝動的に買ってしまったのだが、近頃ではもう、ぼくはこの話し相手と意思の疎通ができるのではないかとさえ思う。

古いアパートの一階。上の階にベランダが張り出している代わりに、こちらには狭いながらも庭があった。常備してあるサンダルを履くと、少し大ぶりのポットを抱え紫陽花を外に出す。軒先に置くと、すぐにしっとりとした水滴がそれらを包み込んだ。

そのまま部屋に戻ってもよかったのだが、なんとなく窓辺に腰を下ろした。足もとには紫陽花。前方に見えるのは砂利を敷いたアパートの駐車場だ。その先の道路に、時おり水しぶきをあげて走り去る自動車。長閑といえば長閑な休日だった。

今日は何をしてすごそうか。ぼんやりそんなことを思う。仕事に追われる日々が続いていた。久しぶりの休みだ。本を読もうか、それとも映画でも観るか。あれこれ考えているだけでも楽しかった。そして気がつけばそれを紫陽花に語り聞かせている。あまりひとに見せられる場面とは思えない。

と、駐車場に停められた一台の車からひとりの女性が姿を見せた。どうやらぼくがここに腰を落ち着けるより前に、どこかから戻ってきていたみたいだ。その表情を見ればすべて見られてしまったのは一目瞭然ではあったが、ぼくはぎこちない笑みとともに軽く頭を下げる。彼女もまた、一度は逸らした視線をおずおずとこちらに戻し、小さく会釈を返してきた。二十代の半ばぐらいか、長い髪をうしろで束ね、薄手のブラウスの上に水色のカーディガンを羽織っている。このアパートの住人だろう、何度か顔をあわせたことがある。

「好きなんですか? 紫陽花」

そのまま通り過ぎるのも失礼と思ってくれたのか、彼女はかすかな笑みを口もとに浮かべながらこちらに近づいてきた。夢の中で見た青とそっくりな色合いの傘を差し、ぼくの足もとに置かれた鉢植えに目を向けている。どうやら、少なくとも危険な住民と疑われるようなことはなかったらしい。ふたりを隔てているものは、庭と駐車場とを区切る背の低いフェンスだけだ。ぼくは意味もなく紫陽花の葉に触れながら応える。

「そうですね……どうしてなのか判らないけど、もうすっかり、長く育ててます」

紫陽花は、しっとりと水気を含んでやわらかな質感を指先に伝えていた。けれど同時に、今は見ず知らずの女性が近くに来たことで身を硬くしている。まるでひと見知りの子どもみたいだ。大丈夫、怖いひとじゃないから。心の内でつぶやく。

「せっかく庭があるのに、外で育てないんですか?」

彼女の視線がちらりと斜め上に向けられた。どうやらそこが自分の部屋ということらしいが、たしかに二階には張り出したベランダはあるものの、こちらのように剥き出しの土はなかった。ぼくからしてみれば雑草の始末ばかりで面倒としか思えなかったが、なければないで、やはりうらやましくも思えるのかもしれない。

そんなことよりも、ぼくはこの紫陽花を買った当初から外に植え替えるなどということはまるで考えてもいなかったから、彼女の問いかけには驚いた。ブリキのバケツめいたアンティークな風情のポットに目を向けながら言う。

「実をいえば、そもそもこの鉢が気に入ったからこそ買ったようなものなんです。だから、そうなると部屋に飾るのが自然だった。でも、もしかすると紫陽花には外の方がよかったのかもしれないですね」

「ああ……なるほど。たしかにそのポットは素敵ですね」

彼女は身を乗り出すようにして濡れたフェンスに片方の手を置くと、ぼくの足もとにあるそれを見ながら大きく頷いた。ぼくの中で、彼女に対する好感度が増した。まぁもっとも、初めからそれはだいぶ高いものではあったけれど。

そこから先は、不思議なほどに会話が弾んだ。ぼくは紫陽花を買った、家具や雑貨を扱う小さな店のことを話した。彼女もまた偶然その店を知っていたものだから、ますます話は盛り上がった。気がつけば今日の午後は互いに予定がないという話になり、ならばその店に一緒に行ってみないかと、そんな流れが出来上がっていた。

ぼくたちは一旦わかれを告げ、また後で逢おうと約束を交わした。部屋に戻ると、高揚した気分を落ち着けるためにコーヒーを淹れた。約束の時間までまだ二時間以上ある。なんなら昼食もともにしたいとは思ったものの、さすがにそれは図々しすぎる気がして言い出せなかった。なにしろぼくたちが言葉を交わしたのは、今日が初めてだったのだから。

考えれば考えるほど、それは奇跡的なことに思える。たぶん、素性は知れないにしてもぼくの住んでいる場所が定かであること、そして以前から何度か顔を見かけていたことが、彼女の警戒心を薄めてくれたのだろう。

コーヒーをテーブルに置いた。ソファに横たわり、つい弛みがちになってしまう口もとを意識しつつ、小さく息を吐いた。思えば最近は仕事ばかりで、こんな感情の存在そのものを忘れてしまっていた。誰かとまともに言葉を交わすことさえ稀だった。ぼくにとっての話し相手は……と、そこまで考えたところで思い出した。庭先に置いたままになっている紫陽花のことを、すっかり忘れてしまっていたのだ。

多少の罪悪感を覚えつつ、しかしぼくは立ち上がらなかった。まだ外に出して一時間も経っていない。さっきより少し雨足が強くなっているようにも思えるけど、もうしばらく放っておいても大丈夫だろう。出かける前に取り込んでやれば問題はないはずだ。半ば自分を言い含めるみたいにして、ぼくは大きく伸びをすると、再びソファに身を沈める。なんだか眠たくなってきてしまった。昨夜も持ち帰った仕事を片付けていたので寝るのが遅くなってしまったし、昼前まで寝ていたとはいえ、睡眠時間は充分ではなかった。

もう少しだけ眠っておこうか。アラームのセットをすると、瞬く間に眠りに落ちた。
 

眠りの中で、自分が夢を見ていることは判っていた。今朝と同じだ。ぼくは暗くよどんだ雲を突き抜け、降りしきる雨とともに落ちていく。その目に映るのは遥か彼方の地上だ。広い交差点。色とりどりの傘。それはまるで万華鏡のように集散を繰り返し、やがて赤い紫陽花を思わせる一群が、大輪となって群舞する。ぼくはその中に落ちていく。

と、ひとりの少女がぼくに気づき、地上から指を差した。眼下に密集していたひとびとの視線が上空へと向けられる。口々に何か叫んでいる。そして花々が散り行くように、赤い傘は四方へと割れた。

落下の速度が増した。恐怖より先に、衝撃が全身を駆け巡った。地面に叩きつけられたぼくは、しかしそのまま息を引き取るでもなく、硬く冷たいアスファルトの上に這いつくばっていた。心臓だけがばくばくと高鳴っている。遥か上空から墜落したというショックが、一拍遅れで襲い掛かる。どうして目覚めないのだろう? 意識はすっかり覚醒しているのに、まるで金縛りにでもあったかのように体が動かない。

いつの間に戻ってきたのか、気がつけば周囲には赤い傘を差した野次馬たち。そしてそんなひとびとの間から、ひとりの少女が現れた。落下の途中、皆に注意を促した少女だ。少女はぼくの傍らにしゃがみ込むと、耳もとでなにか囁いた。よく聞き取れない。なにを言っているんだ? 悲しげな視線がぼくを見つめる。少女は小さく首を振ると、踵を返しその場を立ち去る。手にしていた赤い傘を置いて。

待って。待ってくれ。上手く動かすことのできない口で叫ぶ。

けれどそれは声にならない。少女が姿を消すと、野次馬たちの手からも赤い傘が次々と落ちた。ひとびとは皆、悲しげな表情でぼくを見ている。そして小さく首を振ると、静かにその場を離れていった。おい、待ってくれっ! ぼくをひとりにしないでくれっ!

辺りには赤い傘だけが残されていた。まるで死者への手向けのように。

降りしきる雨の中、アラームの音が、どこか遠くの方で響き渡っている。



                                    



第二部【浄化】                高北謙一郎


午後三時。約束の時間になっても彼はなかなか現れなかった。わたしは傘を差したままに、駐車場の自分の車の前でぼんやりと雨空を眺めていた。

ちょっと積極的過ぎたかな、というのが率直なところ。だけどそれとは反対に、よく頑張ったな、とも思う。なにしろ彼は、わたしのことなんて憶えてもいないのだから。

わたしたちが言葉を交わしたのは、今朝が初めてじゃなかった。実を言えば今日これから彼と遊びに行こうとしているお店は、わたしの職場でもあった。家具や雑貨を扱う小さなお店だ。シフトの関係で今日はお休みだったけれど、実際、朝もちょっとした用事があって顔を出してきたばかりだ。狭い店内にはエキゾチックな椅子やラック、さらには洒落たランプシェードや小物などが売られている。いくつかの観葉植物も、雑多な品物たちの間に並んでいた。そう、今から一年前、あの紫陽花を彼が買った時その担当をしたのがわたしだったのだ。彼は忘れてしまっているけど。

毎朝のように、彼を見ていた。出勤前、アパートの駐車場でエンジンを温めている時、彼はちょうど姿を見せる。運転席に座るわたしの前を忙しない足取りで通り過ぎる。駅までは歩いて十分ちょっとだ、きっとこれから仕事に向かうのだろう。そんなことを考えつつ、目の前を横切る彼に「おはようございます」と言ってみる。もちろんその声は届かない。わたしの想いと同じ。それでも彼は、ろくにこっちを見もしないままにいつも頭だけは下げていく。エンジンはかけてあるから、誰かが車にいるということは察しているのだろう。わたしはそんな彼の背中に再び声をかける。「行ってらっしゃい」

彼がお店に入って来たあの日、わたしはすぐに気がついた。だけど彼は違った。

言い出せなかった。「同じアパートに住んでるんですよ」というひと言が、どうしても口に出来なかった。こっちは気づいているのに、という無意味なプライドが邪魔をした。事務的に紫陽花の種類や育て方を説明しただけで、彼との初めての会話は終わった。

本当はもっと色んなことが話したかった。お店で扱う花については、花言葉とかもぜんぶ憶えていた。ううん、そこまで飛躍しなくても、紫陽花の育て方だってあんなテキストに載っているような言葉を並べるだけじゃなくて、もっとほかにあったはずだ。

たとえば、わたしはいつもお店の売り物すべてに声をかけるようにしていた。どんな物に対してもだ。これといって特別な意味があるわけじゃない。単にその方が愛着を感じるし、物によっては意思の疎通が出来ているのかな、と思うこともある。紫陽花にしても、ただ黙って水をやるよりは言葉をかけながらの方が愉しいに違いない。もしかしたら笑われるかも知れないけど、でも仏頂面で商品の説明だけをしているよりは遥かによかったはずだ。そんなことを、ずっとくよくよと考えていた。だから今日、彼が庭先で紫陽花に話しかけているのを目撃した時はうれしかった。だからこそ思い切って声をかけたんだ。

それにしても、彼は何をしてるんだろう? 約束の時間はもう、十五分もすぎてしまっていた。仕方がない。どうせ部屋は判ってるんだし、呼びに行こうか……と、一歩足を踏み出してから、その庭先に置かれた紫陽花に気がついた。さっきまで青かったはずなのに色が変わってる。鮮やかでいて、くすんだような赤。

どうしたのかな? わたしは首を傾げる。怒ってるの? 彼が、本当はあなたじゃなくてその入れ物が目当てだったとか、そんなことを言ったから? たしかにそのアンティークっぽいポットは素敵だと思うけど……それとも、わたしが彼に話しかけたのがいけなかった? 昼間そうしたように、再び彼の部屋の庭先に近づいていく。

この子はわたしのことを覚えているのかな? どこか身構えるような気配の紫陽花を見ながら考える。当たり前のことだけど、お店で売っている品にも、すぐに売れる物とそうでない物がある。長くお店に置かれている品とはわたしもずいぶんと馴染みになっていて、本当に相手の気持ちが判るように感じることもある。だけどすぐに売られていってしまった物は違う。たしかこの子とも、挨拶もそこそこに別れてしまったはずだ。

こんにちは。声をかけてみる。雨に打たれる赤い紫陽花は、どこかさびしげで今にも消えてしまいそうだ。まるで迷子になった小さな女の子が、赤い傘の下で立ち尽くしているみたいだ。「わたしのこと、忘れちゃったかな?」

お店のことを話す。彼が訪ねて来た日のことを話す。わたしたちの、共通の思い出。

紫陽花は、じっと耳を澄ましているみたいだった。わたしは話し続ける。いつしかそれは、彼がお店に来たその翌日にまで及んでいた。

「きっかけがね、判らなくなっちゃったんだ」フェンスの前にしゃがみ込み、紫陽花と目線の高さを合わす。「あなたが買い取られた翌日、やっぱり彼はいつものようにわたしの前を通り過ぎていった。この駐車場で、車の中にいるわたしの目の前を。だけどあの時、わたしは車の外で彼を待つことだって出来た。そうすればさすがに彼だってこっちを見てくれるだろうし、前の日にあなたを買ったお店の店員だってことにも気づいてくれたと思う。そうすれば、それをきっかけに言葉を交わすことも出来たはずだって、今でもそう思う。でもね、少し怖かったんだ。もしも声をかけてみて、それでも彼が気づかなかったら……ううん、たとえ気づかなかったとしても、前の日のことを話せばすぐに判ってはもらえたと思う。でももしも声をかけてみて、迷惑そうな顔をされたらって、そう思ったら、ね。

なんだかいつも朝は忙しそうに通り過ぎて行っちゃうし、夜だっていつ帰ってきてるのか判らない。まさか見張っているわけにもいかないから、帰りを待ってゆっくり話そうなんてこともできない。そんなことを考えていたらつい怖気づいちゃって、わたしはその日も車の中から彼を見送ることしかできなかった。明日こそは、その次の日こそは……何日かそんなことを考え続けて、結局、今さらお店の話題を持ちかけるのもはばかられるぐらいに月日が経ってしまって……だからね、今日、庭先でぼんやりと外を眺めながらあなたに声をかけている彼を見た時、これを逃したらもう、二度と話しかけるチャンスはないって、そう思った。うん、わたしとしては、ものすごい頑張ったんだよ」

自分でもどうしてそんなことを話しているのか判らなかった。けれど話し始めたら止まらなくなってしまった。紫陽花は、相変わらず息を潜めたままにわたしの言葉に耳を傾けている。少しだけ頑なな雰囲気が薄らいだと思うのは気のせいだろうか。

どこかで時計のアラームらしき音が聞こえる。耳を澄ますと、どうやら彼の部屋から聞こえてくるみたいだ。もしかして寝不足なのに無理をさせちゃってるのかな? そう思うと弱気の虫が再び騒ぎ出す。強く首を振る。深呼吸して何とかそれを押しとどめる。

彼のことをもっと知りたい。どうして自分がそれほどまでに惹かれているのか、それだって本当はよく判らない。でも、だからこそその理由を知るためにも、これからもっと彼のことを知りたい。自分に言い聞かせる。

どすんと大きな音が聞こえた。少しすると、ガラリと庭先に面した窓ガラスが開いた。寝ぼけた顔の彼が現れる。「イテぇ……昼寝してたらソファから転げ落ちたよ。というかゴメン、すっかり寝過ごした。あれ? でも待ち合わせって三時半じゃなかったっけ?」

思わず笑ってしまった。なんだかこのひと、思ってたより間が抜けてる。こちらの笑みをどう捉えたのか判らないけれど、彼はにっこり微笑んだ。それから庭先に置かれた紫陽花に目を向けると、急に驚いた声をあげた。「どうしたんだお前? 真っ白じゃないか」

さっきまで赤く染まっていた紫陽花は、純白に姿を変えていた。

それにはわたしも驚いたけど、次の瞬間、白い紫陽花の花言葉を思い出し口もとを綻ばす。たしかに、わたしにはまだこの子の言いたいことは判らない。彼のことも判らない。だけどきっと上手くいく。そう思う。紫陽花に向けて、訊いた。

「花言葉は……寛容、だったよね?」

空から落ちてきたひと粒の水滴が、白い紫陽花の上でやわらかく跳ねた。

                               
                                      

                          了

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