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掌編 混合 高北謙一郎

こんにちは。週に一度の掌編投稿です。今年もあっという間に6月。もうすぐ梅雨入りですね。というわけで、今日は苔とカビのお話。和風伝奇ホラーっぽい作品です。今回も投げ銭設定。お楽しみいただければ幸いです。


【混合】                高北謙一郎


村と村とを隔てる深い森の中、苔むした岩場の陰が、わたしたちの逢瀬の場所だった。

平和な時代ではなかった。周辺の村々では諍いが絶えず、わたしたちが暮らすふたつの村も、対立を深めていた。当然、敵対する部族のふたりが情を交わすことなど許されるはずもない。それでもわたしたちは逢瀬を重ねた。

新月の度、夜には多くの村々で祭りが催された。夥しい炎で外敵から身を護るという側面もあったが、己の力を誇示することが最大の目的だった。やかましい太鼓、けばけばしい衣装、うねり舞う村びとたち……それぞれの部族が沸き返る中、わたしたちはその間隙を縫って夜道を進んだ。そして再会を果たすと同時に、獣じみた交わりを繰り返した。

岩場に横たわるわたしに、おとこが覆い被さる。身体の半分をおとこの熱い体温が満たし、残りの半分を冷ややかな苔が受け止めた。心地よい圧迫に、吐息が漏れる。もとより濃い闇によっておとこの顔を見ることはできなかったが、いずれにしてもそんなことは関係なかった。例えおとこの顔を忘れてしまったとしても、わたしはこのひと時を愛した。

ふたりの呼吸が落ち着くと、夜の森は急速に静けさを取り戻した。近くには清らかな流れがあり、わたしたちはその水に身を沈めた。おとこの大きな手がわたしの身体をやさしく浄めていく。おそらくこの背中には緑色の苔がびっしりと張りついているに違いない。おとこの顔は忘れてしまっても、その手のひらを忘れることはないだろう。


六月。梅雨入りとともに青空は消えた。わたしは古い木造家屋の二階、大広間に敷かれた布団に横たわり、降り続く雨を眺めていた。この分では、祭りは中止となるだろう。今日の夜は新月ではあるが、この天候での開催は難しいと思えた。

もっとも、たとえ祭りが強行されたとしても、今のわたしにおとことの逢瀬は難しいだろう。ここ数日、体調を崩していた。身体の内側に不快な悪寒を感じながら、それでも全身を覆う膜のように、薄い汗が絶えず滲んだ。およそ力と呼べるものは失せ、歩くこともままならない。乱れた寝間着を整える気にもなれず、ただジメジメとした布団に突っ伏しているよりなかった。

もし夜になって雨が止んだら、おとこは現れるだろうか? いつもの岩場でわたしを待つだろうか? それとも、姿を見せないわたしに苛立つだろうか? あるいはそれでもなお、待ち続けるだろうか? 顔も思い出すことのできないおとこを思いながら、身体の芯に微かな疼きを憶える。おとこの大きな手のひらの感触が蘇る。

気分を換えるように、息を吐いた。目を閉じて、周囲に耳を澄ます。ぽたぽたと落ちる雨だれ、木々を揺らす風、そしてむっとするほどの、ひとびとの気配……そう、この部屋には大勢の村びとがいた。女もいれば男もいる。貧しく家を持たぬ者は皆、村長の庇護の下こうして寄り集まって暮らすよりなかった。たとえその代価として、戦に駆り出されるとしても。

「おい、オマエその背中はどうしたんだ?」

不意の声に、我に返った。すぐ傍らに粗野な男がいた。はだけた寝間着から覗く肌を隠そうともしないわたしに下卑た笑みを浮かべつつも、目には嫌悪と困惑が滲んでいた。

わたしの背中には、黒いシミが広がっていた。それは初め小さな斑点となって背中に現れ、やがてびっしりと一面を覆い尽くした。痛みはなかった。しかし洗い流すこともできなかった。まるでカビだ。それはわたしの皮膚の下、やわらかな肉の奥深く根ざしていた。

「おとこ日照りでカビが生えちまったんだろうよ」

わたしは胸もとも露わなままに、男に目を向けた。「あら、お日さまが照りつけてるっていうのにカビが生えちまうっていうのは、なんだか奇妙だねぇ?」

男は小さく鼻を鳴らしただけで、その場を去って行った。普段なら「じゃあ俺が相手になってやろうか」とでも言うのだろうが、この背中のシミに怖気づいているらしい。

考えてみれば、わたしが抱かれたことのある相手はひとりだけだ。

もしも他の誰かがこの身体を抱きしめてくれたら、背中のシミは消えるだろうか? あのおとこのようにやさしく浄めてくれたら、この黒いカビは薄らぐだろうか? 束の間ではあれ想い描いた情景に顔を顰める。そんなことのために他の男に身を委ねるなど、唾棄すべき禁忌だ。もしそれを許すなら、この身は呪われるに違いない。そうだ、このシミは決して密会の代償に課せられた罰ではない。他の男たちから我が身を護るためのものだ。黒いシミがある限り、男たちはこの肌に触れようとはしない。

逢いたい。切に思った。あのおとこに抱かれたのは、もうずいぶんと前の話だ。梅雨空がふたりの逢瀬を邪魔するよりも先に、ふたつの村の諍いは激しさを増した。互いが警戒を強めれば強めるだけ、村を抜け出すのは難しくなった。天候や体調の所為じゃない。ふたりを隔てているのは、村びとたちのくだらない支配欲だ。

急速に怒りの感情が込みあげてきた。何故わたしたちの関係を誰かに邪魔されなければならないのか? 何故そんな理不尽な戒めをわたしたちが受け入れなければならないのか? 従うことはない。そんな要求は突き返してしまえばいい。

悶々とする日々が続いていたからか、決意が固まるまでにそう時間はかからなかった。たとえ這ってでも今夜この村を抜け出してやる。そう思うと僅かだが力が湧いた。問題は、どうやって村びとたちの目を誤魔化すかだ。祭りがなければ、連中はずっとここでぐずぐずと時間を潰しているだけだ。酒でもあれば早々に酔っ払ってしまうだろうが、近ごろではその酒も不足しがちだ。さすがに誰にも見つからずに出て行くのは至難だ。

と、何気なく自分の手に目を向けた時、思わず息を呑んだ。いつの間にか背中のシミが広がっていた。それは手といわず腕といわず、わたしの身体全体を包み込むように、じわじわとその領域を広げていた。もはやわたしの身体はびっしりとカビに覆われていた。

折しも外は夜の帳が降りようとしていた。もうすぐ辺りは闇に包まれる。そうだ、この暗がりに紛れてしまえば……やはりこのシミは、決してわたしにとっての災厄ではなかった。男たちから身を護り、そして今、村からの脱出を助けようとしている。体調を崩したのは、単に急激な変化に対応しきれなかったからだ。その証拠にわたしの身体は今、徐々に活力を取り戻そうとしている。これなら抜け出せる。これなら逢いに行ける。あのおとこが黒いシミを恐れる心配はないだろう。何しろ顔も見えない闇夜の逢瀬だ、見えるはずがない。

やがて夜が空を埋め尽くした。所々に蝋燭の炎が揺らめいたものの、それでこの部屋のすべてを照らし出すことはなかった。部屋の隅、わだかまる影のように蠢く。真っ黒な身体で布団を抜け出し、床を這って進む。誰も気づく者はない。建物を抜け出し、そのまま雨の降り続く外に出る。村を背に、わたしは思う。

もう、ここに戻ることはないだろう。

川のせせらぎに導かれるように、森を進んだ。月のない夜はいつもの逢瀬と変わらず、密やかだった。ようやく岩場に辿り着くと、よろめくように倒れ込んだ。さすがに消耗が激しかった。止め処なく流れる汗と絶え間ない雨で、わたしの全身は濡れそぼっていた。

やわらかな苔が、背中に心地よい。目を閉ざし、大きく息を吐いた。

おとこの姿はなかったが、決して落胆はなかった。どうしてだか、わたしの身体はすでにおとこに抱かれている時のように熱く、そして昂っていた。姿は見えないが、おとこの気配は濃かった。次第に高まる熱に、わたしは喉の奥から声を絞り出す。岩場で悶えるわたしの身体に、苔が付着する。真っ黒なカビと緑の苔が混ざり合い、ひとつになる。まるで二匹の獣が交わっているようだ。わたしは圧倒的ともいえる恍惚の中で達した。

すでに理解していた。おとこはこの場にいないのではなく、緑の苔となってここに根づいたのだと。わたしよりも早く、ずっと早く、おとこはここを訪れていたのだろう。ここでわたしを待っていたのだろう。ひと月かふた月……あるいはもっと早くから。やがておとこの身体を苔が覆い隠した。この身体を、カビが埋め尽くしたように。 

わたしたちは今、分かちがたく混じり合い、ひとつになった。わたしは彼を取り込むと同時に、彼に取り込まれた。もう、ふたりがそれぞれの村に帰ることはない。誰に憚ることもない。悦びと安堵の息が漏れる。わたしはゆっくりと、長い眠りに就いた。


                                                                      

                           了

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