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掌編 孤独の楽園  高北謙一郎

  

こんばんは。週に一度の掌編投稿です。短い物語でも、基本的には長篇に成り得るネタで書いています。この作品は、どこかで長い作品に書き直す予定ですが、その核となった部分はこれ、ということでご紹介。キーワードはウユニ塩湖とウィトゲンシュタイン、かな?

いつものように投げ銭設定。お楽しみいただければ幸いです。



【孤独の楽園】                高北謙一郎


「すべての音には印がある」と、かつて男は言った。「要するに、その音をその音たらしめている核のようなものだ。その音の本質、とも呼べるかもしれない」

すでに六十の齢を超えて数年といったところの、初老の男だ。彼はピアノの前に座っていた。ぼくはその隣で、いま告げられたばかりの言葉の意味を図りかねていた。

彼は続けた。「例えば私が弾く“ラ”と君が弾く“ラ”は同じ音でも微妙に違う。何故か? 私はその音の印を正確に捉え、そしてその存在を完全に把握している。君はまだその域に達してはいない。だからわずかではあれ、君の弾くそれは本物ではない」

彼の指さきが鍵盤に触れた。古い調度品の並ぶひっそりとした室内に響く“ラ”――それが、ぼくが初めて知ることになった本物の“ラ”――ひとつの音が持つ、真の姿だった。


あれから三年の月日が流れた。ぼくはいま、大きなコンサートホールのステージに立っている。眩しいほどのスポットライト。すぐ傍らには艶やかなピアノ。このステージで唯一の、ぼくの相棒だ。客席からは割れんばかりの拍手。ずいぶんと久しぶりの演奏だというのに、よくこれほどまで集まってくれたものだ。深々と感謝の意を示した後、ゆっくりとピアノの前に置かれた椅子に腰をおろす。

目を閉じて、深く息を吐いた。あの日のことを思う。初めて男と出逢った、あの冬の午後を。当時のぼくはすでにそれなりの実績を持つピアニストとして活動していた。一方、彼はこれといった華々しい経歴もない、一介のピアノ教師でしかなかった。

その街には、リサイタルのために訪れていた。夕方からの本番を前に、ぼくは苛立っていた。ホールに用意されている練習用のピアノのコンディションが、あまりにも酷かったからだ。ステージのピアノでも構わないと思ったのだが、なんでもその日の午前中に他のコンサートが組まれていたらしく、まだその後の調律が終わっていないとのこと。まったく、どうしようもない。そんな時、スタッフのひとりが言った。すぐ近くにピアノを教えている男がいると。そこで弾かせてもらえるのではないか、と。

もちろん、いまさら田舎のピアノ教師に教えを乞うつもりはなかった。単に練習する環境を提供してもらいたいと、そう思っていただけだ。まさかそこで、自分がこれまで築き上げてきたものを根底から覆されようとは、思いもよらなかった。

だけどそう……あの日、彼が響かせた音の印――あまりの純度の高さゆえに、ぼくはそのうつくしさの中に恐怖すら感じた。その一音だけで充分だった。彼が自分より遥かにすぐれたピアニストであることを知った。当日も含め、依頼を受けていた仕事のすべてをキャンセルした。これまで住んでいたアパートを引き払い、男が暮らす街に居を移した。

彼のもとに通い始めた。厳格な、修道士のような男だった。屋敷とも呼べそうな邸宅に独りで暮らしていた。起床の時間も食事の時間も、すべて決まっているようだった。あとになって知ったことだが、彼が生徒を募ってピアノを教えていたのは、もう十年以上も前の話だった。そんな彼がどうしてぼくの面倒を見る気になったのか……当時はまったく判らなかった。

とはいえ、結局ぼくは彼から直接ピアノを教わることはなかった。ぼくが部屋にいる限りその片隅に留まってはいたが、彼が自らピアノを弾くことはなかった。ぼくが知っているのは、初めて出逢った日に示された“ラ”という一音のみだ。それでも彼の家に通い続けた。彼が辿り着いた究極の世界――真実の音の楽園に、ぼくも行ってみたかった。

ピアノを弾くにあたり、彼はぼくにひとつの縛めを課した。ぼくは彼によって耳と目を封じられた。耳はコルクの栓で、目は分厚い布で覆われた。戸惑うよりなかった。こんな状態でピアノを弾けと言われても、どうして良いものかまるで見当もつかなかった。確かに盲目のピアニストは存在する。耳の聴こえないままに演奏した天才もいる。実際その状態で鍵盤に触れてみると、空気の震えが身体に届いた。けれど、それですべての音を把握するなんて、とてもじゃないが不可能に思えた。

それでも男が言うには、まずはその音の波動を感じることが「音の印を捉えるための第一段階」であるらしい。最初はすべての音の波動を正確に感じ取ること、次にひとつの音の中にある幾つもの細かな差異を知ること、そしてその波動の中心にまったく揺らぐことのない完璧な無音が生じる瞬間……その時ぼくは音の印を捉えるだろう、とのことだ。

「それはまるで霧深い森に、真っ直ぐなひかりが射し込むようだ」と男は言った。「その時、君の耳と目は開かれる。一直線に伸びる道の先に、うつくしい世界を見るだろう」

ただひたすらに弾いた。視覚も聴覚も奪われた状態の中で、極限までに集中力を研ぎ澄ませた。しかし、それでもそう簡単に進展が訪れることはなかった。文字通り、ぼくは出口のない森の中で当てもなく彷徨い歩くよりなかった。


初めて音の印を感じ取ったのは、彼のもとに通うようになってすでに二年が経とうとしていた、ある冬のことだ。いつものようにピアノに向かっていた。もちろん耳にはコルクを嵌め込み、目隠しをした状態で。これまでの日々、挫折や苦悩、焦燥や葛藤、自信の喪失、あるいは彼に対する疑心……様々な感情を抱え込みながらも、ただ一度だけ彼が弾いた、あの究極とも思える音の響きを忘れることはなかった。おそらくその記憶があったからこそ、あの場所に辿り着けたのだろう。鍵盤に触れた時、突然すっと伸びるような無音、とでもいうのか、不意に道が開けた。波動を削ぎ落とした鋭利な刃物のようなひと筋のひかりが、驚くほどの滑らかさで体の奥深くまで飛び込んできた。
 

瞬間、目に映ったのは晴れ渡る空。これまで視界を覆っていた雲が切れ、突き抜けるような青が広がっていた。そして同時に、自分がこれまでとは別の世界の入り口に立ったことを知った。うつくしい世界だった。滑らかな、氷の世界だ。一面に広がる鏡のような地表、澄み渡る空……見えた、そう思った。辿り着いた。これこそが究極の、無音の世界。

「おめでとう」

声が聞こえた。耳ではなく、身体の深い場所に響いた。氷の上に、男の姿。彼はその世界に佇み、静かにほほ笑んだ。改めて畏敬の念が湧いた。この世界に彼は暮らしているんだ。絶対的な、神の領域に。言葉は出なかった。ただ止め処なく溢れる涙を止めることも出来ず、ぼくはその場に崩れ落ちた。


以来、その世界の入り口に何度か立つことがあった。うつくしくも冷ややかな景色は、常にぼくを圧倒した。男が告げる。自らの立つ氷の上を指し示しながら、早くここに来いと。しかしどうしても、ぼくはその先の一歩を踏み出すことが出来なかった。あちら側の世界には、何ひとつなかった。不純物のない空気は息苦しかった。強すぎる陽射しは痛みを伴った。そして摩擦のない足もとは、歩くことさえままならない。一切の無駄を許さない極限状態の均衡。そこに住まうということは、自分自身もまたその世界と同じ純度を保たなければならないということだ。ぼくにはそれが恐ろしかった。ずっと憧れていた世界だ。探し求めていた世界だ――それでもやはり……ぼくは、神になることは出来ない。


観客たちの拍手が、ぼくを過去から引き戻した。そう、ここはコンサートホール。ぼくはピアノを前に座っている。結局、ぼくが求めたのはこれだ。多くのひとびとの前でうつくしい音楽を奏でること、その先にあるうつくしい世界を想い描き、その理想の姿を共有すること、夢みる世界だからこその、辿り着かないからこその……

あれから男とは逢っていない。もしかすると彼にとってぼくはあの世界を共有できる数少ない同志だったのかもしれない。孤独の楽園に暮らすことの出来る仲間――そんな思いがあったのかもしれない。それを思うと微かな罪悪感を憶える。彼はいまもあの世界に暮らしているだろう。あの研ぎ澄まされた世界に。絶対的な音の先にある、無音の世界に。

ひとつ息を吐いた。ぼくは厳かに、鍵盤の上に指さきを置いた。


                                     

                             《了》

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